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ぼくはぼくを過信しない。 ぼくより強い人は山ほどいるし、ぼくは一番にはなれない。 だってぼくは、平凡だから。 祖父が死んだ。もう半年も前の出来事だ。 ぼくの祖父は若い頃、名前の知れたテニスプレーヤーだった。けれど、三十になる前に足を痛め、それ以降はスポーツ解説者として活躍していた。 一方、父さんはスポーツとは無縁な人で、普通のサラリーマンをしている。小学校の頃はテニスをやってみたらしいけど、そもそも運動神経を持っていなかったらしい。 そして、ぼく。ぼくもテニスを始め、父とは違いそこそこの成績を出した。部活で言えば真ん中くらい。大会で言うと一回戦は勝ち抜く程度。祖父ほど強くはないけど、一方的に弱いというわけでもない、微妙なレベルだ。 そんなぼくも、今は少し緊張していた。 窓から見上げる空は暗い。今日は曇っているのか、月が見えなかった。明日の天気が心配になる。 明日は、試合だった。近くの学校との交流試合。向こうは地区予選くらいは簡単に突破できる実力の持ち主だ。つまり、いつも大会でぼくらをぼろぼろにする学校という意味でもある。 試合は個人戦と団体戦。まあ、たいした結果は出ないだろう。うちはそれほど強い学校じゃないし、ぼく個人もそれほど強くはない。 それでも、緊張はした。良い結果を期待されているわけでもないし、出せるとも思っていないが、それはそれとして緊張はするのだ。 夜。眠ろうとしても、そんな緊張のせいで眠る事はできなかった。仕方なく起き出し、窓から空を見上げる。けれど、何も見えなかった。これでは気も紛れない。 そろそろ戻ろうか、などと思いつつ腰を上げかけて、ふと、ぼくは振り向いた。 チリン―― 小さな鈴の音色。よーく目をこらすと、音色のしたあたりで、何かが動いた。 「あら。気づいたのね」 その時、窓の外から差し込む月明かりが部屋を照らした。 立っていたのは、女の子。黒髪に深紅の瞳を持つ、やけに大人びた小学生だった。 ぼくは、夢でも見ているんだろうか。部屋に、女の子? しかも小学生? 「いやいや、それはひどい」 「何が?」 「な、なんでもない」 ぼくは手を振り、 「えっと、どこのどなた?」 「死導者。死を導く者。死神のようなものよ」 死神? 死神――、うん? 「やっぱり夢か」 「貴方は夢に死神が出てくるほど追い詰められているの?」 少女はくすりと笑い、 「貴方、面白いわね。ねえ……」 ぼくに歩み寄る少女は、子供然とした外見とは裏腹に、妖艶とさえ言える雰囲気で話しかけてきた。 「貴方を、食べさせてくれない?」 「た、食べる?」 「そう」 少女は、そっとぼくの頬に触れた。その手は、異様に冷たかった。思わず、背筋がゾクリと震える。 「貴方の魂。とても美味しそうだわ」 「じょ、冗談でしょ?」 「死神は冗談を好まない」 チリン―― 言われずとも、なんとなくわかった。 この子は冗談なんて言っていない。本気で、本当に、ぼくを殺そうとしている。ただ、自分の食欲を満たすためだけに。 「い、嫌だよ」 「どうして? 生きて、貴方は何か得られるとでも言うの?」 楽しそうに。それを告げる事が本当に楽しいと言わんばかりの調子で、女の子は続ける。 「大半の人間は、何も得られない人生を送る。刹那的で、昨日と変わらぬ明日を迎え、多くの人間はその存在にさえ気づかない。人という種族において、貴方という個人がどう役立つと言うの?」 「や、役立てば殺さないわけ?」 「ええ。人間が発展してくれた方が、私たちも嬉しいもの。食料は多い方がいいし、優秀な方が美味しいから」 しかし、ぼくに特別な才能というものはない。何かに突出しているわけでも――。 そう考えて。ぼくの頭によぎったのは、テニスの事だった。 「何かあるの?」 ぼくの変化を読み取ったのか、少女はじっとぼくの目を見つめてきた。ごくりと唾を飲み下し、ぼくは見つめ返す。 「えっと、テニス、なら」 「テニス。あの球を打ち合うスポーツの事? 貴方、強いの?」 「強いってほどじゃ……。けど、ぼくが最も得意なものって、それだから」 「ふうん」 ぼくの事をじろじろと見つめていた少女は、いきなり視線を部屋の中に向けた。 きょろきょろと部屋中を探し、机の脇に立てかけられていたラケットに向けたところで視線を止める。 「これね。なるほど」 何がなるほどなのか知らないが、少女は納得したように頷いた。 「なら、次の勝負はいつ?」 