アリシアは食事を載せた盆を手に、とんとんと階段を上っていく。
 ヒカルに割り当てられた部屋の前まで来ると、コンコンと木製の扉を叩いた。
「……ヒカル、私だ。そろそろ何か食べないと、本当に死ぬぞ?」
 アリシアが声をかけるが、中から応答はない。アリシアは黙ってドアノブをひねると、中に入った。
 部屋の中は明かりもついていないために薄暗い。正面には窓があり、右手にはベッドが、左手の奥には書き物机が置いてあるだけの簡素な部屋。
 その、白いシーツのベッドの上で、ヒカルは膝を抱えていた。
 アリシアはため息をひとつ、盆を机の上に置く。
「ここに置いておくぞ。ちゃんと食べるんだ」
 それ以上は何も言わず、アリシアは部屋を出た。
 そこまでの一連の行動の中、ヒカルは……まばたきひとつ、しなかった。

 階下に降りたアリシアに、ダイナスが声をかけてきた。
「どうだった、ヒカルの様子は」
「駄目だ。まるで反応がない。おそらく、昨日の戦いの影響だろうな。彼にとっては……初めての殺し合いのはずだ」
「そうだろうな。あの光景を見れば、ショックは受けるだろう。だが……それだけではないだろうな」
 疑問を目線に乗せ、アリシアはダイナスを見た。ダイナスは間を置くように、茶を口にした。
「…………エレナ殿の報告でな。教会の図書館で、エルフ兵の死体が発見されたそうだ。数は二体分。後で調べたところ、血だらけで、まるで鋭利な刃物で何度も斬りつけたような傷跡があったらしい」
 その言葉に、アリシアは少なからず驚きを見せた。
「刃物傷? 一体、誰がそんな事をできる。ヒカルは刃物など手にしていなかったはずだ。どころか、エルフ兵に対抗できる何かを持っていたはずがないだろう?」
「その通り。だが、事実としてエルフ兵が死んでいた。それと、彼らの得物と思われる槍の先端は砕け散っていたそうだ」
「槍が砕け……?」
 当たり前だが、鉄でできた槍が砕けるなどという事はそうそうない。どれほど酷使しようとも、せいぜいが曲がる程度。砕ける事はない。
 だが、確かに槍先は砕けていた。まるで何かに握りつぶされたように。
「まさか、ヒカルが……魔法を?」
 ダイナスは大きく頷いた。
「私もそれしか可能性がないと思っている。少し……信じがたい話だが、ね」
 バン、と机を叩き、アリシアは椅子から立ち上がった。
「馬鹿な! 魔法を使うためのイメージ訓練、魔力を感じる修行、感じた魔力を練るための修練! どれだけの苦労と努力が必要だと思っている!? そんな、魔法を見た事もない世界の人間が、思いつきで使えるような代物ではないはずだ!」
「その通り。だが、そうでなければ説明がつかない。それとも、ヒカルが相手の武器を奪ってエルフを殺し、その後で槍を握りつぶしたとでも言うつもりか?」
 む、と小さくうなり、アリシアは黙り込んだ。冷静に考えれば、どちらの意見に分があるのかなど、明快だ。
 落ち着きを取り戻したアリシアは椅子に座り、冷静さを得るために茶を一気に飲み干した。
「だが……そんな事がありえるのか? 呪文も知らない、イメージもできない、訓練すらした事がない、そんな人間が魔法を使うなんていう事が」
「ヒカルは色々な点で我々の常識を超えている。言語に関する点でもそうだ。だとすれば、魔法のひとつやふたつで驚いていられないだろう。むしろ、これで納得できるとも言える。彼の、常識外れっぷりについて、ね」
 アリシアは首を振った。まるで、認められない現実が目の前にあるかのように。
 アリシアたちが驚くのは無理もない事だ。魔法がそれほど簡単に使えるなら、誰も苦労したりしない。そもそも、剣術や格闘術など発展するはずがないだろう。
 魔法を使うためには、そもそも自分の魔力を感じ、その力を魔法のエネルギーにするために練らねばならない。しかも、練ったエネルギーを魔法にするためには、結果をイメージする必要もある。
 だが、ヒカルはそもそも魔力を感じるための長い訓練を全く重ねていない。また、それを練る技術を持っていない。そして、イメージする結果を見た事もない。
 そんな人間が魔法を使えるなら、そこらを歩いているおばさんがお魚をくわえたドラ猫に攻撃魔法を使ったり、杖をついた老人が馬より早く走れたりしているだろう。
「今は、ヒカルが魔法を使えるかどうかなんてのは問題じゃない。最も問題なのは、ヒカルがショックを受けているという事実だ。おそらくは……殺した、という事実についての」
 アリシアやダイナスは、今まで異種族を殺す事が当たり前の世界にいた。だから、それが良い事ではないと知っていても、殺さなければ殺されるという名目で、自分の心を誤魔化す術を身につけている。だが、ヒカルには……それがない。
「彼は今まで、戦争などない世界にいたと聞く。そんな状態では、エルフだろうが人間だろうが、殺せば傷つくだろう。彼自身が、ね」
「……彼が昨日から食事を取らないのはそれが原因か」
 殺しを見たからではなく。死体を見たからではなく。
 自分で殺してしまったから・・・・・・・・・・・・。
「――ダイナス。私たちは、どうすべきなのだろうな」
「さあね。あれは彼自身の問題だ。押し潰されるのも、乗り越えるのも。我々に何ができるかと言えば……放っておく以外にできる事はないだろう」
「冷たいんだな」
「冷静と言ってくれ」
 そう言って、ダイナスはカップを静かに傾けた。
 その時である。コンコンと、入り口のノッカーを控え目に叩く音が聞こえてきたのは――。

