生まれて、生きて、そして死ぬ。
 人として当たり前の人生。たった一度の経験。
 そう、普通は。


『沙織、本当に大丈夫? なんだか声が変よ』
「だから、大丈夫だってば!」
『でもねぇ……』
「しつこいよ。それにアタシ、もうバイトだから、電話してる時間ないの。切るね」
『もう。調子が悪くなったら、いつでも帰ってくるのよ』
「はいはい、ありがとね」
 電源ボタンを押し込み、アタシは息を吐いた。
 母親の勘は鋭い。『私』が『アタシ』になった、その小さな変化さえ捉えている。それだけに恐ろしい。あの人はいつか気づくだろう。自分の娘が、別の何かに変わっているという事実に。
 その日の事を考えると、さしものアタシも気が重くなった。
「本当に行くか」
 鞄を手に取り、家を出た。
 冬の弱々しい日差しがアタシに降り注ぐ。いつの間にか季節は移ろっている。
「さむ」
 吐息が白く染まる。小さく身震いし、寒風が吹きすさぶ中を、アタシは歩き出した。
 冷たい空気は肌を刺し、アタシの意識を研ぎ澄ます。
 黙って歩いていると、色々な事を思う。
 アタシの運命が狂った日の事。世界が劇的に色を変えてしまった日の事。
 『アタシ』となった日の事を。
 アタシは私だった。『私』という、沙織というごく普通の人間に過ぎなかった。
 変化した前後の事をアタシはあまりよく覚えていない。数日間、寝込んだと聞いている。気がついた時、アタシは『私』が持っていなかったはずの記憶を、知識を、能力を持っていた。
 それは、普通の人が接する事などないような悪夢。
 過去がなければ苦しむ事もなかった。アタシの中に残る『私』がアタシを苦しめる。
「嫌だねェ……、まったく」
 いつからアタシはこんなにも感傷的になってしまったのだろうか。昔はやる事がわかりきっていた、目標があったから、悩む事もなかっただけなんだろうか?
 もやもやと晴れない気持ち。それが、わずらわしい。
「だっ!」
「ん」
 ぐにゅり、と何かを踏んだ感触。ボーッとしすぎた、と足をのけつつ下を見る。
 どうやら、ぬいぐるみを踏んだらしかった。桃色の逆毛がある、小さめの鳥のぬいぐるみ。どこかで見た事がある気がするけど、思い出す事はできそうにない。
 それはアタシの記憶力がどうこうというよりも、他にもっと気になる事があるから。
「……何、あんた」
 問いかける。ぬいぐるみに対して。
 このぬいぐるみは、普通のぬいぐるみじゃないから。
 生を感じる。それが、どれほど異常な事か。
 生はエネルギーの事。普通のぬいぐるみから、活力を感じられるなんて事は絶対にありえない。
 感じた時にはすでに、アタシは刃を構えていた。癖、だ。敵に反応し、戦いの構えを心より早く体が行う。反射的な防衛本能。
 生きるための。
 返答はない。ぬいぐるみはただ転がっているだけ。
「もう一度だけ聞くよ。あんた、何」
 問いを重ねると、ようよう人形は体を起こした。
「人を踏みつけておいてその言い草とはな。いささか失礼ではないか、人間」
「あんたは人じゃないだろう」
「む……、それはそうだが」
 鳥は困惑を浮かべる。ぬいぐるみにしか見えないのに、こうして表情から感情がわかるというのは、少し面白い。
「まあ、いい。私は心が広いからな、許してやろう」
「それって自分で言う事なのかねェ?」
「細かい事は気にするな。さて、何者か、という質問だったな」
 正確には『何か』という事だけど、本質的には同じ意味だ。
 鳥はばさりと翼を広げ、
「では、逆に問おう。お前は何者だ?」
「聞いているのはアタシ」
「名乗らず問いかけるというのは失礼だろう?」
 アタシは答えなかった。
 否。答える事ができない。
 その態度をどう解釈したのか、ふふん、と鳥は鼻を鳴らす。その姿は、少し癇に障った。