「えっと、明日」 「明日。なら、明日の試合を見させてもらうわ。そこで勝利したなら、私は貴方を見逃す。成長するかもしれないものね。けれど、敗北するようなら、それも何の才能の片鱗も見せずにただ敗北するだけなら、貴方を頂くわ。それでどう?」 もっとも。女の子は、悪魔のような笑みを浮かべた。 「貴方に、拒否権なんてないのだけれど」 チリン―― ふふふ、と楽しそうな笑い声を残して、女の子は姿を消した。 途端、全身から汗が噴き出す。手が震え、夏だってのに歯の根がかみ合わなかった。 「明日、もしも負けたら、死ぬ?」 悪夢だと、思いたかった。 来なければいいと本気で願ったのに、朝になってしまった。 結局、その後は一睡もできず、ぼくは一番乗りで学校に到着してしまった。みんなが揃ったところで、相手先の学校に向かう事になっている。 それまでの時間つぶしに、適当な壁を見つけて、ウォーミングアップを始めた。 壁に向かってボールを打ちながら、考えるのは昨日の少女の事。 あれは、本物だったのだろうか。本当の死神だったのだろうか。ぼくが見た夢か幻ではないのだろうか? なんとなくだけど、それは違う気がした。勝つしかない。そう思うと、手が震えそうになる。 しばらく壁打ちをしていると、足音が聞こえた。ラケットを下ろしながらそちらを見ると、変な格好をした女の子がきょろきょろしながら歩いてきた。 桜色の着物と白いミニスカートを組み合わせた、なんとも形容しがたい服装。高校生くらいだろうか。どこかで会った事があるような気もするけど、ここまで変な格好をした人を忘れるわけはないよなぁ……。 女の子はぼくの存在に気づいたのか、きょろきょろをやめて寄ってきた。 「ねえねえ、このへんで黒い女の子を見なかった? 小学生くらいで、変な雰囲気の」 「――もしかして、昨日の死神の知り合い?」 「あ、会ったんだ。どっちに行ったのか知らない?」 ぼくが首を振ると、女の子は残念そうに肩を落とした。 「そっかー。そりゃ残念」 用事は終わっただろうに、女の子はまだ立ち去らなかった。ぼくをじっと見つめ、 「ねえ。君、その子に何か言われた?」 「言われたといえば、言われたけど」 「何か悩んでいるみたいだったからさ。よければ、あたしが相談に乗るわよ?」 ぼくは一瞬だけ迷った。けれど、答えはひとつしかない。 あんな死神の話なんて、まともな人には話せるわけがない。ちょっとくらい普通ではなさそうな人でないと、相談もできないんだ。 ぼくは、昨日の話をそのまま説明した。女の子はふんふんと相槌を打ち、ぼくが話し終えたところで、「なるほどねー」と深く頷いた。 「つまり、今日の試合で勝たないと、あの死神に殺されちゃうわけか」 「そういう事、らしい」 「で、どうなの? 勝てそうなの?」 ぼくは視線を落とした。ラケットを握る手を見つめ、 「自信は、ない。ぼくはそれほど強いわけじゃないから」 「そうなの。そいつは困ったわね」 うーんとうなり、女の子は懐から小瓶を取り出した。クリスタル製だろうか。きらきらと輝き、まるで魔法でもかかっているように見える。 「なら、これをあげる。本当はいけないんだけどね? 死神が関わっているから、特別よ」 そう言って、女の子はぼくに瓶を握らせた。 「これ、は?」 「天使に伝わる魔法薬。飲めば少しの間、圧倒的な幸運を得られるの。試合前に飲むといいわ」 「天使?」 「あれ? 言ってなかったっけ」 女の子はくるりと回り、ぼくに向かってブイサインをしてみせた。 「あたし、志野ケイ。天使よ」 「天使ぃ?」 つかつかつか。びしっ。 「……痛い」 「よく言われるけどさー、そんなにあからさまな態度じゃなくてもいいでしょ!?」 あ、やっぱり言われるんだ。 「そりゃ、あたしは天使らしくは見えないだろうけど。でも、本物なのよ? その薬だってそう。フェアじゃないから、天使としては推奨しがたいんだけどさ」 ぼくは手の中の小瓶に視線を落とした。きらきらと輝く小瓶は、確かに何かの力を与えてくれそうな雰囲気がある。 「これを使うと、本当に勝てるの?」 「もちろん。あたしが保証してあげる」 飲むだけで勝てる薬、か。 ぼくが渋っているのに気づいたのか、女の子――志野はぼくの顔を覗きこみ、 「使わなきゃ、死ぬんだからね。死んじゃったら、何もかもが終わりよ」 「うん」 手の中の瓶をぐっと握り締める。ひんやりとした感触は気持ちよかった。 もう、夏なんだな。 なんて、関係のない事を思った。 そして、試合が始まった。 