 薄暗い部屋の中。ヒカルはひとり、膝を抱えたままで考え事をしていた。
 いや、それは正確ではない。実際は何も考えていなかったのだから。
「……………………」
 何も言わず、何もせず、ただ無為に時間を過ごす。ヒカルの中にある想いは、ただひとつ。

 ――自分は、人を殺してしまった。

 それは、人間の世界で生きる限り、許されない事で。
 ここの世界では許される事だとしても、自分で自分が許せなくて。
 彼はただ、何もする気が起きなかった。空腹感さえなかった。人間の本能の、最低限の欲求すら。
「…………もう、帰ってこないんだ」
 死んだ者は生き返らない。殺してしまった者とは、二度と会えない。
 別に、あのエルフ兵が知り合いだったわけではない。それに、ヒカルが手を出さなければ、逆にヒカルが殺されていたかもしれない。
 けれど、そんな事は関係なかった。帰ってこないという、どうしようもない現実だけが、ヒカルに重くのしかかっていた。
 机の上では、アリシアの持ってきた食事が暖かな湯気をあげている。だが、ヒカルは手を伸ばす気にはなれなかった、と。
 コンコン。
 二度、扉を叩く音が聞こえた。けれど、ヒカルは全く動かない。何もしたいと思わなかった。何かをしなければいけないとすら、思わなかった。
「失礼します……ヒカルさん」
 いるはずがない者の声、聞きなれた声に、ヒカルは顔を上げた。
 窓から入る薄い明かりを浴びて、キラキラと輝く銀色の髪。憂いを帯びたその瞳は、不安げに揺れていた。
「エレ、ナ……」
「ヒカル、さん。大丈夫ですか?」
 エレナはベッドの上に座るヒカルの隣に腰かけた。さすがにヒカルも膝をかかえるのを止め、あぐらをかく。
「……どうしたんだよ、エレナ。何か用かよ?」
「ヒカルさんが、悩んでらっしゃるんじゃって思って……」
「大きな、お世話だよ」
 ヒカルはエレナの真っ直ぐな目から逃れるように、壁へと目を向けた。小さなシミが視界に入った。
「……食事。してないんですね」
 エレナは机の上に目を向けた。盆の上の食事は、どれも全く手をつけた形跡がなかった。
「いいだろ、別に。腹なんか減ってないんだ」
「ヒカルさん」
 エレナの語調に強いものが混じる。だからこそ余計に、ヒカルはエレナに目を向けられなくなった。
「エルフを殺した事……悩んでいるんですよね」
 ヒカルは内心でギクリとしつつも、できる限りそれを隠すようにした。
 ……エレナには、まるで通用していなかったが。
「お前には、関係ないよ」
「どこかで聞いた事のあるような言葉ですね」
 エレナはヒカルの肩を掴み、強引に振り向かせた。
「エルフを殺した事は、あの時にも言ったように罪にはなりません。もし罪なら、私も罰せられてしまいます。ただ、それをヒカルさんが悩む事は……悪いとは思いません」
「だったらオレの好きにさせてくれよ。今はまだ、ひとりになりたいんだ」
「ヒカルさん。私たちが六竜神様を信仰するのはどうしてだと思います?」
 ヒカルの頭の上にはてなマークが浮かぶ。エレナは静かに、その形の整った唇を開いた。
「私たちはですね、誰かに許して欲しいんですよ。私たちがやっている事は間違っていない、罪じゃないって誰かに言って欲しいんです。だから、兵士団で信仰をしていない人はほとんどいません。それは……自分たちの汚れた手を、綺麗にしたいからなんです」
「オレは、別に信仰とかしてない」
 エレナは大きく頷き、
「わかっています。だから、私が六竜神様に代わって、ヒカルさんを許します。ヒカルさんの罪は、私も背負います。ヒカルさんが罪の意識を持つなら、それを私にわけて下さい。ひとりで持つより、ふたりで持つ方がずっと軽くなるはずです」
