友人と別れた恵美は、三叉路を左手に折れて歩いていく。少し歩くと、自宅が見えてきた。
純和風の、屋敷とさえ呼べる大きな自宅。目の前にある母屋も一般家庭の基準からすれば十分に大きいが、より広いのは、その奥に控える道場だ。
 母屋の自室に寄って鞄を置いた恵美は、学校指定のセーラー服から着替えもせず、道場に足を向ける。
「ただいま、おじいちゃん」
 道場に入ると、そこでは祖父が正座し、何やら古めかしい巻物を広げていた。
祖父は、髪は白くなっているが、ぴんと伸びた背筋からは老いが感じられない。袴姿の凛々しさもあって、一種の凄味を感じさせる。
 恵美は、そんな祖父が好きだった。優しく、厳しく、そして強い。立派な人だ。
「恵美か。お帰り」
「どうしたの、それ?」
 恵美も祖父をまねて、巻物を覗き込んだ。
 紙色は変色し、触れただけで崩れそうなほど劣化している。墨で絵柄と文章が書かれているが、文字は達筆で、恵美にはとても読めなかった。
「ご先祖様の巻物だ。蔵を掃除していたら出てきた。八雲の業について書かれておる」
「ふうん?」
 絵柄は、刀を手にした人物の所作について書かれている。
「そんなの、おじいちゃんがいまさら読んでどうするのさ」
「復習は重要だぞ、恵美。お前はすぐそういうことをおろそかにする」
「ちゃんと素振りはしているよ」
「学校の勉強だ。来月には試験じゃないのか?」
「うぐっ……。い、いいじゃない、そんなの、どうだって」
 恵美は話をそらすように、巻物に注視する。
 いくつかの図絵と、その説明らしき文章。最後の図案は、川のような絵柄が書かれている。
「おじいちゃん、最後のこれはなんて書かれているの?」
「ふむ。ツクヨミ、是即ち流れなり、だな」
「ツクヨミって何?」
「わしも知らん。先代からも聞いておらん。失われた業なのかもしれんな」
「失われた業……。じゃあ、それを会得すれば、ボクも神薙になれる?」
「馬鹿、気が早いわ。お前はもっと精神を引き締めて……」
「じょ、冗談だってば。それに、神薙は兄さんがなるから」
「何を言っている。八雲たる者、神薙という悲願に達するは使命そのもので……」
 祖父の長い説教が始まりかけたその時、二人は動きを止めた。お互いの視線が、床の間の方へ向かう。
 正確には、その先。裏山の方角だ。
「また出たみたいだね」
「うむ。今年に入ってからは、ちと多いな」
「本当だよ。討伐する方の身にもなって欲しいよね」
 恵美は床の間に飾られていた刀を手にした。道場の壁にかかっている木刀などではない、本物の真剣だ。
「待て、恵美。今日はわしも行こう。調査がてらな」
「いいけど、無理して腰を痛めないでよ」
「お前がわしの心配をするなぞ十年早い」
 腰をあげた祖父は、恵美の格好を見やり、少しだけ眉をひそめる。
「……それと。討伐に行く時はちゃんと着替えなさい。お前はいつもそうだ」
 祖父の言葉に、恵美は少しだけ表情をゆがめた。
「だって制服、楽なんだよ? それに着替えたら洗濯物が増えるじゃないか」
「汚れたらどうする。制服は大切になさい」
「大丈夫だよ。汚れたりなんかしないから」
「何があるかわからんのが討伐だ」
「はいはい、ほら、行こう!」
 祖父の言葉を軽く聞き流す孫に、老爺はため息をついた。
「お前は、そんなところばかり母親に似ておるな」



 自宅の裏には、大きな山がある。
 裏山もまた八雲家の敷地で、いうなれば私有地だ。とはいえ、うっそうと生い茂る木々のせいで、昼間でも薄暗い。猪などの野生動物が住処にしていることもあり、用事さえなければ恵美も入らない。
 だが、ケモノが出たとなれば話は別だ。
 人が通れるとはとうてい思えない道を、恵美たちは苦もなく登っていく。刀を手にした恵美は前方を見やり、
「そろそろ結界に入るよ」
「ああ」
 祖父の声を背中に聞きながら、恵美はさらに足を進める。
 と、ある点を過ぎた瞬間、空気が変わった。
 よどんだ、荒々しい気配。ただそこに立っているだけで生物的本能が危険を呼び掛けてくる、嫌な気配。
「……いるね。なかなか大物だ」
 刀を鞘から引き抜く。同時、木々の陰から、大きな獣が姿を現した。
 熊――初見でそれが何の動物か、と問われたら、たいていの人間はそう答えるだろう。だが、同時、自分の答えに疑問も持つはずだ。
 3メートルを超す巨体に、巨木さえなぎ倒す太い腕、地面を踏みしめる太い足。全身を覆う毛は固く、それそのものが鎧のような働きをする。食いしばった牙の合間からは唾液が漏れ、血走った眼はしっかと恵美を捉えていた。
 日本に住む熊は、せいぜい人間より少し大きい程度。だが、八雲の裏山では、こういった巨大な獣――ケモノと呼んでいる――が定期的に現れていた。
 それを討伐するのは、八雲家に生まれた者の役目だ。
「さて、楽しませてくれよ!」
 刀を構えると同時、恵美は地を蹴った。
「行くぞ、『タヂカラ』!!
