わたしは敵を殺さなければならない。
 それは、わたしが生まれた時から決まっていた事だ。
 そこに理由を考えた事は、なかった。


 わたしは郊外にある捨てられた家に向かい、足早に進んでいた。
 そこには、変魂が住み込んでいるという。訪れる不良たちなどを傷つけ、自分だけの結界を守っている、正真正銘の悪霊だ。
 敵は倒す。それはわたしの役目だ。教会に所属する、わたしの使命だ。
 つらつらと考え事をしながら歩いていると、目的の建物が見えてきた。
 大きさはそれほどでもないが、車を置けるほどの大きさがある庭といい、瓦屋根といい、現代日本の状況を考えたら十分に贅沢な作りだ。
 外見だけは、古びているだけでまだ住めそうな雰囲気がある。それもそのはず、この家から住人がいなくなったのは、ほんの一年前の話だ。
 唯一の住人は、一年前、亡くなった。老衰だったと聞くが、どうやら、その人が悪魔になったらしい。老衰で悪魔になった人はかなり珍しい。
「まあ、死者の事情は関係がありません」
 わたしに与えられている役目は、悪魔となった人間を神の御許に送る事。悪魔とおしゃべりをして、その辛くも悲しい状況について、詳しく知る事ではない。
 正門の扉に手をかけると、扉は開いていた。そのまま中に入る。
 玄関の扉も鍵が壊れていた。あっさりと、廃屋の中に侵入を果たす。
「ん……?」
 気配は、二階から漂ってきた。意外と強く、濃密な気配だ。けれど、殺意や悪意といったものは感じられない。気抜けするほど、何の力も込められていない気配だった。
「わたしに気づいていないのか――?」
 なら、好都合だ。隙を見計らい、何かをされる前に潰せばいい。
 足音を忍ばせて階段を進み、一挙に飛び上がるようにして二階に突撃した。
「なっ!?」
 そこで、わたしの足は止まってしまった。繰り広げられていたのは、あまりに予想外の光景だった。
 そこにいたのは、巨大なハエだった。わたしと同じか、あるいはわたしよりも大きいという、異常な大きさのハエ。それが床を踏みしめ、窓の向こうに目を向けていた。
「おう?」
 ハエが、ゆっくりと振り向いた。
 背筋が、ぞくりと寒気に震えた。
 それは、恐怖とは何の関係もない、生理的な拒絶反応だった。これだけの大きさを持つ化物を前に、何の感情も持たない方がおかしい。
 わたしの知る悪霊は、全て人間の体を元にしていた。いかに化物然とした姿でも、ここまで異様な存在はいなかった。
「あー、人間か。ここに何の用事だぁ?」
 わたしの心中を知ってか知らずか、ハエは勝手に言葉を紡いでいく。
「と、このままの姿で話しかけてもわからんかぁ。おう、という事は、姿は見えてないって事か。なら、わざわざ見せなくてもいいよなぁ」
「な、にを、言っているのですか」
 わたしの口が、震えていた。ようやく搾り出せた言葉は、それだけだった。
「何を言っているって、思った事だけどな? って、あれ? 通じてる? オラの言葉ぁ、わかるのか?」
「あ、なたは、何者ですか。あなたが、ここに巣くうという、悪魔?」
「ああ、悪魔。懐かしい言葉だなぁ。うん、オラ、悪魔だ。ただ、ここに住んでいるわけじゃない。たまたま通りがかっただけだ」
「たまたま?」
 ハエはずいと迫る。思わず、わたしは後ろに下がってしまった。
「オラは別に決まった寝床を持っているわけじゃないんだぁ。気分でふらふら、あちこちを飛んでいる。んで、たまに変魂を見つけたら、優先して食うようにしてるんだぁ。人間は食っちゃいけないけど、変魂は食べてもいいんだよな?」
 こいつの言う事は、何一つとして理解できない。言動の全てがわたしを混乱させる。
 わかる事は、こいつがただの変魂ではないという事。そして、変魂を食べる力を持っているという事。
「変魂を食べる、変魂?」
 それは、悪魔と呼べるのか? わたしの頭に疑念が浮かぶ。
「あう? オラは変魂じゃないぞ。オラは気にしないけど、サタンとかアスモデウスとかは怒ったりするから、言葉は選ばなきゃダメだぁ」