「いいから名乗りなよ。別に敵じゃないなら無理に戦おうとも思っちゃいないからね、アタシは」
「敵などいるのか? この平和な日本に」
「――死導者も眷属も変魂も、味方じゃないよ。アタシにとっちゃね」
 敵とは、言わないけれど。
 その回答に、何故だかぬいぐるみは満足そうに頷いた。
「うむ。やはりお前、普通の人間どころか退魔師でさえないな」
「は?」
「一般的な退魔師は変魂の事は知っていても死導者の事は知らない。眷属の事ともなれば、なおさら」
「……ッ!」
 うかつ、だった。答えるべきじゃなかった。
 そもそも関わり合いになりたいわけでもない。こいつがあまりに得体の知れない存在だから警戒しているだけで、アタシ自身、戦いをしたいわけじゃない。
 こんな奴は無視して、さっさと行ってしまうべきだった。
 後悔は、役にも立たない。
「だが、私の存在は知らないだろう」
 やや自慢げに言う。何が自慢なのか、それはわからない。
 鳥は胸をそらし、高らかに歌う。
「私の名前はヴェンタス! 悲しみを導く者、悲導者だ!」
「悲導者……?」
 聞いた事のない言葉だ。死導者に似ているし、やはり無関係という事はないのだろうけど。
「それで、お前は?」
「……アタシ?」
 悲導者。よくは知らないけど、立派な名前だ。
 それが少し、羨ましい。
「アタシはただの霊能力者さ」
 それ以上でもそれ以下でもない。
 退魔師じゃない。アタシの両親は普通の人間だ。
 死導者でもない。レティシアは一度、魂までも砕かれて死んだのだから。
 眷属などもってのほか。アタシとアンジェラはもう何の繋がりもない。
 もちろん、人間でもない。それこそただの人間は生を感じることも操ることもない。
 何でもないアタシは、何であるとも答えられない。アタシは、ただの、霊能力者に過ぎない。
 皮肉なもんだ。昔、あれほどまでに求めた力を手にしたのに、今度は何者でもなくなってしまうなど。
「あ、そうだ」
 時計を見る。よくよく見れば、仕事までの時間はさほど残されていなかった。無駄話が過ぎたらしい。
「ふん」
 悲導者から視線を外し、歩き出す。歩調は早めに。
 後ろから同行する気配。ちらと振り返ると、さっきの人形がアタシの後ろを飛んでいた。
「何?」
「人を踏みつけたあげく名乗らせておいて、何、とはないだろう」
「アタシ、あんたにはもう用とかないんだけど。別に害をなす存在ってわけじゃないんでしょ?」
「もちろんだ」
「なら、どうでもいい」
 そう、どうでもいいこと。
 霊の世界に無理に関わる必要はない。そうすれば、少なくとも表面上は普通の人間でいられるのだから。
「まあまあ、つれないことを言うな。私も暇なのだ」
「アタシは暇じゃないのよ、あんたらと違って」
「いいではないか。私はどうせ普通の人間には見えぬ。一緒にいたからといって、誰の目に止まることもないだろう」
「それが厄介なんでしょうが。他の人から見れば、今のアタシは独り言が多い変な人になっちゃうでしょ」
「それもそうだな。なら、話さなければいい」
「あんたね……!」
 一閃。
 ナイフを形成、振り抜くまでの時間はほんの一瞬。刃の先端がヴェンタスの鼻先をかすめる。
「危ないではないか」
「避けるの、うまいわね」
 正直、今の斬撃は別に手加減をしたつもりはない。本気の殺意を乗せたわけでもないけど、当たっても構わないという思いで振り抜いた。だのに、この悲導者とかいう不可思議なぬいぐるみは、アタシの攻撃を避けてみせた。
 戦闘力が高いとは言わない。でも、悪くもない。
 それはどこか、アタシに似ていた。
「ともかく邪魔しないでくれる? アタシ、これから仕事なのよ」
「ほう。お前にもできる仕事があったのか」
「失礼な奴ね」
「いや。だが、お前が普通の人間に馴染めるとも思えなかったものだからな」
