都内の某所に、11階建ての雑居ビルがある。
 古ぼけたビルで、いつから建っているのかも判然としない。中には少し不安になるエレベーターがあり、薄暗い明かりがぼんやりと中を照らしている。
 雑居ビルとは言っても空きテナントが多く、建物を利用する人はそれほど多くない。まあ、こんな不便な場所を借りる人は、そもそも多くないだろう。
 私はエレベーターに乗り込むと、ボタンを見つめる。
 ごくりと喉を鳴らし、意を決して、4のボタンを押した。
 エレベーターが4階に到着するのを待って、2を押す。エレベーターはすぐに下がり始める。
 2階。誰も乗ってこないし、エレベーターを呼ぶ人もいない。
 そのまま、6を押す。再び上昇するエレベーター。一度だけ、明かりがチカチカと明滅する。
 そのまま、もう一度2を。2階へ降りる。
 ドクドクと、心臓が早鐘を打っている。あと少しだ。
 大きく息を吸い、吐く。そして、10を押す。
 この建物は11階まであるけど、エレベーターは10までしかない。11階に行くためには、10階で降りなければいけない。
 ただし、私の目的地は10階ではない。ううん、この雑居ビルそのものには用事がない。
 10階に着く。誰もいない。
 今度はーー5。
 エレベーターはゆっくりと降りていく。心なしか、さっきまでより速度が遅い気がする。
 ゆっくりと動いたエレベーターは、5の表示が着いた階に到着すると、扉を開ける。
「……ッ!」
 まっくらだった。何も見えない。田舎の夜とか、そんなレベルの闇。
 一寸先も見えない闇の奥で、音が聞こえる。

 こつ、こつ、こつ。

 まるでハイヒールで歩くような音。それが、近づいてきている。
「ッ!!」
 私はすぐに閉のボタンを叩いた。扉が閉まり出す。
 闇の中から音が響き、エレベーターから漏れる明かりの中に足がーー。
 見えた瞬間、扉が閉じた。カゴの中と外が隔絶される。
「っは、はぁ、はぁ……」
 息をすることを忘れていたことに気づき、慌てて酸素を求めて呼吸する。
「な、何、今の……」
 女の人、だったと思う。とても綺麗な足だった。
 なのに、なぜだろう、直感的にわかっていた。

 ーーあれは、人間の足じゃない。

 白くて、シミのひとつもない肌。どこまでも綺麗な肌。
 綺麗過ぎるーーマネキンのような肌。
 ごくりと喉を鳴らしているうちに、エレベーターは到着していた。
「え?」
 閉のボタンを押してから、どこの階も押していない。カゴは呼ばれていない限り動くはずがない。
 じゃあ、誰かが呼んだ? それも的外れだった。
 表示は、11となっている。
「11階……」
 このエレベーターは10階までしかない。11階に行くためには階段で行くしかないはずだ。
 なのに、到着した。11階。
 扉が開く。そこは、普通のPタイルが張られた、どこにでもあるエレベーターホールに見えた。初夏だというに涼しく、冷房が利いている部屋のようだったが、天井にも壁にもそれらしい設備はない。
 エレベーターから降りてみる。正面に観音開きの扉がひとつ。後ろにはエレベーター。窓はないけど、観音扉の磨りガラスから明かりが差し込んでいる。
 意を決して、正面の扉に手をかける。ゆっくりと押し開くと、外に出た。
「……ッ!!」
 そこは屋上だった。ただし、私の知らない屋上だった。
 都内の景色は消え去り、代わりに広がっているのはどこまでも広がる田園風景。遠くには見覚えのない山があり、その裾野に町らしきものが見える。
「これが、異世界……」
 成功したんだ。『異世界に行く方法』。
 エレベーターのボタンを決まった順番で押すと、異世界に行けるという噂。まるで子供だましのような噂だったけど……。本当だったんだ。
 すう、と息を吸ってみる。にごりのない空気だった。
「やった!!」
 そして私は、一人で快哉を叫んだ。