 その瞬間、わたしの頭で全てが繋がる。
 変魂ではない悪魔。サタン。アスモデウス。巨大なハエ。すなわち、ハエの王。
「あなたは、まさか、ベルゼブ?」
「ん、よく知っているなぁ。そうだ、ベルゼブだ」
 死導者、ベルゼブ。それは変魂よりも上位に位置する、人間とは格の違う力を持った悪魔。
 わたしなど、とても勝ち目のある相手ではなかった。それ以前に、戦う必要のない相手だった。
 わたしは知っている。死導者とは人間の敵ではないという事を。
 わたしは知っている。死導者とは生者との境界を壊す者ではないという事を。
 わたしは知っている。死導者とは人間を殺さぬ存在となったという事を。
 つまり、わたしは無駄足だったわけだ。
「それはそれで、よかったわけですが」
 そうと決まれば、ここに用はない。
 死導者が人を殺そうとする存在ではない事はわかっている。それでも、わたしと死導者は決して相容れて良い存在だとは思えない。
 死者と生者。交わってはいけない両者。不必要に馴れ合うつもりは毛頭ない。
 その場を去ろうとしたわたしの背中に、ベルゼブの声が飛んだ。
「もう行くのか?」
「わたしはここに巣くう悪魔を退治しに来ただけです。敵がいないと判明した以上、留まる理由はありません」
「そうか。大変だなぁ」
 わたしは横目にベルゼブを見た。巨大なハエは、何を考えているのか、まるでわからない。そもそも、表情というものが存在しない。
 そういえば、こいつはわたしという敵を前にしたのに、身構えたりしなかった。わたしが手を出さないとわかっていたのだろうか? それとも、絶対の自信があるのか。あるいは、ただの馬鹿かもしれないけれど。
 どれにしろ、わたしには関係がない。
「そうだ。オラぁ、暇なんだ。ついでに、少し一緒に行っていいかぁ? あんたと一緒なら、変魂に会えるんだろ?」
「は?」
 あまりに予想外の台詞に、わたしは思わず足を止め、後ろを振り向いてしまった。
「あなたは、本気で言っているのですか?」
「当然だぁ」
 決まりだ。こいつは、本物の、馬鹿だ。
 わたしは浅くため息をつきながら、言った。
「いいですか? わたしは退魔師。あなたは死導者。本来なら、ここで戦ってもおかしくはない関係性なのですよ?」
「でも、あんたはオラに仕掛ける気持ちがない。なら、それでいいだろぉ?」
「わたしが特別にあなたたちについて知っているだけです。でなければ、あなたを見て攻撃しないわけないでしょう」
「んあ? なんか変か?」
「その姿が人間に受け入れられるものであると、本気で考えているわけではありませんよね?」
 しばらく思考に没頭するベルゼブ。わたしも、なんとなく動きそびれ、その場でベルゼブの回答を待っていた。
 やがて答えに辿り着いたのか、ベルゼブは器用に足で足を叩き、
「なら、こうすればいいんだな」
 言うやいなや、ベルゼブの全身を生が包み込んだ。わたしの扱う生と似ているが、どこか違う雰囲気がある。
「ふううううう!」
 全身を取り巻く生が徐々に形を変えていく。うねうねと動き、そして――。
「な、んですって?」
 そこに立っていたのは、巨大なハエなどではなかった。十代もなかばほどの、整った顔立ちを持つ少年だった。
「これでいいか? これなら大丈夫だろ」
「そ、それは?」
「ん、マモンに教えてもらった技術にオラの能力を組み合わせた、独自の術だぁ。人間で言うところの、『きぐるみ』みたいなもんだな」
 これが、きぐるみ? どう見てもあれだけの質量を持ったハエが入るとは思えない大きさだけど……。
 いや、死者のやる事なんだ。生者のルールに当てはめて考えても仕方ない。そもそも、一般人には見えない姿という時点で異常なのだから。
「さ、それじゃ、行こうか」
 わたしの手を引いて歩こうとするベルゼブ。その段階になって、わたしは焦った。
「ちょ、ちょっと待ってください! どうしてわたしが、死導者と一緒に行かなければいけないのですか!」
