街道を一人の少女が歩いている。
 晩春の朝。吹き抜ける爽やかな風が少女の黒髪を揺らしている。セーラー服に包まれた肢体は引き締まっており、野生の獣を彷彿とさせた。
「おっはよー、恵美!」
 振り返る。後ろから、元気な声と共に、友人が駆け寄って来た。
 ショートヘアに、小柄な体躯。凛とした佇まいの少女とは対照的な、どこか小動物的な印象を与える女の子だった。
 黒髪の少女――八雲恵美は、口元に微笑を浮かべる。
「おはよう、菜々」
「ねえねえ、一緒に行こ!」
「うん」
 二人の少女は、並んで学校へと向かう。
 学校が近づくにつれ、生徒の姿も増えていく。
「おはよう、恵美」
「あ、恵美、この間は部活の助っ人、ありがとー! またよろしくね!」
「お、八雲、おはよう。お前、来週のテスト、大丈夫だろうな? また俺に追試なんかさせるなよ」
 道行く生徒も教師も、恵美に挨拶を交わしていく。そこに、男女の区別はない。それらに、恵美は挨拶を返していく。
「いつも思うけどー、恵美って人脈すごいよね。学校中が知り合いじゃない?」
「そこまででもないと思うけどなぁ」
 そう言って、八雲恵美は首をかしげた。
「確かに部活の助っ人はよく頼まれるけど、それは運動部だけだし。それに、先生がボクに声をかけるのは、まあボクの成績があれなだけだし」
「それだけでもないと思うけどなー」
 そんなことを話しながら教室に入る。恵美は窓際の席へ、友人の菜々は隣の席だ。
 朝方の教室。まだクラスメイトは揃っておらず、そこここで仲の良い友人たちと談笑を交わしている。
 と、教室の端にいた少女が駆け寄ってきた。
「あ、恵美! ねえ恵美、宿題ってやった!?」
「どうしたのさ、千穂。朝からいきなり」
「数学の宿題よ! 恵美やった!?」
「一応」
「見せて!」
 恵美は鞄から一枚のプリントを取り出すと、千穂に渡す。
 千穂は恵美からプリントをひったくると、それを上から下まで眺める。
「……って恵美、半分も解いてないじゃん」
「だってさっぱりわからないんだもの」
「ダメじゃん! あー、でもよかったー、恵美まで解いてきてたら、あたしゃ絶望で死んじゃうところだったよ」
「どういう意味さ……」
「そーゆー意味。恵美が勉強できるようになった日には天地がひっくり返るわ」
「ボ、ボクだって全部の教科が苦手なわけじゃないよ? 数学はたまたまさ」
「あと英語と古文と現国と物理と化学だけだよね」
「あと地理と政経もね」
 ひょい、と横から顔を覗かせた菜々が言えば、それに千穂が重ねる。
 そんな友人たちに、恵美は頬を膨らませた。
「それじゃあ、ボクがまるっきり勉強できないみたいじゃないか」
「事実そうだし。てか、どうやってこの学校に受かったの? 恵美の学力、どう見ても高校クラスじゃないんだけど」
「ぶっちゃけ近所の小学生の方がまだできそう」
「さ、さすがに小学生には負けないよ。それに、ボクは勘だけはいいんだ」
「勘だけって……、どうやるの?」
「ほら、社会とか理科とか、割と選択問題があるじゃないか。ボク、ああいうのは得意なんだ」
 そう言って胸を張る恵美に、菜々と千穂は顔を見合わせる。
「なんてゆーか、獣?」
「あ、それ、あたしも思った。恵美って果てしなく動物っぽいよね」
「……二人ともひどくない?」
「事実だし。あ、そーいえば恵美、進路希望調査は? もう書いた?」
 進路希望の調査票は、一昨日のホームルームで渡されたばかりのものだ。第三希望まで、どこの大学に行きたいか、どういった仕事をしたいかなどを書かねばならない。
 恵美も、もう高校二年生。そろそろ将来のことを考えなければいけない時期にさしかかっている。
「恵美は大学、行かないよねー。てか行けない」
「それも事実だけど、あえて言うことはないじゃないか」
 さすがの恵美も、選択問題に対する勘だけで大学に行けるとは思っていない。何より、大学に行ってまで勉強したいことがない。本当ならば、高校も、さほど興味はなかったくらいだ。
「千穂はどこかの大学に?」
「うん、英文科とかいいかなーって。国際ジャーナリストとかカッコよくない?」
「恰好だけで進路を決めていいのかい?」
「大事なことよ、大事な。ねえ、菜々はどうするの?」
「あたし? うーん、看護系の学校かなー。専門もありかなって」