☆ ★ ☆ ★ ☆

 私、比奈山はすみは、友達の少ない系女子だ。
 学校で誰とも話をしないなんて日もあるくらいには友達がいない。女子としては相当に珍しい部類かもしれないけど、陰の者だ。
 まあ、そんな私だけど、好きなものもある。そのひとつが、ホラー話だった。
 特に好きなのは、都市伝説系。禁后、リンフォン、きさらぎ駅ーー。実際にあった話として語られるそれらが、私は大好きだった。
 その中に、『異世界へ行く方法』というのがある。トラックに跳ねられてとか東京タワーに登るとか、そういうのじゃない。
 エレベーターのボタンを決まった順番で押すと、異世界へ行けるという噂。
 私は、その噂を実践することにしてみたのだ。自分自身を怪異の体験者にしたかった。
 そして、結果はこれだ。今、私はどことも知れない畦道を歩いている。
 道端に生えている草は普通の草木だけど、虫の声も鳥の声も聞こえない。人間なんてもちろんいない。
 そんな空間を歩いているという事実に、たまらなく心が震える。
 どこからか風がそよぎ、ロングスカートをふわりと揺らす。風が気持ちいい。
 歩いていると、一軒の家にたどり着いた。茅葺き屋根の家は生け垣で囲まれているものの、玄関扉は半壊していた。家の中には埃が積もり、荒れ果てた雰囲気がある。
 探検気分で家の裏に回ってみる。そこにあったのは縁側とーー美少女の干物だった。
「え?」
「ぅぁ……」
 金色の長い髪はさらさらで、縁側にふわりと広がっている。迷彩柄のズボンに黒い長袖のパーカー、腰に黒いポーチとナイフらしいケース。かたわらには黒いケースとペットボトルが転がっている。
 服装はちぐはぐで、おしゃれな感じは欠片もないのに、その顔立ちが良すぎるせいで不思議と似合って見える。
「え、何これ?」
 異世界に来て。誰もいないはずの世界を独り占めできたかと思ったら、美少女に出会った。
 ……なんだこれ。
「あ、あんた……」
 女の子は私の存在を認めると、弱々しい声で言う。
「何か、食べ物、ない……?」
「た、食べ物?」
「そう。おなか、すいた……」
「あ、えっと、こんなのなら」
 私は鞄に入っていた黄色い小箱を出した。異世界での携帯食料の定番品、カロリーの塊だ。それを差し出すと、女の子はすぐさま口にほうり込む。
 慌てて飲み込んで、ごほごほとむせる。ペットボトルの中身を飲み干し、ふう、と息を吐いた。
「ごめん、ありがとう。この世界、獲物なくて困ってたの」
「獲物?」
「そう。あたし、猟師だから」
 女の子はかたわらに転がっていたケースを手に取る。袋を開くと、中には銃口が見えた。猟銃だ。
「猟師って、その年齢で?」
「いくつに見えているのか知らないけど、あたしは20歳よ」
「えっ!?」
 年上かっ! てっきり、私と同じくらいかと……。
「これは空気銃だから、18から所持できるの。おわかり?」
「う、うん。てっきり高校生かと……」
「まあアメリカなら銃の扱いが上手い10代もいるけどね。一応、ここは日本でしょ?」
「日本、なのかなぁ……?」
 そう、そうだ。ここはそもそも日本じゃない。異世界だ。
「あの、あなたはどうやってここへ?」
「それが、覚えがなくて。山の中で歩いていたら、いつの間にか見慣れない植生になっていて……。気づいたらこのあたりにいたの。獲物はぜんぜんいないし、食べるものもなくなって、困っていたのよ」
「いつからこのあたりに?」
「一昼夜は過ごしたわ」
「そうなんだ……。あのね、驚かないで欲しいんだけど、たぶんここは日本じゃないの。ううん、世界のどこでもない。異世界よ」
「……はぁ?」
 金髪美少女は小首をかしげ、
「あんた、ちょっと危ない人?」
「あいむのっと」
「オッケーメイビー。まあ、これだけ動物も虫もいない場所なんて、確かに普通じゃないわね。じゃあ、あんたはどうやってここに?」
「私はエレベーターで……」
 私は、ネットに載っている都市伝説『エレベーターで異世界へ行く方法』について説明した。
 それを聞いた金髪美少女は、
「なるほどね。あんたは自分でこの世界に来たわけだ。じゃあ、戻る方法もわかってる?」
「方法と言えるか分からないけど、私が乗ってきたエレベーターなら、元の世界と繋がっているーーかも」
「うん、理屈ね。じゃあ、そこまで案内してくれない? こんな獲物もない場所で装備も限られるんじゃ、餓死するもの」
 どうしよう。
 私はこの世界を楽しむつもりで来た。けど、この子はそうじゃない。いわゆる神隠しじゃなかろうか。
 それなら、元の世界に帰してあげたい気もする。まあ、案内するだけ案内して、私はこの世界の探索に戻ってもいいんだ。
「うん、わかった」
「ありがと。そういえばまだ名乗ってもいなかったわね。あたしはカナタよ」
「私は比奈山はすみ」
「はすみね。よろしく」
 そう言って、カナタはにこりと笑った。笑うとなおさら可愛い。
「う、うん。じゃあ、案内するね。ここから歩いていける範囲だから……」
 ふと、私は振り返った。後から何故、と聞かれると答えにくいけど、たぶん予感がしたからだ。
 ーー悪い予感が。