「損するわけじゃないし、いいじゃないかぁ」
「いけません! 第一、わたしとあなたは敵同士でしょう!」
「どうして?」
「どうしてぇ? 今まで、あなたたちは自分が何をしてきたと思っているのですか!」
 バチン、と手を弾く。こればかりは、譲るわけにはいかなかった。仮に今の死導者が人を喰らわないとしても、やはりこいつらは、わたしたちの敵なんだ。
「どれだけの人を殺し! 喰らい! 傷つけ、苦しめ! どれだけの許されざる罪を犯してきたと思っているのですか!」
「んあ、すまん」
「……何ですって?」
 ベルゼブは、本当に申し訳なさそうな表情となり、頭を深く下げた。
「オラぁ、サタンなんかと違って、別に争いたいってわけじゃない。ただ、腹が減ると、何も考えられなくなってなぁ……。つい、目の前の魂を食っちまうんだ。それが人間を苦しめちまった。そんなつもりはなかったんだけどなぁ」
「それでは、あなたは殺すつもりはなかったと言うのですか。あれだけの人を喰らっておいて、それでも!」
「その通りだぁ。言っても理解できんかもしれないけどなぁ。人間と死導者だと、そこらの感覚は違うって前にアンジェラに教えられたしな。ほら、人間だってメシは食うだろ? 時には腹が一杯でも。それは、どうしてだ?」
 わたしの眉が寄っていく。自覚できるのに、制御はできなかった。
「それは、食事そのものを楽しむためでしょう」
「うん。オラも似たようなもんだ。ただ、オラが食べるのが人間で、お前たちが食べるのが家畜ってだけだ」
「そのような理屈が通ると、本気で思っているのですか?」
「もちろんだ」
 深く頷くベルゼブ。その動きに迷いは感じられなかった。
「お前たちは、大なり小なり差別主義者だ。オラたちからすれば、人間も動物も植物も、生きている事に変わりはない。ただ、簡単に生を集められるから、単純に美味いから、あるいはもっと外道な理由で、人間を選んだだけなんだから」
 わたしの手を、生が包んだ。握る拳に力が入り、殺意がみなぎっていく。それを、意志の力で強いて抑えた。
「あなたたちにとって、人間は他と同じ食料に過ぎないかもしれませんが――」
 それでも、瞳に揺れる意思の炎は、消せた自信がない。
「わたしたちにとっては、掛け替えのない同胞です」
 ベルゼブは頬をかき、天井を見つめた。目線は上向いているが、瞳には何も映っていない。
「理解はできないだろうなぁ。オラも、お前らの事は理解できん。マリアやアンジェラはわかるのかもしれないけどなぁ。だから、許せとか理解しろなんて言わないよ。ただ、そういうもんなんだって知ってくれればそれでいい」
「それで、わたしにどうしろと?」
「どうしろとも言わないさぁ。人間と死導者が仲良くなれるとも思っちゃいないよ。オラぁバカだけど、これでもお前の何十倍と生きてきたんだ。色々と見てきたし、知ってきた。だから、わかる。オラとお前たちは、生まれながらの敵同士だ」
 わたしを見つめるベルゼブは、笑っていた。晴れやかに、楽しそうに。
 それは、悪意や殺意とは最も縁遠い顔。わたしの表情と、最も縁遠い顔。
「でも、ずっと敵だったオラたちとアンジェラも仲良くなれた。もしかしたら、死導者と人間が一緒にいられる日も来るかもしれないだろ?」
 ああ、こいつは本物の愚鈍だ。
 なのに、何故だろう。彼の言っている事は、全てが殺意を覚えるほどに嫌悪すべき言葉なのに、どこか信じたいと思わせるものがある。
 わたしも、心の底では、そうなればいいと思っているような気がしてくる。
 人と魔が、手を取り合う。生者と死者が相容れる。そんなの夢物語だ。死んだ事が納得できないから悪霊になるのであって、生者と死者が相容れるはずがない、のに。
 わたしも、できる事ならば、そんな未来がいい。戦わないで済む未来なら、その方が、ずっと。
「くっ!」
 いけない、わたしは何を考えているんだ。教会の人間が、悪魔祓いが、死者と手を取り合う事を考えてどうする?
