生活するには金がいる。欠く事はできない。 金を稼ぐには、仕事をしなきゃならない。 金が足りないなら、もっと働くしかない。俺は、そう思っていた。 眠い。ここのところ、ゆっくり休んだ記憶はなかった。世は不景気。そのあおりを受けるのは、いつだって俺たちのような底辺に生きる人間なんだ。 車の刻む単調なリズムが眠気を誘う。できれば、このまま疲労のままに眠ってしまいたかった。けど、そういうわけにもいかない。いくらなんでも、運転しながら眠るわけにはいかない。 時計を見る。午前三時ちょうど。予定より少し遅れていた。 「ちっ……」 舌打ちし、速度を上げる。 あー、ねみーなー……。 どうしてこうなっちまうんだろう。仕事の総数は減ったはずなのに。 問題は、単価まで安くなった事か。シェアだかなんだか知らないが、仕事の量を大きく減らさないために、単価を下げるなんて真似をしやがったらしい。 こっちは元々、ぎりぎりで生活してんだ。量が減っても困るが、単価が下がったってやっぱり困る。 仕方なく、運転代行なんていう金にならない副業をするハメになるんだ。 この車の持ち主は後ろで熟睡している。恐竜が目の前を通っても起きなさそうな、見事な眠りっぷりだ。客でなければ、殴ってやりたい。 「憎むべきはお国かねぇ」 大きな欠伸をする俺の視界に、何かが入った。瞬間、反射的にブレーキを踏む。 夜中の町に響く轟音。ギギギィ、と耳障りな音が衝撃と一緒になってやって来た。 車が完全に止まったところで、俺は窓を開いて外を見た。 車の後方に、黒い影が転がっていた。遠くて暗いせいで、それが何なのかはよくわからない。 「くそっ!」 俺は車から飛び出し、影に走り寄った。そこで、初めてそれが何なのかわかった。 「……ぬいぐるみ?」 どこかで見た事がある、黄色い熊のぬいぐるみが転がっていた。薄汚れ、赤い服は色あせて穴が開いている。 見れば、ごみ捨て場に袋が山積みになっていた。ここから転がり落ちたんだろう。 気が抜けると同時に、馬鹿らしくなった。まさか、ぬいぐるみを怖がるなんて。 チリン―― 『仮に。もしもそれが人間であったなら?』 どこかで声がしたような気がして周囲を見渡した。しかし、誰もいない。 「……人間だったら?」 声は、確かにそう言った。 もし本当に人間だったら、冗談にならない。人の命が失われたかもしれない。 だが、こんなものは運転する人間にはついてまわる話だ。俺が注意したところで、どうにもならない。 「そう、どうにもならないんだ」 自分の声が、なぜだか言い訳がましく聞こえた。 自宅に辿り着いた時には、もう朝日が昇っていた。安い賃貸マンションの一室では、まだ妻も子供も眠っている。うるさくしないように、静かに家に入った。 ため息に疲れが乗る。こればかりはどうにもならない。 またすぐに家を出なきゃならない。その前に、軽くシャワーを浴び、新しい服に着替えた。 子供部屋を覗くと、一人娘がすやすやと寝ていた。蹴り飛ばしたらしい布団を掛け直し、部屋を出る。 「じゃあ、行ってくるよ」 返事をしない娘に挨拶し、家を出ようとした時、ごそごそと物音がした。 「初恵か」 「よーう、久しぶりだねぇ。生きてる?」 パジャマ姿の初恵は、乱れた頭をぽりぽりとかいていた。 「シャレになってねーぞ」 「はは、だろうねぇ」 まだ眠そうな初恵は、それでも笑顔を見せた。 「ま、死なない程度にやんなさいな。ウチん事は気にしなくていいから」 「悪い」 「夫婦に良いも悪いもないの」 こいつの、こういうさっぱりしたところを、俺は気に入っている。 「じゃ。行ってくる」 言い残し、家を出た。途端、朝日が目に染みた。 「〜〜ッ!」 まぶしさに目を細めながら、ふと思う。 俺は、何のために生きているんだ、と。 生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのか。今は、それさえも区別できない生活をしている。そんな、最低限の事すら。 とはいえ、休むわけにはいかない。独り身ならどうとでもなるが、娘や初恵は、俺が守らなきゃいけない。そのためなら、多少の無理には耐えられる。いや、耐えなきゃいけないんだ。 マンションを出て駐車場まで行くと、俺の車を女の子が眺めていた。