人間、なんでもできるってわけじゃない。
 できない事はできないし、努力してもどうにもならん事も多い。
 要するに、できる事をするしかないって事なんだよな。


『――ですから、来週までに企画書、お願いします』
「わかった、わかったって」
 お願いします、と繰り返し、電話は切れた。ったく、自分のミスを他に回しやがって、バカが。
 とは言ったものの、会議でごめんなさい、という答えはない。仕方ないか、と重い腰を上げる。
「……っと、そういやタバコが切れてたな」
 今どきじゃ流行らないヘビースモーカーである俺は、タバコがないと頭が動かない。企画の前に、まずはタバコを買いに行くとするか。
 ボロアパートの一室を出ると、ちょうど隣部屋の兄さんが疲れた顔で帰ってくる場面に遭遇した。
「おう、お疲れみたいだな。どうした?」
「あ、山下さん。いや、駅前で事故があったらしくて。被害者は軽症だったみたいなんですけど、野次馬だらけで……」
「通るのに苦労した、と。そりゃ災難だったな」
 駅前、か。
 兄さんに別れを告げた俺の足は、たった今、耳にした場所に向かっていた。

 駅前に来ると、まだ騒ぎは続いていた。レッカー車が遅れているらしく、横転した車もそのまま転がっている。
「ハデにやったもんだな、こりゃあ」
 横転したバンはガラスが砕け散り、見るも無残な姿をさらしている。
 派手な光景だからか、それとも暇人がこの町には多いのか、やたらと野次馬がいた。これじゃ、そりゃ兄さんも疲れるってわけだな。
 人の流れを見ていると、ふと、遠くにいる婆さんが視界に入った。
 杖をついた姿は、見るからに頼りない。大丈夫かぁ? あの婆さん……。
「あ」
 などと思っている間に、人波に押され、婆さんが転んだ。
「ったく、仕方ねえ」
 見ちまった以上、無視するわけにもいかない。俺は人混みをかき分けるようにして、婆さんに近づいた。
「おい、婆さん。大丈夫か?」
 返事はない。婆さんは倒れたままだ。
 さすがに、おかしいと思った。俺の中で、急速に不安が大きくなっていく。
「おい、婆さん! 返事をしろ!」
 かなり激しく肩を揺さぶる。それでも返事はなかった。
「くそ、意識が飛んでやがるのか!? おい、誰でもいい、救急車ぁ呼べ!」
 騒ぎが徐々に広がっていく。野次馬の目線が壊れた車からこちらに向いてきた。けれど、誰も近寄ってこようとはしない。
「役立たずばっかかよ……!」
 ポケットに手を突っ込んでケータイを取り出したところで、警官がやって来た。
「どうしました!?」
「婆さんが転んで意識がないんだ! 救急に連絡してくれ!」
 警官の反応は素早かった。ひとりがすぐさまパトカーに走り、もうひとりが婆さんの近くにしゃがみ込む。
「意識、呼吸は――なし。まずいですね、これは」
「言わなくたってわかってるよ、んな事は」
 ちくしょう、今日は厄日かよ!
 倒れた婆さんを前に、しかし、俺にできる事は何もない。
 血管が破裂していたりすると、下手に動かすのは危険だ。それがわかっているからか、警官も手出しはしない。
 俺たちは、苦しんでいる婆さんを前に、何をする事もできない。
 ただ、心の中で祈り続けた。
 早く、早く来いよ! 救急車!

