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チリン―― 間もなく、月が消える。 おそらくは、明日が新月。そんな月を眺めていると、どことなく落ち着かない気分になってくる。 以前、私は月が嫌いだった。なんでも見透かしているようなその姿に、苛立ちさえ覚えていた。 今は、むしろ逆。月や陽が見えないと、それは不安を煽る。 世界は何一つとして変わっていない。月は千年の昔から同じように丸く輝いていたし、陽は人々を照らしていた。 変わったのは、私。この変化が良いものなのか悪いものなのか、私にもよくわかっていない。そもそも、何が変わったのかも、よく理解していない。 ただ、私は現状に満足していた。私は神様にはなれなかった。けれど、こうして、愛されている。私という存在を認め、等しく接してくれる子供たちがいる。この幸せは、何物にも変えがたいと思う。 あるいは、これが幸せと気づいた事こそが、私の最大にして最高の変化だったのかもしれない。 カツン―― ふわりと空で月見をしていた私の耳に、その足音が聞こえてきた。 空で足音がするわけがない。となれば、その正体は私の聞き間違いか……、 カツン―― 人ならざる者の足音。 「優美なひと時を無粋な足音で乱さないで欲しいわね」 それは、私の正面から歩いてきた。 白いマントのようなもので全身を覆い尽くしているけれど、そのシルエットは小さい。私と大差ないようにさえ思う。人であれば、まだ子供の年齢。 近づくにつれ、細かな部分が見えてきた。 整った顔立ちに見覚えはない。その外見だけでは、男女の判別はできなかった。ただ、どことない雰囲気から、女性と推察できる。その程度。 「何か用かしら?」 「……あなたは。人ではない」 「そうね。貴女と同じく」 目の前にいるのに、気配はどこまでも薄い。目を離せば存在が感知できなくなる。まるで、実体がそこには存在しないかのよう。 ――何者? これがただの変魂などではない事はわかりきっている。これだけ近くにいて、私に存在さえ気取らせない隠密性は普通の変魂にはなかなかない。 「貴女、名前は?」 私の問いに、訪問者は手を差し出して答えた。 「千年兵の剣」 突き出された剣をかわし、私もまた、手に剣を握る。 「名乗りもせずに剣を向けるとは、失敬にも程があるわね」 「あなたたちに。名乗る必要はない」 「それは、どういう意味かしら?」 「答える必要もない」 カツン、と空を舞う訪問者。 私は自然と口元がゆがむのを感じながら、剣を向けた。 チリン―― 「それじゃあ、出版できるんだ」 『はい。遠藤さんのおかげです』 「僕は何もしていないよ。あれは野上君が頑張ったからじゃないかな」 『けど、僕だけじゃあの人の心は動かせませんでしたよ』 「でも、僕だけでもあの人の言葉を多くの人に伝えるための手伝いはできない。それができたのは野上君のおかげだからね」 『結局は、ふたりがいたから、なんですかね』 「かもね。ん?」 ふと、僕の視界にありえないものが入った気がした。よくよく目を凝らしてみる。間違いなかった。 「――ごめん、野上君。電話、切るね」 『え? あ、はい、わかりました?』 電話を切り、僕はすぐさま“それ”に駆け寄った。 行き倒れだ。真夏と呼べる日は過ぎ去ったとはいえ、まだまだ暑い日が続いている。見たところ、なんだか暑苦しい格好をしているし、熱中症にでもなっているのかもしれない。だとしたら大変だ。 「大丈夫ですか!」 しゃがみ、まずは肩をゆすってみる。すると、ううん、と小さな声でうめいた。 薄く目を開き、僕を見る。その時になって、僕はようやく気がついた。 彫りの深い顔立ち。細い金髪。細い目の奥に覗くのは、緑色に近い瞳。 明らかに日本人じゃない。というか、何人かもわからない。それなのに日本語で聞いてわかるのかな? 「だい、じょうぶ」 なんて思っていたら、かなり流暢な日本語が帰ってきた。外見からして、さっぱり似合わない。 行き倒れさんはゆっくりと立ち上がろうとして、よろめいた。慌ててその体を支える。細く軽い体だった。 「やっぱり、救急車を呼んだ方がいいですよ。すぐに呼びますから」 携帯電話を取り出した僕の手を、行き倒れさんはそっと引き止めた。 「誰も。呼ばないで」 「――何か、事情でもあるんですか」 こくん、と頷く。 うーん……。家出か何かだろうか。見たところ、服装は変わっているものの、年齢はまだ子供だ。事情があるといっても、放置していくわけにもいかない。本来なら救急車を呼ぶか、場合によっては警察を呼ぶべきなんだろうけど……。 残念ながら、行き倒れさんは手を放してくれそうにない。これは、困った。 「あなたの家」 「ん? 僕の家?」 また、こくんと頷き、 「そこに。連れて行って」 「はい?」 それきり言うと、行き倒れさんは目を閉じてしまった。すーすーと聞こえる寝息は、特に危険そうなものではない。 「どうしろって……」 はぁ。 