娘より少しだけ上の年代だろうか。整った顔立ちをしている。 俺の気配に気付いたのか、女の子は振り返った。 「朝早くから大変ね」 「あ? あ、ああ……」 見た目の年齢とは裏腹な、やけに落ち着いた態度。それに、俺の方が戸惑う。 「だいぶ疲れもたまっているようだけれど、休まないのかしら?」 「休んでいる暇がないんだよ」 「暇、ね」 女の子の目が細まり、視線が鋭さを増す。子供なのに妙な迫力があった。 「貴方のわずかばかりの生活を守るため、残る人生を罪なき者の血色に汚すの?」 「――?」 「今のままでは、貴方はいずれ取り返せないものを失うわ。人血を吸った体は人の世では決して認められない。貴方は生きる事で未来を失う。貴方以外の者の命と共に」 無理をしている事は自覚している。このままでは事故を起こすかもしれない、それもわかっている。 だが。 「大人には大人の事情があるんだ。わかったらさっさと学校に行きな」 俺は車に乗ると、女の子が退いた事を確認して発車させた。 子供に偉そうに言われるまでもなく、わかっちゃいるさ。けど、やめられないんだ。自転車と同じで、足を止めたら、すぐに止まって倒れてしまう。 それが、大人の世界のルールだから。 昼間は普通に会社で仕事。仕事量が減っている今、残業はない。 代わりに、俺はその足で運転代行をしている会社に向かう。ここで上着を着替え、連絡が来るのを待つのだ。 最近は飲酒運転の取り締まりが厳しく、居酒屋まで車で行って、帰りは代行業に運転を頼むという事も多い。 椅子に座り、眠気覚ましのコーヒーを飲みながら待っていると、連絡が入った。 「おい、行くぞ」 「ああ」 運転代行は、基本的にふたりでひとつの組になる。行きは車で向かい、帰りは片方が社の車を、片方が客の車を運転して帰る、というわけだ。 「昨日みたいに途中で腹が痛くなったとかやめてくれよ。おかげで到着が遅れて値切られただろうが」 俺が文句を言うと、相方は今日は大丈夫、なんて言っていた。こいつの大丈夫はあまり大丈夫じゃない。 「にしたって、つまんない仕事だよなぁ。こっちは酒も飲まずに車の運転。客はほろ酔い気分で、しかもよく絡んでくる。底辺もいいとこだ」 「しゃーないだろ、こっちだってやりたくてやってるわけじゃない」 相方も、俺と同じように、昼間は別の企業に勤めている。不況のせいで給料をカットされ、ローンの支払がキツくなったと聞いた。どこも、同じようなものだ。 「今日はお前が客の車を運転しろよ」 「わかってるって。大丈夫、大丈夫」 「あんまり繰り返すなよ。ただでさえ嘘くさいんだから」 「ひでーなっと。お、ここだここ」 車はとある居酒屋の前で止まった。そこに、ネクタイを外したサラリーマンらしい男が立っている。こいつが今日の客か。 「運転代行サービスです。お車はどちらに?」 「駐車場にあります。こっちです」 割としっかりした口調に足取りだった。これでも、酒を飲んだ以上は運転してはいけないんだから、変な話だと思う。 「これです」 「げ」 相方が小さく声を漏らした。真っ白な外車だ。傷のひとつでウン十万、ヘタすりゃ百万単位になるかもしれない。 「ご愁傷様」 ぽんと肩を叩き、俺は社の車に戻った。 レシーバーで行き先を確認し、先に発車した外車に随伴するように、俺も車を走らせた。 これまた不景気のせいなのか、最近は少し道路が空いている気がする。この方が運転しやすくていい。 法定速度通りの、馬鹿正直な運転。客の車に傷を付けるわけにはいかないし、代行中に警察に目をつけられるわけにもいかないから、結局はこういう運転スタイルになる。けど、こういう運転には欠点があった。何より、眠くなりやすい。 「くそ……」 軽く目をこする。今日になってから眠ったのは、ほんの一時間ちょっとだ。 だが、明日は土曜日。会社も休みで、昼間は寝る事ができる。それまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせ、俺はアクセルを踏み続けた。 チリン―― 『だから、後悔する事になるのよ』 「……!?」 確かに、声がした。ラジオなんてついていない車なのに。どこから、誰の声が!? 「おいおい。眠くて頭まで変になっちまったかぁ?」 