 沈黙が重かった。
 痛いほどの空白の時間。俺は警官への説明も終えて、治療室前の椅子に座っていた。
 俺が病院まで付き添う義務はなかった。けれど、目の前で倒れた婆さんを見た以上、中途半端な状態で終わらせたくなかった。
 説明も終わった俺にできる事は何もない。
 さっき家族らしい連中も見かけたが、取り乱しているようで、警官が休憩室の方に連れて行った。だから、今は俺ひとりがここにいる、という事になる。
 ちっちっち。
 どこかで時計の針が動く音がする。それがやけに大きくて、不安が募った。
 どれくらい、そうしていただろうか。
 治療室の扉が開き、手術を終えたらしい医者が姿を見せた。
 医者はぐるりと見回し、
「あなたがご家族ですか?」
「いえ。私はただの付き添いです。家族は、休憩室の方に」
 言って、俺は医者の顔を覗きこんだ。
「……手術は、どうでしたか」
 聞くまでもなかった。医者の顔を見れば、答えは一目瞭然だ。
 案の定、医者はゆっくりと首を横に振った。
「失礼」
 医者はそのまま、休憩室の方に歩いていった。
 そうか、助からなかったか――。
 俺は、何もできなかった。それだけが悔しかった。
 目の前でひとつの命が失われていっているというのに、何もできない不甲斐なさ。圧倒的な無力感。嫌になるほどの絶望。
 人の命は重い。その重みを知る人間ほど、目の前の命には敏感になる。
 両親をすでに亡くした俺には、婆さんの姿が、オヤジやオフクロの遺体と重なって、辛かった。
「くそっ、んな事を考えてどうする」
 俺も気分転換するか。
 足を休憩室に向ける。途中、医者と警官のペアとすれ違った。ふたりとも、さすがに暗い面持ちだった。
 休憩室に入ると、家族らしい男の姿が見えた。その前には、不思議な女の子が立っている。
「……、ありがとう。母さんと会ってくる」
 息子が出て行き、部屋には俺と女の子が取り残された。
 改めてみると、本当に、不思議としか形容のしようがない子供だった。
 夜空色のワンピース。白い肌に、深紅の瞳。存在がおよそ現実離れしていて、まるで夢の世界から抜け出てきたような、異様な雰囲気があった。
 俺がじっと見ている事に気がついたのか、女の子が俺を見た。
「こんばんは。私はアンジェラ。貴方は?」
「え? ああ、山下、だけど」
 会話が成立した。その事になんとなく後押しされて、俺は聞いてみる事にした。
「えっと、君は、一体?」
「私? 私は死導者。死を導く者」
 死を導く。
 普通に聞けば、子供の冗談だろう。けれど、この女の子――アンジェラが言う限り、ただの冗談には聞こえなかった。
 まるで、本物の死神のような。
「何を、していたんだ」
「道を示す事。正しいのか、間違っているのか、それは当人次第だけれど」
 何もかもが冗談のようなのに、何もかもが冗談に聞こえない。どうしたってんだ、これは?
「うすうす気がついていると思うけれど、私は人間ではないわ。言ってみれば、霊のようなもの。今は貴方にも見えるような姿になっているから、わかりにくいでしょうね」
 真に受ける方がどうかしている台詞だ。それがわかっているのに、俺の頭は、アンジェラの言葉が真実であると告げていた。
「なら、信じるか」
 俺のあっさりとした態度にむしろ不信の念が芽生えたのか、アンジェラは軽く首を傾げた。
「そんなに簡単に信じられるものなの?」
「俺みたいな仕事をしていると、不思議な出来事なんていくつも出会う。その中のひとつと割り切るだけだよ」
 答えると、アンジェラはかすかに笑った。
 その笑顔を見て、こいつはイイ奴だとわかった。そういう人間でなきゃ、あんな純粋な笑い方はできない。
 そう思うと同時に、疑問が沸いた。口にするかどうか迷って、聞いてみる事にした。
「……なあ、ひとつ、聞いていいか」
「どうぞ」
 俺は息を整え、言葉を吐く。