「あー、今は専門の方が就職に強いとか言うもんねー。で、恵美はどうするの?」
「やっぱり、恵美も悠介さんみたいに、警備員みたいなお仕事するの?」
「兄さんは警備員じゃなくて、PMCって言うらしいよ」
 答える恵美は、兄のことを思い出す。
 兄の悠介は、アメリカに留学し、そのまま向こうの会社に就職した。PMCが何の略だったかは忘れたが、ただの警備員よりは危険な仕事をしていると聞いている。
 もっとも、兄に限っては、多少の危険くらいどうということはないだろうが。
「じゃあ、恵美もそのPMCってのになるの?」
「ボクはアメリカでは仕事できないよ。兄さんみたいに英語でしゃべったりできないし。ただ、警備の仕事とかはいいかもしれない」
「恵美、男子よりたくましいもんね」
「確かに」
 そう言って、二人の友人は笑う。そんな友人たちに言い返すこともできず、恵美は苦笑した。
「ほらー、席につけー」
声に前を向くと、いつの間にか担任が教卓の前に立っていた。気づかぬうちに、チャイムが鳴っていたらしい。
 担任の教諭に促され、皆がそれぞれの席に戻っていく。
 恵美は席に座りながら、空を見上げた。青い空がどこまでも広がっていた。



放課後、ホームルームも終えると、皆が解放感に満ち溢れた顔になる。
 部活に向かう者、遊びに行く者、それぞれが放課後を楽しもうと散っていく。そんな中で恵美も帰り支度をしていると、
「よ、よう、八雲」
「うん? ああ、瀬尾君」
 恵美の前で、サッカー部の部長がぎこちない笑みを浮かべていた。
「きょ、今日はいい天気だなー」
「うん、そうだね。気持ちのいい陽気だ」
「あ、明日も晴れるかなー」
「この調子だと、しばらく雨は降らない気がするね」
「あ、明後日もぐほっ」
 瀬尾がしょうのないことを続けていると、後ろから千穂にひっぱたかれた。
「瀬尾、そういうこと言いたいんじゃないでしょ!」
「そ、そりゃそうだけどよ、心の準備ってもんが……」
「そんなもんいるか!」
 ぼそぼそと二人だけで話す千穂と瀬尾に、恵美は首をかしげる。そんな三人を横で眺めながら、菜々はくすくすと笑っていた。
「どうしたのさ、瀬尾君。ボクに用事?」
「あ、ああ、えっとな、実は、今度の土曜日なんだけどさ」
「土曜日? うん」
「俺たち、また試合をするんだよ。西高の連中と」
「へえ、すごいじゃないか。西高って強いんだろう?」
「そう、地区予選とかいつもそこそこ勝ち抜いてるし、去年は決勝までいってる。でさ、その、八雲も応援に来てくれないかなー、なんて……」
「応援? いいよ、どこでやるの?」
 恵美が頷いたとたん、瀬尾は喜色を顔中に浮かべた。
「ほ、ほんとか!? し、試合は二高のグラウンド! 場所わかるか?」
「うん、たぶん。駅から反対に行ったところでしょ?」
「そうそう! と、当日は俺も頑張るからさ、応援よろしくな!」
「うん、了解」
 じゃあね、と手を振り、帰路に着く恵美。その後ろで、瀬尾はガッツポーズを決めている。
「あ、恵美、一緒に帰ろ」
「うん」
 菜々と共に校舎を後にする。中学時代からの幼馴染とは、途中まで帰り道が一緒だ。
 晩春の帰り道。流れる風は爽やかな匂いをはらんでおり、歩くだけで心が軽くなるような気さえする。香る夏の予兆に、恵美は表情を緩めた。
「ねえねえ、瀬尾君、嬉しそうだったねー」
「そうかい? まあ、格上と戦えるのは燃えるかもしれないね」
「そっちじゃないと思うけどなー」
「どっちなのさ」
 菜々の言うことは、時折、難しい。
「恵美さ、瀬尾君のこと、応援するでしょ? するよね?」
「それはもちろん。やっぱり自分の学校に勝って欲しいし、知り合いとなればなおさらさ」
「そういうのもそうだけど、そうじゃなくて」
「じゃあどうなのさ」
「なんて言うかなー。てか恵美には難しいかなー」
 頭を抱えている友人に、恵美こそ頭を抱えたい。
 彼女の言っていることは、さっぱり理解できない。
 そうこうしているうちに、曲がり角まで来てしまった。菜々と恵美はここで分かれることになる。
「じゃあね、恵美。また明日」
「ああ、ばいばい、菜々」



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