冗談めかして言っても、背筋の寒気はどうにもならなかった。 ミラーなんかで車内、さらには車外を探す。どういうわけか他に車の気配はなかった。前方に、客の車の白いシルエットがぼんやりと見えるだけだ。 どういう、事だ? 本当に俺の空耳なのか? それにしては、やけにはっきりと聞こえたような……。 考えながら、視線を前に戻した。そんな、俺の目に。 「ッ!」 それが何かなどと考える前に、俺は強くブレーキを踏んでいた。昨日も聞いた、道路を滑る嫌な音と感覚が全身を駆け巡る。 そして、昨日とはひとつだけ、違う音が聞こえた。 ――ドン、と。 「……!」 俺はレシーバーの緊急発信のボタンを押し込みながら、車から飛び出した。 俺の目は、確かに捉えていた。桜色の着物を着た、若い女の子の姿を。 俺の耳は、確かに捉えていた。車が何かにぶつかる、重い音を。 俺の体は、確かに捉えていた。車に走る、ありえない衝撃を。 全ての情報が、俺にひとつの結論を出させる。それは、最悪最低の結論。予期していた、けど、予期される中で何よりも避けたい結論。 「人を……!」 言葉に出すのが怖くて、俺は首を振った。そして、車の後方を、おそるおそる覗き込む。 「あ、れ?」 そこには、予想されたものは何もなかった。それどころか、本当に何もなかった。 人の姿も、車の姿も、血の跡も何かが壊れた形跡も誰かが傷ついた痕跡も、本当に何一つとして存在しなかった。 「でも、さっきは確かに!」 目が、耳が、体が感じていた。夢なんかじゃなかった。あれは間違いなく現実の出来事だ。 「おい、どうしたんだ!?」 いつの間に戻ってきたのか、相方が俺の隣にいた。俺は何もない道路を指し、 「ここで……女の子を、はねた」 「事故か!?」 相方はきょろきょろと見渡した。緊迫したその表情が、やがて、いぶかしげなものに変わっていく。 「で、被害者はどこだよ?」 「それが、見当たらないんだ」 「見当たらないぃ? おい、バカ、寝ぼけたんじゃないだろうなぁ?」 「違う! 確かに見たし聞いたし感じた! 車は間違いなく女の子に当たったはずなんだ!」 「そこまで言うなら、車の方を見てみようじゃねーか」 相方と一緒に、会社の車の前に回った。 車は、発車する前と同じ、綺麗に磨きこまれた姿をさらしている。 「おい。これのどこに事故の跡があるってんだぁ? ああ?」 「嘘、だろ?」 俺は車の表面をなでた。そこには、でこぼこなんて、欠片も存在しなかった。 「疲れているから夢でも見たんだろ。ったく、余計な事をすんじゃねーよ」 相方はなおもぐちぐちと何かを呟きながら外車に戻って行った。 けど、その後ろ姿を茫然と眺める俺に、言葉なんて届いていなかった。 「夢だってのか。あの衝撃が」 それこそが、まるで夢のような話にしか、思えなかった。 結局、今日は疲れているんだろうという事で、早めに帰宅できる事になった。日付が変わる前に家に帰るのは、本当に久しぶりの事だ。 家の前まで行くと、誰かが待っていた。近づいて、それが、あの女の子だという事に気付く。 「君、は」 「少しは懲りたかしら」 ふと見ると、女の子の後ろにも誰かが立っていた。高校生くらいの、桜色の着物を着た女の子――。 「桜色?」 そうだ。さっき、俺が見た影。俺の車に当たったはずで、けれど見つけられなかった女の子。 それは……、桜色の着物を着ていた。 「じゃあ、まさか、君がさっきの!?」 「そーよ。車にも当たったって言えば当たったわ。ちょっと痛かったかな、さすがに」 高校生は腕をさする。 「もうすでにわかっているとは思うけれど、私も彼女も普通の人間ではないわ。いえ、私は、元からして人間ですらない。 私たちは、死導者。死を導く者。ゆえに、誰よりも死を知っているつもりよ」 女の子はとてとてと俺の足元まで歩いてくると、俺の顔を見上げた。 「ねえ。貴方も理解しているはずよ。現状は打開せねばならないと。もちろん、仕事をやめてしまえば生活は苦しくなる。それは、新たな悩みにも繋がるわ。それが最善である証拠は、どこにもない。けれど」 深紅の瞳が、俺だけを見つめている。じっと、俺だけを。 「少なくても、このままでは最悪の事態だけに繋がっている道。避けるためには、道を外れるしかない。