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母親の記憶は少しだけある。 お母さんは僕が5歳の時に亡くなった。優しくて、ふわふわとしていた。 それを機にお父さんは転職し、引っ越した。今の家はその時から住んでいる家で、蛍石と知り合ったのもその時だ。当然、彼女は僕のお母さんを知らない。 「なんで……。お母さんを?」 僕の問いかけに、副会長はくすりと笑った。 「察しはついているでしょう? 彼女はこの世界の人ではありません」 「ロアン? そうなの?」 「知らないよ。聞いたこともない」 「聞いたことがなくても、ありえないとわかっていたはずですよ? というか……。我々としても、こちらの世界に渡った彼女が子を成すなんて想定外なんです」 頭を抱える副会長を、蛍石はにらみつける。 「よくわからないけど、失礼じゃない? 誰がどこでどんな恋愛をしたって自由でしょう」 「恋愛は自由ですけど、彼女の場合は色々と違うのです。第一に、彼女はこの世界の人間ではない。本来、この世界に存在すべきではない人物がこちらにいたせいで、我々の世界とアクセスする線が強固になってしまった……。ふたつの世界でエネルギーの行き来が強化されてしまったんです」 「それが何か問題なの?」 「大問題です。エネルギーは閉じた系で保存されなければいけないのに、それが漏れ出ることになったのです。主に我々の世界からあなた達の世界への流入が始まった。いずれパンクすることは目に見えていたのです。水の入ったペットボトルに水を足すようなものです」 溢れ、それでも無理やり供給すればーーいずれは破裂する。 「六車君のお母さん一人だけなら、彼女を回収すれば済みました。実際、遺骨はすでに回収しています」 思い出す。お寺さんが言っていた、お母さんの骨壺がなくなったって。 副会長が盗んだんだ。 「ところが、想定外だったことに、彼女が子供を成していた。しかも人間と。本当にもう……。その時の絶望、あなたにわかります?」 「絶望ってどういうことよ」 「言葉では通じないと思いますが……。ああそう、これ、彼女の写真です」 副会長はポケットから一枚の写真を取り出した。 見たことのない質感の紙だ。そこにプリントされていたのは、一頭の動物。 大型犬くらいの大きさで、毛並みは黒い。犬や狼に近いけど、鋭く大きな爪は、動物図鑑で見ることのない特徴だ。 「……? お母さんの写真?」 「これです。彼女はビースティ。こちらの世界で最も近い生き物はゴールデンレトリバーでしょうか。要するに犬です」 「は?」 蛍石は目を丸くする。 「だから、想定外なんです。まさか犬と性行した上に妊娠させる男性がいるなんて……! とんだド変態じゃないですか!」 「え? ええ? はぁぁぁぁぁぁ!?」 蛍石は振り返り、 「ロアン!? どういうこと!?」 「どうも何も……。僕のお母さんだよ、その人」 「人ってか犬じゃん!?」 「でもお母さんだもの……」 懐かしい。母親の写真なんて久しぶりに見た。 「え、あ、え? どういうことなのかマジでわかんない……」 「まあ、あなたの反応が正しいと思います。ちなみに我々の世界でも、ビースティと婚姻関係を結ぶのはビースティです。ヒューマンでビースティと結婚する人は一度も聞いたことがありません」 「いいだろ、別に。お父さんとお母さんの自由恋愛だ」 「……百歩譲って恋愛は自由としても、あなたのお母さんは優秀な魔法使いでもありました。彼女がこちらに来たせいで両世界のバランスは崩れたままです。早急に処理する必要があります」 「その方法がリーゼで町を破壊することなの?」 「いいえ。それは先ほども言った通り、あなたを探すための手段です。我々の目的は、六車君、あなたをこちらの世界にお誘いすることです」 副会長の言葉。それを、僕らは一瞬理解できなかった。 「……は?」 「さっきから言っているように、あなたのお母さんはこちらの世界に来るべきではなかった。当然、その息子であるあなたも我々の世界と繋がる因子を持ったままなのです。バランスを取るために、あなたは我々の世界に来て貰います」 沈黙が落ちる。頬から汗がしたたり落ちて、初めて汗をかいていると認識した。 「状況も原因も理解いただけましたね? 対策はひとつだけ。正確にはあなたの遺骨を持ち帰ってもいいのですが、さすがにあなたを殺害するつもりはありません。こちらの法律にも反しますしね。なので穏便に、あなたを我々の世界に招待したいのです」 「それは、帰ってこられるの?」 「できません」 きっぱりと言う。と、僕の前に真っ赤な魔法少女が立った。蛍石だった。 「ちょっと待って。ロアンを無理やりそっちの世界に連れていくつもりなの? そんなことはさせないよ」 「気概は結構。ですが、よく考えてください、六車君。あなたがこの世界にいれば、いずれこの世界は破裂します。すでに、いつ破裂してもおかしくない段階にまで来ているんです。猶予はありません」 副会長はこほん、と咳払いする。 「勘違いして欲しくないのですが、こちらの世界でも生活は保証します。まあ双方の世界への影響を最小限にするため、外出などは制限がつくでしょうが……。生活に対しては一定の保護をする用意もあります」 「要するに、そっちの世界で監視されてろってことでしょう。犬みたいに」 「語弊がありますね。あなたを害するつもりは一切ないのです。それに、状況はすでに予断を許さない」 すると、僕の前に蛍石が躍り出た。 「そんなの証拠がないでしょ」 「観測データならいくらでもお見せします。専門家ではないあなた達が見て理解できるかはわかりませんが。証拠というのはそういう類のものです」 「そんなの、なんとでも言えるでしょう」 「専門家の回答というのはそれそのものがエビデンスです。無視できないから専門家と言うのです。もちろん穏便にしたいというのがこちらの総意ですが、最悪の場合は少々強引な手も使いますよ?」 「それは脅しのつもり? そんなのじゃ引かないわよ」 「事実を陳列しているつもりですけど?」 「待って、蛍石」 僕は蛍石の肩をつかみ、 「副会長。シジョーさんを拘束したんだよね? 彼女と話がしたい」 「できません。彼女は大罪人、自分が助かるためにあなた達を懐柔する可能性が高い」 「じゃあ話は聞けない」 「少々強引になっても構わないと言ったはずですが?」 「構わないよ。リーゼでもなんでも、好きなだけ呼べばいい」 「……そうですか」 すると、副会長は両手をあげた。 「わかりました、3日待ちます。あなたの家に行きますので、その時に回答を聞かせてください」 「逃げるかもよ?」 「当然、監視はつけますよ。あなたはそれだけの人物ということをお忘れなく」 副会長は当たり前のように教室の出口から出ていった。その背中に、攻撃することはできなかった。ーーそんな隙も見当たらなかったんだ。 「ロアン? どうしよう……」 力を抜いた蛍石の声も、僕の耳には流れて聞こえた。 |