今日も喫茶店にはコーヒーの豊潤な香りが満ちている。
 コリ、コリ、コリ、と豆を挽く音が響く中、少年はカウンターの止まり木に座り、コーヒーをすすっていた。そして、ほんの少しだけ顔をしかめる。
「あの。有沢さん。僕、コーヒーはそれほど好きじゃないんだけど……」
「母親の淹れたコーヒーは飲めるんでしょ。なら、あたしが淹れたコーヒーも飲めるわね? 飲みなさい」
「……。もう少し手加減してくれない?」
「手加減したら練習にならない」
 有沢光子は真剣な表情でミルのハンドルをまわしていた。規則的な音色をバックミュージックに、笹森はコーヒーを味わう。
「で? 感想は」
「ちょっと苦い」
「そう、ちょっと熱すぎかしらね」
 ぴたり。決められた回数だけまわした後、有沢はハンドルを止め、中のコーヒー豆を取り出す。粉末状になった豆を、今度はフィルターに入れる。ネルドリップと呼ばれる、布製のフィルターだ。
 豆を詰めたフィルターをサーバーに乗せ、お湯を注ぐ。注ぎ方にもコツがあり、ここを間違えれば、味に影響が出る。
 ゆっくりと、しっかりと。全体にまんべんなくお湯を注ぎ、サーバーに黒い液体が満たされた頃、有沢はフィルターを除いた。
「さ、流人。次よ、次」
「も、もう?」
「どんどん淹れなきゃ練習にならないって言ってんでしょうが」
「いじめは良くないな、有沢光子」
 カラン、と扉のベルを鳴らし、制服姿の少年たちが入ってきた。生徒会長の神山と、図書委員の吉村だ。あの事件以来、彼らはつるむことが多くなった。
「何よ、あんたたち」
「せっかくだ、コーヒーを貰おうか」
「僕も」
「――ふん、まあ、いいわ」
 サーバーに満ちた黒い液体をカップに注ぐ。神山は香りを確かめてから、少しだけ口に含んだ。
「ふむ。悪くない」
「当然でしょ。本物の豆を使って、あたしが淹れているんだから」
「ずいぶん自信満々だな。まあ、放課後に勉強するでもなくアルバイトに励んでいるんだ、当然といえば当然だが」
 そう、今日は平日。時刻は夕暮れ時。
 ここのところ、有沢たちは、下校時間になると『リアン』に通っていた。正確に言うのなら、有沢のわがままに笹森が付き合っている形だ。
「言っておくけど、これはバイトじゃないわよ」
「ほう? じゃあ何だ」
「ボランティア。バイト代は貰ってないもの」
「へえ。君がそれほどボランティア精神に富んでいるとは予想外だね」
「有沢さんはね、バリスタになりたいんだって」
「流人!」
 笹森は少しばかり意地悪な笑みを浮かべ、
「一度でいいから、お母さんのようなコーヒーを淹れて、お父さんに飲ませたい。それが目標なんでしょ?」
「あ、あんたねえ……、余計なことを言わないでくれない?」
「意趣返しだよ。僕、コーヒーは苦手だって言っているのに」
「そうは言いつつ、付き合うんだね」
「まあね」
 吉村に笑って返す笹森。
 有沢はため息ひとつ、
「で、何をしに来たわけ。流人はともかく、あんたらまで招待した覚えはないわよ」
「招待された覚えもないな。僕は、笹森君に書類を届けに来ただけだ」
 そう言って、神山は鞄の中からクリアファイルを取り出した。
「何よ、それ」
「新規部活動設立許可証」
「……は?」
「笹森君からの依頼だ。聞いていなかったのか? 君も入部届けが出ているぞ」
「はああ!?」
「あ、お父さんにお願いして、ハンコ借りたんだ」
「そういう問題じゃない! というか同好会って何よ、あたしは何も聞いてない!」
 ひったくった書類には『LMC』とあった。部員は、笹森を部長に、有沢と吉村の名前がある。
「な、何これ? えるえむしー?」
小さな愛を宣教する会Little Missionaries of Charityだよ」
「マザー・テレサの作った教会の模倣だな」
 吉村や神山が説明してくれるが、それではさっぱり理解できない。有沢の目は、当然、部長閣下に向く。
 笹森流人はこほん、と咳払いし、