道の外は険しく、辛い事ばかりよ。逃げたいと思うかもしれない。それでも私は、貴方に罪を犯して欲しくはないし、死ぬ必要のない者まで死ぬような事にはなって欲しくないの」 その目は、あまりに真剣で。誰よりも誰よりも、ただ、他人の事だけを想っていて。 それが、俺には、不思議でたまらなかった。 「どうして」 そこまで言葉を吐き、俺の口は開かなくなった。女の子が、首を傾げる。 「何かしら?」 促され、ようやく言葉が漏れた。 「どうして、そこまで真剣になれるんだ。何の関係もない俺のために。見た事さえない相手のために」 女の子は一瞬、きょとんと子供らしい表情を見せた。やがて、穏やかに微笑む。 「私は、幸せに生きて欲しいだけ。そのために、私が何かできるのであれば、なんでもするわ。それが、私が選んだ道だから」 他人の幸せのために、いばらとも言える道を行く覚悟。 そんなもの、俺には、なかった。 「ああ。そうだよな」 わかっている、なんて、ただの言い訳だった。本当は、何一つとして理解しちゃいなかった。 俺は、結局、自分の事しか考えてなかったんだ。 チリン―― 小さな鈴の音色が、俺の心を静めてくれる。これも、この女の子の力なんだろうか。 不思議な子だ。いや、もしかしたら子供じゃないのかもしれない。なんだか、百年前から生きていると言われても、素直に信じられるような気がした。 「わかったよ。もう、心配しなくていい」 俺の言葉に納得したのか、女の子は最後に小さく笑うと、俺とすれ違うように廊下の向こうに消えていった。その後を、桜色の女の子も追う。 俺を追い越す時、 「脅かしちゃってごめんね」 小さな呟きが聞こえた。 チリン―― ふたりの姿が消えた事を確認し、俺は自分の家に入った。静かに入ると、居間ではまだ初恵がテレビを見ていた。 「おんやぁ? おうおう。どったの、早いねぇ」 「ああ、ちょっとな」 初恵は俺をぱちぱちと見つめ、 「ちょいと真剣な話かな?」 「ああ。実は俺、辞めようかと思ってな」 「…………ふうん」 初恵は、何も言わずに俺を眺めていた。理解しているのか不安になって、口を開きかけた途端、先制するように初恵が口を開く。 「辞めて、生活はどうするの?」 「まだ考えてない。このご時世じゃ、苦労するかもなぁ」 「なんだか楽しそうねぇ?」 「そうか?」 「そうよ」 初恵は、くすりと笑った。堪えようとした笑いが、思わず漏れたって感じだった。 「ふふ。そうね、あんたがそう決めたんならそれでいいんじゃない」 「けど、生活は」「なんとかなるわよ。大丈夫、支えるからさ」 最後まで言わせてもくれない。どこまでも初恵らしい。 「――すまね」 「いつもの事でしょ」 「それがいつもじゃ、困るんだけどな」 苦笑が浮かぶ。こいつは、こういう奴だ。 だから俺は、結婚したんだから。 「これからも、よろしくな」 「こっちこそ」 今は、ただ、眠りたかった。 久しぶりに。ゆっくりと。 チリン―― 「これで、本当によかったのかな?」 桜色の眷属は、夜空を歩む。夜空色の死導者に寄り添うように。 「私たちが迷っては、彼に失礼よ」 「それはそうだけど。でも、何が正しいって答えがない問題じゃない? 事故を起こすかもってのも、ただの可能性って話だし」 「私たちが接している問題は常にそうよ。明確な正解なんて存在しない。だから、私は自分が正しいと思える道を歩んできたし、これからもそうするつもりよ」 「正しいと思える道、か」 無数にも思える選択肢から、自分が進む道を選ぶ事。誰もが日常的に行っていて、けれど、これ以上はないほどに難しい問題。 「あたしたちは、正しく進めているかな」 浮かない表情の眷族をちらと見上げ、死導者は答える。 「それはわからない。でも、最善を尽くさずに後悔はしたくないでしょう?」 「……うん」 チリン―― 死導者の深紅の瞳が、遠い空を見据えている。その先に、道を見出すように。 「最善を尽くしても最善になるかどうかはわからない。あるいは、それで後悔する事もあるかもしれない。それでも、私たちにできる事は、信じられる最善を選ぶ事だけなの」 「失敗しても、ね」 「正解」 ふたりの少女は終わりのない道を行く。 自分たちが、信じるままに。 チリン―― |