 ぎくり、と体が震えた。
 ――初対面、それも会ったばかりの意味不明な存在に、そこまで言われるとは。
 あるいは、それほどまでに今のアタシはおかしな事になっているのだろうか。
「大きなお世話、よ」
 それ以上、言える事はなかった。

 昔と今。変わらぬ事が一つだけあった。
 それは、斬り続ける事。
 レティシア・ラスペードは死んだ。肉体の死。まだ若かった、十代だった。なのに、レティシアは……、殺された。
 彼女はそれを認めず、死を拒絶した。魂までも変化させ、生き永らえた。変魂。第二の生。殺意に取りつかれ、自分と同じ存在を拒絶した。斬り殺した。殺す事をおかしな事と思わなかった。
 そうしていた彼女は、自分より高位の存在と出会う。変魂としての自分の死、そして眷属としての新たな生。第三の生。戦う相手を定められた。それを悪いものと考えなかった。少しだけ変わった。
 三度目の生は、しかし、死導者に打ち砕かれた。魂まで砕かれ、アタシは本当の意味で、死んだ。
 もう次はないと、本当の死を感じた。
 でも、続いた。
 新しい生は、別の人間の体を得てのもの。沙織という、アタシの知らない人間の中で、アタシは四番目の生を得る事となった。
 どんな時でも同じだった事。それは、ともかく斬る事。
「沙織ちゃん、包丁の使い方だけはうまくなったね」
「褒めているんですか、それ」
 じろりと横目でにらむと、店長は慌てて奥に引っ込んだ。気の弱い人だ。
 沙織という人間は、アタシが内に宿る前から弁当屋でバイトをしていた。人を斬り続けていたアタシは、キャベツを切り刻むようになった。
 ひたすらにキャベツを刻むだけ。これほど単純な動作はなく、ゆえに、アタシはこれが自分に向いていると感じていた。単純作業は何かを考える必要がない。悲導者の言葉ではないけど、アタシに接客はできないだろうし。
「どれだけ刻むんだ、一体」
「……いくらでもよ」
 そして何故、肩に乗っている。貴様。
 本当に残念なことに、こいつは店長と違って、にらんでもどっかに行かなかった。包丁を向けるとちょっとビビるくせに。
「この仕事は楽しいか?」
「あのねぇ、仕事なんて楽しいものじゃないよ」
 周囲をちょっと見回す。他の人は離れたところにいる。小さな声で話すぶんには問題にならなさそうだった。
「生きるために働く、か。だが、それでは面白くあるまい?」
「いいのよ、それで」
 沙織の生きた証。
 少しくらいは、残してやっても罰は当たるまい。
 アタシの内心を知ってか知らずか、悲導者は不満げだった。
「生きるという事は、もっと面白いものだと思っていたがな」
「そんなわけないでしょ。生きるって事は悩むって事。わずらわしい色々なものに縛られて、苦しんでいく事よ。そんなもん、面白いものじゃないわ」
「そうだろうか?」
 悲導者は首をかしげる。
「私は生きておらぬからこそ、偉そうな事は言えないがな。だが、私が見てきた人間はもっと生きようとしていたぞ」
「何が、言いたいのよ」
「お前は生きようとしていない、と言っているのだ」
 生きようとしていない。
 少し、わかる気がした。
「何か負い目でもあるのか? いや、誰かに対して、といったところか。お前自身の能力と何か関係が――」
「うるさい!」
 思わず大きな声が出た。慌てて周囲を見渡す。みんな、こちらを見ていた。
「あ、な、なんでもありません」
 取り繕うと、不審げな表情をしながらも、それぞれが仕事に戻る。
 アタシは浅く息を吐き、悲導者を見た。
「悲導者。あんたが何を考えているのか知らないけど、アタシに関わらないで。あんたには関係ない」
「そう言うな。旅は道連れというではないか」
「黙りなさい、化物」
 化物。化物、か。
 じゃあ、アタシは、人間なのだろうか?



次へ  戻る