午前中は個人戦。予想通りと言うべきか、レギュラーメンバーはともかく、そうでない連中はどんどん初戦で敗退していく。 しばらく待つと、ぼくの番が回ってきた。 コートに入り、ボールを握る。時間がないから、試合はスリーゲームマッチ。4ポイントで1ゲーム、それを2回で勝利という事になる。 サーブ権はぼくから。ボールを握り、コートの向こうに立つ相手を見る。レギュラーメンバーなんだろうか、他の人とは違う、学校の名前が入ったジャージを着ていた。構え方も、他の人とは少し違うように見える。 浅く息を吸い、深く吐いた。 不思議と、体が軽かった。これが天使だかの力なんだろうか。震えもない。恐れもない。相手の動きが、すでに見えているような気さえしていた。 ボールを高々と放り投げ、サーブを打つ。 相手が右に打ち込んでくる。その時には、ぼくは最高の位置で振りかぶっている。 「……遅い」 全力で打ち込む。ボールはまっすぐにコートに突き刺さり、そのまま奥の金網まで跳ねていった。 ネットの向こうの相手を見る。呆然とぼくを見ていた。 「遠慮。しなくていいんだよね」 「――!? だ、誰がッ!」 対戦相手は顔を赤くした。 言葉通り、ぼくは全く遠慮しなかった。全力でサーブを打ち込み、スマッシュを打つ。フェイントを仕掛け、的確に相手の逆を狙う。 試合は、あっという間に終わってしまった。まるで夢の中を歩いているような感覚だった。 「お、お前、そんなに、強かったのか!?」 試合後。対戦相手は息も荒く問いかけてきた。対するぼくの答えは、決まっていた。 「まあ、ぼくには天使がついているから」 「はあ?」 怪訝な顔をした対戦相手は、しごくまっとうな反応だと思った。 次の試合も相手の学校。ただし今度はレギュラーメンバーじゃないらしく、初戦であっさりとレギュラーを破ったぼくに、明らかにおびえていた。 そんな相手だから、倒すのも難しくなかった。元々、それほど強くないというのも影響していると思う。 そんな感じで試合は進んでいく。ぼくは今までにないほどの活躍で、決勝戦まで進んだ。対戦相手は相手の学校のエース。入部以来のレギュラーメンバーとかいう、本物の天才だ。 「強いらしいな」 「言うほどじゃないよ」 ぼくをにらむエースの目は、嬉しそうだった。ようやくライバルに出会えた、そんな顔だった。 「時間もあんまりないし、さっさと始めようぜ」 「お手柔らかに」 そうして、個人戦の決勝が始まった。 さすがにエースの名前は伊達じゃないというのが、始まってすぐにわかった。隙がどこにもない。どこに打っても的確に返球してくる。しかも、相手の表情には余裕さえ感じられた。 「どうしたどうした!? この程度かよッ!」 どっかの漫画みたいな台詞を叫びながら、エースは苛烈に打ち込んでくる。 その打ち方を見ていて、ふと気がついた。そういえば、ぼくは、この打ち方を知っている。とにかく前に前にと出て、ひたすらに攻撃してくる超攻撃型のテニス。 そう、これは、祖父がよくやっていたテニスだ。 現役時代の映像でも見て研究したんだろうか。生前、まだ元気だった頃の祖父を思い出す。 祖父はぼくを可愛がってくれた。足の持病があるせいで長い試合はできなかったけど、ぼくにテニスの基礎を叩き込んだのも祖父だった。 懐かしさが込み上げてくる。これが、スポーツなんだ。 本当に優秀なプレイヤーは、死んだ後も誰かが引き継いでくれる。誰かの中でその人は生きられる。 仮に誰もがその人を忘れ去ったとしても、その人の努力や才能は、誰かが語り継いでくれる。 そう思うと、テニスはいいな、と改めて思えた。 「なら、ぼくも負けられない」 ぼくも祖父のようになるために。生きるために。 目の前に立ちはだかる祖父に挑むような気持ちで、ぼくはコートを強く強く蹴り出した。 友達と別れた頃には、すでに十時になろうとしていた。 体は疲れていたけど、頭の芯は興奮していた。今日だけは、帰っても眠れそうな気がしない。 そんな事を考えながら歩いていると、 「やっはー」 女の子の声に、ぼくは顔を上げた。空に天使が浮いていた。 「お疲れ」 言いながら、天使は降りてきた。今さらながらに、本当に天使なんだなぁ、って思った。 「試合、勝ったみたいね。やるじゃない」 今日。ぼくは個人戦でも団体戦でも、圧倒的な成績だった。決勝戦では僅差ながら相手のエースを打ち破り、団体戦でもチームの勝利に貢献した。まあ、団体戦の方は他が負けちゃったせいで相手の勝利に終わったんだけど。 「うん、ありがとう。