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確かに想っていた。これは恋だった。 愛しいから、怖くて、切なくて。 踏み出せなかったせいで、全てを失ってしまった。 あたしがあの人に出会ったのは、中学に入学して一週間くらい経った頃。部活の説明会で、体育館の大きな壇に上がったあの人は、とても格好悪かった。厚い眼鏡に詰め襟の制服姿。しかも、たったひとりだった。 緊張のせいか、原稿を何度もつっかえながら読んでいる。新入生の中から何度か失笑が漏れた。それでも彼は、懸命に原稿を読んでいた。 あの人の番が終わると、まばらな拍手。あたしは拍手すらしなかった。話も半分くらいは寝てたから、全く聞いてなかった。 校則で、説明会から一週間以内に部活を決めなきゃいけない。あたしは迷ってた。内気で友達作りが下手なあたしには、まだ友達もいなくって、やりたい事も何もなかったから。 それでも何かに決めなきゃって思いながらあちこちの部活を回って、行き着いた場所は学校の裏。日も当たらない場所に、その部室があった。 『写真部部室』って書かれた汚い看板。独立した小さな小屋。今でもどうしてその小屋の戸を叩いたのか、理由が思い出せない。 小屋には説明会にいたあの人がひとりでいた。あたしが入ると、すごく嬉しそうに出迎えてくれたっけ。 なんでも写真部は先輩が卒業したせいで、あの人以外の部員がいないとか。三人以上が部活成立の条件だから、今のままだと廃部になっちゃう。 かわいそうと思っちゃったのかな。まるで興味がないのに、あたしは写真部に入部した。でも、まだひとりだけ足りない。あたしは苦手なのに部活勧誘に走り回り、結果としてあたしよりもおとなしそうな新入生を掴まえた。その子――片瀬裕美が入部してくれる事になり、三人だけの部活動が始まった。 部長である並木先輩は、写真部で唯一の写真の知識がある人。あたしや裕美は全く知識がなかったから、先輩に教わりながらいろいろと覚えた。カメラの使い方、現像のやり方、ネガの保存の仕方。たった一年しか違わないのに、先輩は写真に関してはすごく詳しかった。 段々と写真に慣れていくにつれて、先輩がカメラをいじっている時の子供っぽい横顔を眺めている時間が長くなった。 そう。あたしはいつの間にか、先輩に恋していたんだ―― 告白する勇気なんかなくて、それを唯一の友達である裕美に相談した。裕美は複雑な笑みを浮かべ、『怖いなら無理する事はない、まだ時間はあるんだし。』って言ってくれたの。今ならわかる。その言葉は、あたしを騙すためのものだったって。 並木先輩と裕美が付き合い出したって知ったのは、夏休みが終わってすぐだった。 あの日、久しぶりに部室で会った先輩は、照れ笑いを浮かべながら『裕美と付き合い始めたんだ』って言った。あたしは、信じられなくて立ち尽くした。裕美はあたしの想いを知ってたはずなのに。こんな、抜け駆けして。 次の日、あたしは裕美に詰め寄った。朝、教室の近くにある階段の裏で。 裕美はあたしに向かって平気な顔で言った。『早い者勝ちでしょ』って。『告白しないあんたが馬鹿なんじゃない』って。『あんたよりあたしの方がかわいいって彼が言ってたよ』って。 そこから先はあんまり覚えていない。気付いたら階段の裏で膝を抱えて泣いていた。チャイムが鳴っても、体が動かなかった―― あれから一週間。次の日から、あたしは登校拒否を続けてる。もっとも、登校拒否をしようと思った時から熱が出て、未だにまだ下がっていないから、行きたくても行けないんだけど。 今は水曜日の十四時。昨日の夜から迷ってたけど、実行する決心がついた。 あたしはベッドから起き上がり、部屋を出た。マンションの一室があたしの家。お母さんはパートで今の時間はいない。 誰もいない家は静か。あたしはバスルームに向かい、バスタブにお湯を入れ始めた。 お湯がたまるには時間がかかる。その間に部屋に戻り、机からカッターナイフを取り出した。