 叫びながら刀を振るう。淡く光る刀身は、熊の堅い毛皮も分厚い筋肉の鎧も通り抜ける。
「アアアアァァァ!!」
 吼える熊を前に、恵美は刀を止めなかった。
 振るうたび、斬線が血色に染まる。しかし、刀を振るった直後、すでに恵美の姿はその場にいない。
 高速で刀を振るい続ける恵美を、熊は捉えきれない。
「ほら、どうした!? 図体が大きいばかりじゃ、ただの巻き藁じゃないか!」
 恵美の挑発に、熊は牙を鳴らし、敵をにらみつけた。
「ガアアア!!」
「おっと!」
腕を振り回す熊。恵美はすばやく身をかわし、後方へ跳ぶ。
当たれば人間など粉みじんにできるほどの腕力。だが、そもそも当たらなければ意味をなさない。
「その程度かい……。なら、次の一撃だ! 『ミカヅチ』!!」
 刀の間合いではなかった。だが、恵美は構わず刀を振るう。
「ッ!?」
 直後、熊の腕が爆発した。
 目には見えない力。その存在におびえるように、熊は後ずさる。熊の腕は焦げ、燃えたように煙をあげていた。
「ようやく、かなわない相手と気づいたのかい。でも、もう遅いよ。君たちは八雲に敵対した。その時点で、すでに終わっているのさ!」
 右手で刀を握りしめ、恵美は樹を蹴り飛ばす。一瞬で熊との距離を詰めた恵美は、そのまま一閃した。
 斬撃は、容赦なく熊の首をはねた。
 傷ついた腕ではガードさえ間に合わなかった。遅れて、首のあった場所が破裂する。首と体を切り離され、あげく焼き尽くされたケモノは、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。
 時に遅れるように、恵美の黒髪がふわりと背中に落ちる。出立する前に宣言したように、その制服には返り血ひとつなかった。
「討伐完了、っと。なんてことないね」
 投げ捨てた鞘を拾い上げ、恵美は刀を収める。
 そんな孫を見つめ、祖父は苦笑を浮かべた。
「恵美。確かにお前は強い、そのことは認めよう。だが、お前とてかなわぬケモノもいる。そのことを忘れてはならん」
「わかってるよ、おじいちゃん。常に油断せず、おごらず、ひたすら練磨せよ、でしょ。もう聞き飽きたよ」
「いや、わかっておらん。その恰好がいい証拠だ」
「おじいちゃんもしつこいなぁ……。洗い物が増えたら誰が洗うと思っているのさ。ボクなんだよ?」
「それはそうだが」
「だから、ボクが楽なようにして、何がいけないのさ」
「心構えの問題だ。そんな調子では、どれほど技を磨こうとも、神薙の極意をつかむには至らんぞ」
「極意ねぇ……。よくわからないけれど、それって必要なの? 現にこうしてケモノも倒せているじゃないか」
「やはりわかっておらんな。かなわぬケモノもいる、と言っているだろう。自分よりも強大な敵と対面しても、八雲は逃げるわけにはいかぬ。必ずや、命を賭しても、勝たねばならぬ。それが八雲の役目であり、そのために必要な力こそが極意だ」
「逃げるわけにはいかない、ってのは、わかるけどね」
 恵美は熊の死体を見やった。
 ただの熊でさえ、襲われた人間はひとたまりもない。毎年、何人もの人間が、獣たちに殺されていることも事実だ。
 ましてや、ケモノは、ただの獣とは違う。腕力も体格も凶暴性も、どれひとつとっても、ただの獣より危険だ。
 これらが野に放たれてしまえば、大勢の人間が死ぬことになる。それらを殺す力がある者こそ八雲。八雲は最初にして、最後の砦だ。
「まったく。そんな調子では、いつまで経っても八雲を継がせるわけにはいかんな」
「継ぐ、って……。おじいちゃんだってまだまだ現役だし、それにお兄ちゃんがいるじゃないか。神薙ならお兄ちゃんがなれるよ」
「悠介か……。確かに長兄は悠介だが」
 老爺は嘆息する。
「よいか、悠介は悠介、お前はお前だ。八雲たる者、心を磨くこと、それこそが基礎にして究極」
「刀に頼るべからずって? 別にボクは、刀に頼っているわけじゃないよ」
「おごりがあると言っているんだ。今のお前は、どう見ても刀に寄りすぎている」
「大丈夫だってば」
 ひらひらと手を振る恵美は、どう見ても祖父の言いたいことを認識してはいない。
 それをどう教えればいいのか。言葉では説明しきれない危機感が、この少女には足りない。その事実に、老爺は再び嘆息せざるをえない。
 孫娘への説教を諦め、老爺は熊のそばに屈みこんだ。その死体を子細に調べる。
 八雲として生まれてから70年。昔よりも力は衰えたが、それでも斬ったケモノは数えきれない。
 死体を見れば、以前のケモノとの違いも見分けられるかと思ったが――。
「ふむ」
 違いはない。少なくとも、見える範囲では。
 ケモノと獣は、体格こそ違えど、構造までもが全く違うというわけではない。熊はあくまで熊だ。
「やはり臓腑も調べるべきか……」
 立ち上がり、懐から小刀を取り出した。
そこで祖父はふと手を止め、
「恵美。先に帰っていなさい」
「いいの? おじいちゃんは?」
「わしはこの熊を調べてから戻る」
「そう? わかった、じゃあ無理しないでね」
 恵美は鞘に納めた刀を持ちなおすと、樹上に跳びあがった。そんな孫娘を見送り、祖父は熊の死体に向き直る。
「……」
 最近になって異様に増えているケモノ。
「これが、何かの前兆でなければよいのだが」
 その呟きは、葉擦れの音に呑まれて消えた。



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