 わたしは強く、足を踏み出す。階段に向かうと、慌ててベルゼブが追ってきた。
「……わたしは、あなたの行動に関知しません。好きにしなさい」
「ああ、好きにするよ。そうだ、あんたの名前は?」
「どうして名乗らなければいけないのです」
「オラも名乗ったんだぞぉ?」
 浅く息を吐き、わたしは答えた。
「三上愛、です」
「おう、よろしくなぁ、愛」
 はぁ。わたしは、どうしてこんな任務ばかりが回ってくるんだろう。

 それから数日。わたしは、本当にベルゼブと行動を共にする事になってしまった。
 教会の任務がない間は、わたしも自由な行動が許されている。とは言っても、こんなところを仲間に見られれば、わたしはすぐにでも反逆者だ。
 たまったものではない、と追い出そうとも考えたが、できなかった。
 やはり、わたしは心のどこかで望んでいるのだと思う。戦わずに済む日々。同胞だった者たちに拳を向けなくて済む日々を。
 悪魔とは言っても、元は人間。生きた人だった者。それを、今は危険な存在になったからといって、殺す事にためらいがないはずがなかった。殺さずに終えられるなら、それが一番に決まっていた。
 そんな心があったから、わたしはベルゼブを捨てられなかったんだと思う。これが、わたしの望んだ答えなのだから。

 そんな、ある日の事。
 部屋の電話が鳴り、わたしは受話器を持ち上げた。聞こえてくるのは、純粋なイギリス英語クイーンズ
『愛、任務だ』
 受話器を握る手に力が入る。いつまで経っても、この電話には慣れない。
「――はい」
『詳細はメールで送る。ちょっとややこしい裏の事情があるからな。それを読んで、まだ質問がある場合は、こちらに連絡する事。いいね?』
「はい、了解しました」
 受話器を置き、わたしは部屋の隅に置いてあるパソコンの電源を入れた。
「お? 機械を使うのかぁ」
 ひょこりとベルゼブが顔を出す。こいつも、最近は私の部屋に入り浸りだ。もっとも、他に行くあてがあるわけではないようだから、当然なのかもしれないが。
「すごいよなぁ、人間は。こんな箱で、世界中と連絡できるんだろ?」
「わたしも苦手なんですがね。任務のためには仕方ありません。言うなれば、仕事のためです」
 カチカチと操作し、メールボックスを開く。これを覚えるだけでもかなり時間がかかったな、などと考えながら、仕事のメールを開いた。
「……!」
 その内容に目を走らせる。それは、わたしが想像していた以上に、嫌な任務だった。
「仕事って事は、変魂に会いに行くのか?」
「いえ。少しだけ、違います」
 電源を落とし、わたしは立ち上がった。本当に、わたしに回ってくる任務は面倒なものや嫌なものばかりだ。
「変魂じゃないのかぁ? 教会の仕事なんだろ?」
「ええ。彼はまだ死んだばかりです。悪魔になるには、早すぎます」
 死亡日時は、昨夜。悪魔になるには最低でも数日を要するそうだから、さすがにまだ悪魔にはなっていないだろう。
「ただ、彼は特殊なようですから」
「特殊?」
 首を傾げるベルゼブに、わたしはその名前を告げた。
「ライアン・C・フューザー。イギリスの教会所属の、悪魔祓いです」

 ライアンの死因は事故死。死者は関連しない、本当に純粋な事故だったらしい。
 けれど、悪魔祓いが死んだ、その事実は大きな意味を持つ。わたしたちは、絶対に悪魔になってはいけないのだ。
 悪魔を狩る集団から悪魔が生まれる。それは、最低の事。それを避けるため、我々は仲間が死んだ時、真っ先に現場に出向き、死者となった仲間を殺さなければいけない。
 日本にイギリスの教会員はほとんどいない。実際、ライアンもイギリス住まいだ。今回は、旅行中の事故だったらしい。
「厄介な事をしてくれたものです」
「んあ? でも、ただの死者を送るだけなんだろぉ? そんなに難しいのか?」
 現場に向かうわたしに、ベルゼブは当然のようについてきた。言っても一緒に来ようとするので、わたしも止めない。
「相手が素直に従ってくれれば難しくはありません。けれど、普通の人間が事故で死んだとして、それを素直に受け入れられると思いますか?」
「んー、まあ、無理だろうなぁ」
「そう。ですから、こじれやすい問題ですし、その際に反撃される事も少なくない、というわけです」