それを持って、お風呂に戻る。 座って五分くらい待つと、必要な分のお湯がたまった。あたしはお湯を止め、カッターの刃を手首に当て、目をつむり……思い切り引いた。 そろそろと目を開くと、赤い線が出来ていた。もう一度、もう一度。次々に赤い線が生まれ、あたしの左腕を朱に染める。 十本くらいの線が出来たところで、あたしは左腕を湯船に突っ込んだ。不思議と怖くもないし、痛くもなかった。 モウ、コンナセカイナンカイラナイ。 頭が白くなってきた……。もう、終わりが近いのかな。 チリン―― なんだろう。鈴の、音色……かな? ダメだ。イシキガトギレル……。 ん……。なんだか、暖かい。 目を開けてみると、見慣れた天井が目に入った。ここ、あたしの部屋だ。 あれ? でも、あたしは確か、手首を切って自殺したはずじゃ……。 左腕を確認してみた。切り傷があるはずの場所は、引っ掻いたような痕があるだけ。傷なんてなかった。 「どう、して……?」 あたしは、確かに死んだはずなのに!? チリン―― 「そう。貴女は確かに一度、死のうとした。けれど、それは私が止めた。だから貴女は生きている」 え……? あたしのベッドの横に小学生くらいの女の子が立っている。黒くて長い――腰くらいまでの長さがある髪。夜空みたいな色のワンピース。白い肌は柔らかそう。 「あなた、誰?」 どうしてだろ。知らない子なのに、とても安心できる。何となく、すごく優しい子だなって思う。 「私は死導者。死を導く者。名は、アンジェラ」 「死導者……?」 「そう。死導者」 大人びた雰囲気でアンジェラは頷いた。 「どうしてあたしを助けたの? そんなの、あたしは望んでないのに」 「私も普段なら自ら死を選んだ者の選択を間違いと決め付けたりはしない。幼かろうと浅はかだろうと、それがその者の生だから。ただ、貴女の場合は特別なの」 「特別?」 「ええ。貴女が生きる事を望み、そのためならば生を失う事をためらわない者がいた。だから私は貴女を助けたの」 「私が生きる事を望んだ人……?」 頷き、アンジェラはその名を口にした。 「並木拓也。貴女が心の底から愛しいと想う男よ」 「並木、先輩が――!?」 ガバリど跳ね起き、あたしはアンジェラの肩を掴んだ。 「あなた、並木先輩に逢ったの!?」 「ええ。彼は残る生が僅かだったから、通り掛かりながら気になったの」 「先輩の生が僅か……? それって、先輩が死ぬって事!?」 「……その通り」 先輩が、死ぬ? どうして? ううん、今はそれどころじゃない! 「アンジェラ! あたしを先輩のとこに連れていける!?」 「え、ええ。それは可能だけれど? でも、危険よ」 「じゃあ、すぐに連れてって! 早く!」 「……わかったわ。私の手をしっかり握って。緩めてはいけない。絶対に離さないで!」 窓を開き、アンジェラはあたしの手を強く握った。あたしも負けないくらい握り返した。 次の瞬間、あたしは空を跳んでいた――。 町の総合病院に並木先輩はいた。先輩は持病があったという事を、あたしはその時になって初めて知った。 先輩が入院したのは一昨日。それまでは元気だったのが、急に病状が悪化。集中治療室の中で、まだ危険域を脱していない。 病院に到着した時にアンジェラに教えて貰った台詞が、頭の中をぐるぐる回る。嘘だって言って欲しい。 気付けば、あたしはお化けみたいな状態だった。壁も扉もすり抜けていく。でも、今はそんな事を気にしている余裕はない。 集中治療室の中で先輩は横になっていた。呼吸器を口につけた姿が痛々しい。 その隣に、先輩が座っている。意味がわからないって? だってそうなんだもの。たぶん、隣に座っているのは――先輩の、幽霊だ。 「並木先輩……」 「佐伯、助かったか?」 あたしが涙混じりに頷くと、先輩は人の好さが垣間見える笑顔を見せた。 「よかった。学校に来てなかったから心配になってさ。そしたらアンジェラが佐伯は死ぬかもしれないなんて言って。そんな事を言われたら、黙ってなんかいられないだろ?」 