なんで僕の周囲は、こういう厄介な事件ばっかり起きるんだろう。 チリン―― 「ん」 顔を上げると、いつの間にか隣を歩いていたアンジェラが足を止めていた。 「どーしたのー」 声をかけると、アンジェラは明後日の方向を見つめたまま、 「誰か来ているらしいわ」 あたしはアンジェラの頭に乗った小動物――エルに目を向けた。エルの鼻はよく利く。探知能力が弱いあたしやアンジェラにはない能力。そんなわけで、あたしたちはエルの鼻を頼りにする事もたまにある。 「何が来てるの?」 「まだ遠い……、いえ、これは、マリア!?」 突然、アンジェラは飛び出した。あたしも慌てて後を追う。 少し飛んだところで、あたしの目にも見えた。 間もなく朝を迎える空はまだ暗い。その中で、ぽつんと白く咲いている花のような存在。 マリア・キティ・ウェーバー。アンジェラの上司みたいな存在だ。 「マリア! 何があったの!?」 マリアは、膝をついていた。全身は傷だらけで、いつもは純白のワンピースも、ところどころ汚れている。 まるで、何かと戦って、敗北でもしたかのように。 「アンジェラ、それにケイも……。よかった、貴女たちは、無事だったのね」 「無事だった?」 マリアはアンジェラの腕の中で荒い息を吐いている。あたしやアンジェラよりもずっと強いマリアが、これだけやられるなんて――? 「アンジェラ、皆を呼ぶわ。これは、私たち、全員に共通する、危機よ」 「本当に、何があったのよ」 マリアは深紅の瞳をあたしに向け、 「天の御使いの再来よ」 そう言った。 チリン―― パソコンで作業をしていると、後ろの方で何かの声がした気がした。 振り返ると、ベッドの上で行き倒れさんがボーッとしていた。視線は一点に向いているけど、特に何かを見ている様子はない。まだ寝ぼけているのかもしれない。 部屋に運ぶ前に見た感じでは、特に怪我をしている様子はなかった。だから、どこかが痛いというわけじゃないんだろうとは思う。 「目が覚めた?」 行き倒れさんは僕の方に目を向けた。瞳が色を取り戻す。 「あなたは……?」 「遠藤紅葉。紅の葉っぱと書いて紅葉だよ。ちょっと待ってて、お茶を入れるから」 立ち上がり、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出す。それを透明な湯のみに入れてから戻ると、行き倒れさんはベッドから降りて床の上に座っていた。 「どうぞ」 お茶をテーブルの上に置き、僕は行き倒れさんの前に座った。 「まず、どこか痛いところとかはない?」 行き倒れさんはふるふると首を横に振った。よかった、と思う。もちろん、それだけじゃ安心はできないんだけど、さしあたって病院に行かなくても済みそうだ。 「えっと、事情は話してもらえる?」 またふるふる。まあ、そうだろうとは思っていたから、特に何も思わない。 「なら、せめて名前は教えてもらえないかな」 聞くと、行き倒れさんはしばらく悩むように頭を振った。そのうち、ぽつりと、 「――星」 「星?」 「そう。星と。呼んで」 星さん、か。あからさまに偽名っぽいけど、まあいいか。慣れれば、そのうち本当の名前を教えてくれるかもしれないし。とりあえずは、呼ぶのに困らなければそれでいい。 「紅葉」 見ると、特に僕を呼んだというわけではなく、名前を確認しているようだった。 「紅葉。紅葉。紅葉」 「あんまり連呼されても困るんだけど……」 「紅葉。私を。案内して」 変わった喋り方だ、と思いつつ、聞き返す。 「案内? どこに?」 「どこでも。この町を」 「でも、この町、別に観光地ってわけじゃないから、見て回るようなものはあんまりないよ?」 「構わない。できれば。神社やお寺を見てみたい」 うーん。ここで受けると、また先輩に怒られる気がする。 しかし、こうして家に上げてしまった以上、もう手遅れだろうか。いや、まだここで断れば可能性くらいは……。 というか、こんな小さな女の子を連れまわして、後で警察沙汰になったりしないだろうか。幼女誘拐の嫌疑をかけられたら、もう否認のしようがない。 「案内して」 ずい、と迫る星さん。子供なのに妙な迫力がある。 「けど、僕も今日は午後からバイトがあるし、付き合えないよ」 「なら。それまでの時間」 ――有無を言わせないこの感じ。なんとなく先輩に似ていると思うのは、僕の気のせいだろうか? どう見ても、星さんは諦めない気がする。意志の強さは、変わった口調や全体の持つ雰囲気からなんとなく伝わってくる。言葉で懐柔しようとしても、なかなか難しいだろうと思う。 なら、少しは従うしかない。ある程度まで付き合って、多少なりとも満足したところで帰すのが一番、穏便な方法だろうか。訴えられたら負ける可能性はあるけど、それは今も同じなんだから、この際、覚悟を決める事にする。 はあ、と思わず息を吐きながら、 「仕方ないね、わかったよ。じゃあ、バイトの時間までね。その後は、ちゃんと家に帰るんだよ?」 星さんは僕の苦境を含めわかっているのかいないのか、無反応なままだった。 |