「僕が人を陽だまりの丘に誘うのは、明人と約束したからだ。僕が母さんに嫌われて――前ほど拒絶されていたわけじゃないけど――ともかく、そんな頃に、明人があの場所を教えてくれたんだ。
 僕はあの場所で、他人を受け入れる余裕を得た。そして、あそこで明人と約束したんだ。いつか、僕が過去の僕みたいな人に出会った時、あそこに連れていくこと。そして、肩の力を抜くことを教えてあげるって」
「それで、あたしを陽だまりの丘に連れて行ったわけね」
「そういうこと。でも、誰も彼もを陽だまりの丘に連れて行くわけにはいかないし、それだけで力の抜き方は教えられない。というか、その本質は、『相手』を認めることにあると思うんだ」
「世界で一番不幸な人間、ってことね」
 他人を拒絶する。自分だけの世界では、自分を愛してくれる人などいない。
 人間は他人と繋がらなければ生きていけない。踏ん張って、他人を排して、その先にあるのは緩慢なる死だ。
 そうさせないこと。それが、マザー・テレサの教え。
「ただ話を聞くだけでもいい。隣に座っているだけでもいい。寄り添うだけでいい。
 そうするだけで、気持ちはきっと楽になる。あなたは一人じゃないんだって、言葉にできずとも、そう伝えられたなら。
 きっと……、明人も、そんなことを望んでいたんだと思う」
「それで、マザー・テレサの真似ごとってわけ?」
「有沢さん。僕は、明人のこと、嫌いじゃなかった。たった一人の兄弟だからね」
「でも、あんたはもう十分に頑張ったじゃない。自分のやりたいこと、やればいいでしょうに」
「うん、やるよ。でも、僕は明人の真似することばかりに腐心していたから、自分の生き方なんて考えたことがない。だから、せめて明人の気持ちを汲み取ろうかなって。自分の道は、おいおい見つけるよ」
「はあん。のんきなものね」
「別に構わないだろう。まだ高校生活さえ二年近くある。社会人となるには、あるいはさらに時間があるだろう。将来のために努力をするのも悪くはないが、子供として多くを学ぶことも選択肢だ」
「あんたはいくつよ」
「神山君ってときどき、年上に見えるよね」
「というか、もう爺さんね」
「精神的に成熟しているんだよ。君とは違ってね」
「あ? 何よ、ケンカ売ってるわけ」
「有沢さん。ここお店だよ」
「……。神山、あんた、夜道に気をつけなさいよ」
「留意しておこう」
「ふん」
 有沢光子は手元に視線を落とす。木製のミルが目に入った。
 これから先、幾度となく回すことになるだろう。きっと、人生もそんなものだ。
 同じように回して、同じような日々が続く。けれど、淹れれば異なる味のコーヒーになる。
 変わらぬように見えて、どこかが変わっている。ほんの少しだけ。
「そういえば有沢さん。本当においしいコーヒーはどういうものか、聞いたことはある?」
「さあ?」
「フランスの人が言ったことなんだけどね。おいしいコーヒーは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純で、まるで恋のように甘いんだってさ」
「コーヒーが甘いの?」
「たぶんエスプレッソのことね。正しい飲み方をするのなら、エスプレッソは溶けないほどたくさんの砂糖を入れるから。で、それが何?」
「それってさ、有沢さんみたいだよね」
「……あ?」
「見た目には恐ろしげだけど、情熱があって、純粋で、そして、恋をしている」
 でしょ、と笑顔を傾ける笹森流人。
 そんな彼を前に、有沢は少しばかり頬を染めつつ、ため息を漏らした。
「あんたには、かなわないわね」

◆ ◆ ◆

 喫茶店の外を、一匹の猫が歩みゆく。
 ひょい、と尻尾を振り、何かを確かめるように空を見上げ。
 満足げに尻尾を揺らし、歩いていくのだ。
 幸せそうに。




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