 死んだところで、能力が使えなくなるわけでもない。それが余計に厄介だ。
「――あれか」
 誰が手向けたのか、道路の交差点に菊の花が飾られている。それを、ひとりの中年男性が見下ろしていた。
「ライアンさん、ですね」
 わたしが英語で声をかけると、幽霊が振り向いた。生気のない瞳が、わたしを見た途端、色を取り戻した。
「教会の人間か。私を殺しに来たのかね?」
「はい。あなたも悪魔祓いだったのであれば、素直に逝っていただけますか」
「残念だが、そうもいかない」
 肩幅に足を開き、男性は構えた。
「わたしは最後の言葉を、妻や子供に、自分で伝えたいのでね」
「許可はできません。遺言があるというならば、わたしがアークビショップに連絡して伝えて頂きますが」
「それでは駄目なんだ。わたしが満足できない。すまないが、退いてくれないかね。ちょっとでいいんだ、そうすればわたしはイギリスまで戻る。君に追討の命は出ないだろう。戦わずに済むんだ、それで十分ではないかね」
「戦わずに済むというのは魅力的な言葉ですね。けれど、許すわけにはいきません」
 わたしも足を開き、全身に生を行き渡らせる。
「今まで誰一人として許してきませんでした。わたしは彼らに何と言い訳すればいいのですか? それに、最後の、などと言い出せば、いずれ更なる生を求めるようになります。そうなった時にはもう遅い。次の瞬間、あなたは悪魔に成り果てる」
 鋭い眼光がわたしを射抜く。それを、正面から見返した。
「もう一度、言います。許可できません。素直に死んで欲しいのですが」
「相容れないようだね」
 そう、相容れない。そんな事は最初からわかっている。死者は、生者と違うのだから。死者が何かを望んだ時点で、それは悲しい結末になると、決まっているのだから。
「では、行きます」
 走り出そうとした瞬間、わたしの視界を何かが埋め尽くした。
 反射的に横に跳ねる。そうして、わたしはその正体に初めて気がついた。
「ベルゼブ……!?」
 わたしの前に立ちはだかったのは、ベルゼブだった。ライアンをじっとにらみ、わたしを守ろうとでもするかのように、手を広げていた。
「無茶するな、愛。お前、戦い、嫌いなんだろぉ?」
「だからといって、あなたが何をするつもりですが、ベルゼブ」
「オラぁ、人間の気持ちはわからん。自分のためでもないのに、どうしてそんなに真剣に戦うのかも。でも、愛は悪い奴じゃない。それがわかった。だから、助ける」
「あなたが、わたしの代わりに戦うとでも?」
 こくりと、頷く。唐突な事態に警戒しているのか、ライアンも動かない。
「ベルゼブ、あなたには関係がありません。これは教会内部の問題であり、解決するのは教会の人間でなければなりません。あなたの出る幕ではない」
「オラぁ、お前みたいに頭が良いわけじゃない。だから、自分のやりたい事をする。今、オラぁ、お前の代わりにこいつと戦いたい!」
 言うが早いか、ベルゼブは飛び出す。ライアンは反射的に手を突き出した。
愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけない。それらの霊が神からのものかどうかを試しなさい霊魂の全てにその真意を問う!」
 目には見えない、生の塊が飛び出す。ベルゼブはそれをちらりと見つめ、やおら大きく口を開いたかを思うと、いきなり飲み込んでしまった。
「なっ!」
 無茶苦茶だった。攻撃を食べてしまう能力者なんて、わたしは見た事も聞いた事もない。
 そのままの勢いで突撃したベルゼブは、ライアンを押し倒し、馬乗りになった。
「それで、愛。どうするんだぁ」
 事態を傍観していたわたしに、ベルゼブは優しげな声音で話しかけてきた。
「どう、するって?」
「こいつを倒すのは、お前じゃなきゃいけないんだろぉ? だから、最後は任せる。殺したくないなら殺さなければいい。殺したければ殺せばいい。どっちにするんだぁ?」
 ああ、こいつは、最初からこのつもりだったんだ。最後の全権をわたしに委ね、任せるつもりだったんだ。
 なんていう、愛情。
 そう、これは、愛情と呼んで差し支えないものだ。死者が、生者を愛している?