「君は、どうしてそんな事をしているんだ?」
 すぐには答えず、アンジェラは視線を床に落とした。
「――私は、人が好きなの」
 チリン――
 腕輪に付いた小さな鈴が揺れて、音を鳴らす。それで、アンジェラは落ち着いたらしかった。
「人間は不完全で、弱くて、故に進化し続ける。驚くべき速度で成長し、愛し愛され、助け合う。私は、そんな人間という存在に、憧れた」
 それは、人間の綺麗な面だ。ドラマやマンガになるような、人間の美しい側面。
「けど、人間は綺麗ばっかじゃない。あんたなら知っているはずだ」
 人と付き合おうとすれば、それは嫌でも気がつく。
 時に蹴落とし、時に裏切り、時に拒絶し。
 弱いからこそ、人間は否定されるべき嫌な面も持っている。憧れには程遠い、暗い側面だ。
 純粋な奴なら、それだけで人を見限ってしまいたくなるような事をする奴も、たくさんいる。
 なのに、アンジェラは諦めていない。人間に希望を見出している。それが、単純に不思議だった。
 アンジェラは、頷いた。
「ええ。時に汚い面、残酷な面もある。だからこそ、よ。
 綺麗ばかりの存在であるなら、私は必要なかった。必要とする人間がいるから、私は赴くの。人の下へ」
「必要と、か」
 立派な子だ。
 人間の良い面も悪い面も、両方を知っていて、それでも包み込むような愛情を持っている。なかなかできる事じゃない。あるいは、人間ではないからそうなんだろうか。
 だとしたら、人外なんて存在も、あながち悪いもんじゃないのだろうか。
「あー! 見つけた!」
 すっとんきょうな声に視線を泳がせると、いつの間にやら部屋の隅に女の子が立っていた。両手を腰に当て、どこか怒ったような空気だ。
「アンジェラ! 待ち合わせの場所と違うでしょうが、ここ! エルがいなかったらまーた行方不明になるところよ?」
「きゅ!」
 肩口に乗っているオコジョみたいな動物が頷く。やけに人間くさい動作だな……。
「えっと、君の知り合い、か?」
 アンジェラはちらりと俺を見上げ、頷いた。
 女の子は俺に視線を送り、近づいてきた。
「どーも。あたし、志野ケイ。こっちはエルミネア。見てわかると思うけど、アンジェラの仲間よ」
「山下だ」
 返し、俺は改めて女の子を見た。
 桜色の着物、だけなら普通だが、下は白いミニスカートという変な格好をしている。たしかに、この服装だけで普通じゃない。
「アンジェラ、もう用事は済んだわけ?」
 肩に乗ったエルミネアをアンジェラの頭に乗せながら、ケイは聞く。
「ええ。示すべき道は、もう開かれた。後は、彼次第」
 さっきの息子の事だろう。顔を見る限り、あいつも吹っ切れたような顔をしていた。おそらくは、母親を亡くした悲しみを、すぐに乗り越えるだろう。
「そ。それじゃ、行こうか」
 歩き出そうとするケイとアンジェラ。その背中に、俺は声をかけた。
「なあ。最後にひとつ、聞かせてくれないか」
 ふたりが揃って振り向く。見つめるまなざしを見返し、俺は言った。
「あんたら、寂しくないのか?」
「さみしい? なんで?」
 わからない、という表情のケイに、俺は重ねる。
「俺は、アンジェラの生き方みたいなもんを聞いた。でも、それってたぶん、辛い事の方が多いだろ? 普通は死者の存在だの、死導者なんて存在だのを認められるわけがない。君らは、人間の良い面よりずっと多くの悪い面を見てきたはずだ。
 そんな、認められない生き方で、寂しくないのか?」
 俺だったら、きっと耐えられないだろう。
 死神のような扱いをされ、忌み嫌われ、拒絶される。こちらの想いは届かない。
 それは、絶望的な孤独だ。たったふたりで、寄り添うようにして生きる。それは、とてつもなく悲しい事だ。
 ケイとエルミネア、両者の視線がアンジェラに集中した。アンジェラは向き直り、俺に答える。