「いいんですか、先輩? 彼女がいるのに、それ以外の女の子のために命を賭けちゃって」 「裕美と付き合っていたって、お前が大事だって事には変わりないじゃないか」 先輩は当たり前のように言う。だから先輩は暖かくて、あたしはそんな先輩が好きになったんだ。 「ごめんな、佐伯。お前を苦しませたの、俺なんだよな」 「先輩。そんな、そんな事ないですよ。あたしが勝手に悩んだだけで、先輩は関係ないですよ」 「俺さ、知らなかったんだ。お前の気持ち、アンジェラにヒントを貰うまで気付かなかった。今の俺には何もできないけど、せめて……佐伯、お前は幸せになってくれ」 どうしよう……。涙が止まらない。 悲しくて、嬉しくて。何を言ってるんだって怒りたくて。いろんな想いがごちゃまぜになって、その全てが涙で表現されているんだ。 「先輩、先輩……。死んじゃイヤですよォ……。また写真の事とか、教えて下さいよォ……」 「ごめん。それは、できない。それにな、佐伯。俺はお前の気持ちを知らなかったと言っても、裕美を選んだ男なんだ。なのに、自分の彼女よりも他の女の子を大事にした、最低な人間なんだ。だから……俺の事なんか、忘れちゃってくれ。お前にはお前の道があるんだからさ。その道に、俺はない方がいいと思う。前に進んでくれ、佐伯」 チリン―― 「……残念だけれど、時間よ」 アンジェラが静かに告げ、先輩の姿が薄くなっていく。 「先輩ッ! 行かないで下さいッ!」 「ごめん、佐伯。俺は逝かなきゃいけないんだ」 呟くように答え、先輩の姿が掻き消えた。 「先輩ッ!」 あたしは涙を流しながら、すでに虚空となってしまった場所を抱いた。 並木、先輩――。 あたしがリスカをして三日後。あたしは、学校に来た。会わなきゃいけない相手がいるから。 放課後、あたしはまっすぐに校舎の裏にまわった。小さな部室は、日陰の中で今にも吹き飛びそう。 「やっぱりここにいた」 中には裕美がいた。先輩がいなくなった事で存続できなくなった写真部は、もうすぐ潰れる。裕美はそのための片付けをしていた。 「七菜! 久しぶり。もう大丈夫なの?」 「裕美こそ大丈夫なの? 先輩が、あんな事になって」 裕美は少しだけ顔を伏せ、すぐにあたしに目を向けた。 「大丈夫だよ。あたしはあたしで強くなるって決めたからさ」 「……裕美は言ったよね、早い者勝ちだって。告白しないあたしが馬鹿だって」 裕美は微かに息を飲み、けれど、それ以外に変化はなかった。 「裕美と先輩が付き合っているって知った時、あたしは絶望した。死にたくなった。けど、今は前に進める。あたしはあたしのままだから。簡単には吹っ切れないけど、背負う覚悟はできたから」 「……怒ってる、よね?」 あたしは思い切り頷いた。 「うん。裕美はズルしたから。でも、結局……動いたのは裕美だもの。あたしは動く勇気がなかった。だから、こうなったのは当たり前だよ。あたしが怒ってるのは、裕美が話してくれなかった事。それだけだから。それを、言いたかったの」 そしてあたしは、本当に自然に笑みを漏らした。 「もし次があったら、今度は正々堂々と勝負しよ。そりゃ、次なんてない方がいいけどさ」 「……うん。ありがとう、七菜」 目元を拭う裕美を、あたしは笑って許せていた。 先輩、これでいいんですよね? あたし、ちゃんと約束通りに進んでますよ。だからもう……心配しないで下さいね。あたしは、あたしは、大丈夫ですから。 夜空にふたつの影が舞う。ひとつは小さく、ひとつは儚げで。 「あれで良かったの?」 「ああ、ありがと。やっぱり、俺には誰かを幸せにはできないみたいだな」 「そんな事はないのだけれど。今回は、単にとても不幸だった。それだけの事。そう、それだけの事なのよ」 「はは、なんだそれ。ま、いいか……」 少年は長く伸びると、少女と目線を合わせた。 「じゃ、後は頼むよ」 「わかったわ」 少女はくるりと回り、その手に宝剣を握る。世の摂理に従って、不条理を断ち切るために。 チリン―― |