「……何で、そんな事が言えるんだよ」
 ヒカルの黒い瞳は、濡れていた。エレナの左右で異なる輝きを放つ瞳も、濡れていた。
「オレは、人を殺したんだぞ? それがどうして許せるなんて言えるんだよ。お前は、あいつらの何なんだよ?」
「何でもありません。知り合いですらありません。ですが、私はヒカルさんの知り合いです。それで十分じゃないですか。私がヒカルさんの心配をするには、十分な理由じゃないですか」
 ヒカルとエレナの顔は、十センチと離れていなかった。ひどく近い間で、相手の顔すら瞳に映っているのが見えた。
「……エレナぁ、オレは、オレは――」
 ヒカルの目に、涙が浮かぶ。動き出した感情は、溢れ出したその瞬間から、止まらなくなる。
 流れる涙が、ヒカルの頬を伝っていった。エレナはその細い指先で、そっと涙を拭った。
「オレ、殺しちまった。もう、取り返しのつかない事しちまったんだよ……。オレ、もうどうしたらいいかわからないんだ。オレは……どうすりゃいいんだよ?」
「どうもしなくていいんですよ。今まで通りで。もう、ヒカルさんをこんな事には巻き込みませんから」
 とうとう、エレナはヒカルを抱き締めた。暖かいぬくもりを感じながら、ようやくヒカルは事態を受け止められたような気がした。
 そうする事によって、自分がどうすべきなのか、考えるだけの頭が蘇る。再起動した頭をフル回転させて、ヒカルは道を探し出した。
「…………、エレナ。話を聞いてくれてありがとな」
 ヒカルはそっとエレナを引き剥がした。その目にはすでに涙はなく、思わずエレナがどきりとするほど、強い輝きをたたえていた。
「やっぱオレ、何もしないとか無理だ。今までには戻れない。だから、もう戻らない。オレは、オレの決めた道を進むよ」
「決めた道、ですか?」
 ああ、と言って、ヒカルは頷く。
「オレは、もう誰も殺さない。絶対に、殺さない。そして、オレが戦争を止める。もう……誰にも殺させたくない。こんな想い、いつまでも続けちゃダメなんだ」
 思えば、今までのヒカルにとって、戦争とはどこか他人事のような気配があった。
 戦うのは自分じゃない。悲しむのも、苦しむのも、自分じゃない。その想いが、心のどこかにあった。
 だから、図書館でぐーすか寝ていられたし、当たり前のように笑っていられた。
 けれど、命をその手で掻き消して。自分の手で花を摘んで、ようやくそれがとても大事なものだと気付いた。気付けた。
 だから。これからは、“誰か”のためではなく、“みんな”のために、戦いを止める。争いをなくすなどという、不可能にも近い妄言を、しかしヒカルは口にする。たとえそれが絶対にできない事でも、これだけは譲れないと思ったから。
「誰かが誰かを殺して、その家族たちが恨んで、また殺して。そんな繰り返し、絶対にダメだ。自分でやって、初めてわかった。オレは、オレにしかできない事をやる。オレなりのやり方で、この世界を変えてみせる。死ぬまで、いや、死んだって、絶対に諦めないからな!」
「ヒカル、さん……」
 エレナは、微笑みながら泣いていた。悲しみの雫ではなく、悦びの涙を流す。
 彼女の前に座るこの男は、何の関係もない人の命に触れ、何の関係もない世界のために、命を張る覚悟をしている。それが、エレナには何よりも嬉しかった。
「ヒカルさん、私もお手伝いします。私にも、私にしかできない事をさせて下さい」
「ああ……もちろんだ」
「それじゃあ……」
 銀色の世界で、妖精のように笑う少女は、呟いた。
「とりあえず、お夕飯を食べて下さいね」



  
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