「私は、寂しさなんて感じている暇はないわ。ケイがいて、エルがいて、母がいて、七人の兄弟がいて。紅葉や公平や陽平、まみもアルバートも。
 私たちは、決してひとりではない。私たちという存在を否定する人間は数多くいるけれど、その反面、少数でも私たちを認めてくれる存在も、確かにいる。孤独は、遠い昔に置き忘れてきたわ」
「あたしは、サタンだのルシフェルだのが兄弟ってのは納得いかないけどね」
 その言葉に、少しだけ安心した。こんな、いい奴らが悲しむ姿は、見たいもんじゃないから。
 こんな連中にも仲間がいて、認めてくれる人がいるという事が、なぜだか自分の事のように嬉しかった。
「そいつは、良かったな。君らにも母親なんているんだ?」
「いるわよー。さみしがりって言ったら、むしろあっちね。アンジェラを真っ白にしたような子なんだけど、偉そうなくせにさみしがりでさ。本当に、面倒な子よ」
「そりゃまた、小さそうな母親だな」
 ふう、と息を吐き、俺はふたりを見つめた。ふたりも俺を見つめた。空中で視線がぶつかり、弾けた。
「俺は、君らが羨ましいね」
「ありがとう。互いに憧れる関係というものも、面白いでしょう?」
 いたずらっぽく笑い、アンジェラは今度こそ、俺に背中を向けた。
 チリン――
 鈴の音色が聞こえた直後、ふたりの姿は消えた。
 誰もいなくなった部屋の壁を、俺はじっと見つめる。
 あのふたりは、自分たちにできる事を精一杯にやって、仲間を得たんだろう。努力をして、その成果を得たんだ。
「俺に、できる事、か」
 俺は、婆さんすらも守れないほど、非力だ。
 でも。俺は、何もできないわけじゃない。俺にだって、何かができる。アンジェラのように、ってのは難しくても、俺なりの何かは。
「っし、気合を入れるか」
 まるで活力に満ち溢れたかのように、体が軽かった。きっと、あのふたりのおかげだろう。
 踏み出す一歩が、力強く感じられた。

 事務所を抜け、会議室に入ると、バカが椅子に座っていた。
「あ、山下さん。新しい企画、できました?」
「ああ、できたぜ。俺の人生における最高傑作だな」
 頷き、俺は鞄から企画書の入ったファイルを取り出した。
「へえ? 山下さんがそこまで言うなんて、珍しいっすね」
「お偉方も絶対に納得するぜ、これなら。そういう不思議な力のある企画なんだよ」
「なんすか、それ」
 企画書を取り出しながら、バカは苦笑した。
「対象は主に女の子、けど、大人にも見て欲しい作品だな。中身のないような原作付きじゃないぜ、完全な独自作だから」
 自信が、俺の口元に笑みを作る。揺るぎない確固たる自信。それをくれたのは、あのふたりだ。
「そう、それで、タイトルは――」
 今の俺は、生まれて初めてってほどに、力があった。


 夜空を闊歩かっぽする影。その後ろを、空に飲み込まれてしまいそうな少女が追随する。
「アンジェラってさ、時間はルーズよね。あたしの方がしっかりしてるってのもどうなのよ?」
「ごめんなさいね」
「……反省してる?」
「きゅーう」
 多少の事があろうとも、ふたりは仲良さげに歩く。暖かく、強い絆が両者の間に繋がっている。
 それは、一朝一夕で作る事はできない、目には見えない確かなもの。
「――ケイ、エル。私と出会い、共に歩んで、良かったと思う?」
 ふと、死導者はそんな事を聞いた。桜色の眷属は漆黒の獣と顔を見合わせ、当然とばかりに言う。
「なーにを言ってるのよ。あたしがアンジェラ以外の誰と一緒にいればいいっての?」
「きゅー」
 その答えに満足したのか、死導者は柔らかにほほ笑んだ。
「幸せね、私は」
「あたしは、アンジェラはもっと幸せになっていいと思うけどね」
「十分よ」
 もう、ひとりではないのだから。
 少女の想いは、届いている。
 チリン――



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