君のおかげだ」 ぼくは荷物を置くと、その中をごそごそと探り出した。やがて、目当てのものを見つけ、それを引っ張り出す。 「はい、これ」 軽く放り投げたそれを、天使は綺麗に片手でキャッチしてみせた。 「あれ?」 手の中に視線を落とし、続けて天使はぼくを見た。 「これ、使わなかったの?」 天使がぼくに掲げて見せたのは、クリスタルの小瓶。天使が渡してくれた、魔法の薬だった。 「まーね。使ってもしょうがないかなって思ったし」 「しょうがないって事はないでしょう。せっかく、あたしがあげたってのに」 「ただの水を?」 沈黙。天使の動きがぴたりと停止した。 「……えーと、どこで気づいた?」 「わかるよ、そりゃ。だって君、あの死神の仲間なんでしょ?」 「おおっと。そこまでバレてたかー」 たはは、と照れたような笑いを浮かべた天使は、かわいかった。 「後学のために聞いておくと、どのへんで気づいた?」 「雰囲気、かな。君とあの死神、そっくりなんだもの」 ぼくが言うと、天使は面白いように驚きを浮かべた。 「そういう事を言われたのは初めてね。似てた?」 「ああ。お節介なところが特にね」 あの死神とこの天使が仲間なんじゃないかと思った時、ぼくが考えた事は、天使は何をしに来たんだろう、という事だった。 天使は事情を知らないと言い、説明したぼくに薬を渡してきた。けど、天使が死神の仲間なら、知らないわけがない。となると、渡してきた薬も、説明通りにぼくを助けるものとは限らない。 だから、ぼくは薬を飲まなかった。何かの罠かもしれない、と思ったからだ。そんな状態で試合に臨み、いつもより体が軽くて。そうして、気がついた。 きっと、天使はぼくに自信をつけさせたかったんだろうって。 ぼくは一応、プロテニスプレイヤーに幼い頃から基礎を教えて貰っている。学校に入ってからテニスを始めたような人と比べたら、勝って当たり前なんだ。 けど、ぼくは今まで勝てなかった。それは、ぼくがぼくを信じていなかったから。ぼくの力を信じなかったからだ。それは、理解していた。理解していても、体はついてこなかった。 それが、天使や死神なんていう非日常的な人と接する事で、緊張がほぐれたらしい。素直に自分の実力を信じられるようになっていた。 「実はさ、あんたのおじいちゃんに頼まれたのよ。孫は強いくせに自信がないから励ましてやってくれって。この作戦も、あんたのおじいちゃんの発案。お茶目ね、あの人」 「そんな事をしていたのか……」 あの年齢で、しかも死んでまで、それだけの活力があるなんて。やっぱり、祖父にはまだまだ敵わない。 「ありがとう。もう少し、ぼくを信じてみるよ」 「ん、それがいいわよ」 瓶を懐にしまいながら、天使は軽やかに笑った。 「信じるとね、それこそ信じられないくらいの力を発揮できたりするもんよ」 矛盾するような事を言って、天使は姿を消した。 ぼくは、自分の手を見た。テニス以外にはたいして使えない、子供の手。 「でも。できる事だってある」 ぎゅっと握り締める。 やっぱり今日は、眠れそうもない。 桜色の少女が夜空に舞い戻ると、景色に溶け込んでいた少女がゆらりと気配を現した。その頭上では、漆黒の小動物がすやすやと眠っている。 「アンジェラぁ、バレてたみたいよ?」 「そのようね。けれど、目的は達したのだから、構わないわ」 チリン―― 小さな音色を引き連れて歩む夜空色の少女。その隣を、桜色の眷属が付き添う。 「本当にあんな簡単な事で見違えるように強くなるもんなのね」 「強くなったのではないわ。彼は元から強かったのよ。ただ、全力を出せていなかっただけで」 「んー。でも、なんであんなに極端に変わるかね?」 「彼に必要なものは、自分を信じるという事。自分は強いと、なんでもできるという思い込みにも近しいほどの気概が必要だった。貴女が彼を信じた事で、彼も自分を信じられるようになったのよ」 「ややこしーのね」 眷属は小瓶を取り出し、それを月明かりの下で眺めた。きらきらと、光の粒がこぼれる。 「魔法の薬、か。ある意味、これが本当に魔法みたいな力を発揮したってわけね」 少女は空中に瓶を放ると、全てを断ち切る刃でそれを両断した。ただの水は空に消え、小瓶は最初から存在しなかったように煙となる。 「あたしも自分を信じたら強くなるかな?」 「貴女はこれ以上がないほど信じきっているでしょう」 「そりゃそうだ、っと」 少女たちの姿は、徐々に闇の中に消えていく。 天使と死神。両面を持つ、死を導く者。 チリン―― |