 そんな、馬鹿な事を。
「でも、それが事実――か」
 わたしはゆっくりと近づいた。ライアンは必死にもがいているが、ベルゼブはぴくりとも動かない。
「どうするか、決めたのかぁ」
「ええ。わたしは教会の人間です」
「それで、いいのかぁ」
「後悔がないはずがないでしょう。けれど、ここで野放しにしてはならない事もわかっています。
 ……結局、背負うしかないのです。それが、わたしたちのような人間に与えられた、業のようなもの」
 拳を開き、手をライアンの額に乗せた。ポケットから聖水の入った小瓶を取り出す。
「さようなら、ライアン。あなたの死は、わたしが背負います」
「ふざけ、嫌だ、やめてくれっ! 私はまだ死にたくない! 死にたくないんだ!」
「それは、皆、同じです」
 聖水を十字に降りかけ、目を閉じて祈る。
「天の国で、いつかお会いしましょう」
 主よ。罪深い我らを、赦したまえ。
 耳をつんざくような悲鳴が、響いた。

 帰路をベルゼブと共に歩む。距離が、心なしか近づいていた。
「あれで、よかったのかぁ?」
「後悔はある、と言ったでしょう。けれど、あれが最善でもあった」
 本当に、ベルゼブは愚鈍だ。それだけに、まっすぐでもある。自分の感情に忠実で、まるで子供のように、それにつき従う。
「ありがとう、ベルゼブ。あなたのおかげで助かりました」
「おう? どうしたんだぁ、一体。悪魔祓いがオラに礼なんて」
「悪魔も悪魔祓いも関係ありません。助けてもらったから礼を言う。当然の事です」
 そう、それだけなんだ。
 わたしは、心のどこかで悪魔を特別視していた。わたしたちとは異なる存在であると、勝手に思っていた。
 違うんだ。人が生に恋焦がれて悪魔となるように、生粋の悪魔もまた、わたしたちと同じように感情を持ち、生きようとしているんだ。
 みんな、変わらない。自分の事でも手一杯になるような、小さな存在。
「ベルゼブ。あなた、人間と同じ食事はできますか?」
「できるぞ。人間の飯も美味いよな」
「では、今日はわたしが料理をしましょう。礼です」
「……本当にどうしたんだぁ?」
 くすりと笑ってしまった。口元に浮かぶ笑みは、消せない。
「少しだけ肩の荷が下りた、という事でしょう」
「あう?」
 不必要なものまで、背負う事はない。やはり、わたしはまだまだ未熟だ。
「お、一番星」
 空を見上げると、きらりと輝く星があった。あれだけ綺麗な星でも、ひとりでは輝けないんだと思うと、少しだけ勇気が沸いてきた。


 空から、ふたりの少女が地上を見下ろしている。
「ねえ、アンジェラ。あれってどーゆー事?」
「私にも、わからないわ」
 混乱した視線を地上に送る死導者たち。その視線の先には、ひとりの死導者と、ひとりの人間がいる。
「あれって、イギリスの退魔師でしょ? それがどこをどうすれば、ベルゼブと一緒なんていう珍事になるわけ?」
「想像もできないわね。けれど」
 夜空色の死導者は、小さく笑んだ。
「良い光景ね」
「……そりゃそうだけど、なんかこう、危なっかしい気がする」
「大丈夫よ、きっと」
 チリン――
 くるりと回る死導者は、どこか楽しげだった。
「ベルゼブはね、私たちの中でも最も幼いの。善悪の区別が弱く、いけないと言われても、それがどうしていけない事なのか理解が追いつかない。だからいつも、誰より多くの生者を喰らっていた」
「んで、真っ先に潰されていたバカ、と」
「そうね。でも、彼は少しだけ羨ましいわ」
 桜色の眷属の肩に、黒い獣が飛び乗る。そうして、揃って奇異なものでも見るかのような目つきで死導者を見つめた。
「アンジェラ、大丈夫?」
「きゅう、きゅーきゅー」
「死者に医者は必要ないわ」
 少女たちを見上げ、少女は言う。
「ベルゼブは純粋。彼は荷を負わない。荷を荷と思わない。思ったままに行動し、すべきと考えた事を本能のままに行う。腕輪を得た今の彼は、おそらく、人間の良き隣人となるはずよ」
「えー? なーんか、想像できないなぁ」
「きゅう」
 夜空色の死導者は、茜色に染まる道を行く少女に目を向けた。
「ほら、彼女もまた、彼に救われている。打算も何もない、考えなど存在しない、彼の無垢なる部分のおかげでね」
 それが心の底から嬉しいとばかりに、少女はくるくると回った。
 眷属と獣は互いに顔を見合わせ、それぞれの主を見やる。ため息をもらしながらも、その顔は、どこか喜びを持っていた。
 チリン――



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