「真理先輩!」
「え?」
 どうして今の今まで気付かなかったんだろう。目の前に佇む巨大な影。
 違う、ずっと見えてはいたんだ。視界にも入っていた。ただ、あまりに巨大で、それがアトラクションの一部と信じて疑わなくて。だから、“そんなものが”いるなんて事を欠片も考えなかった!
 先輩を引き戻し、僕の後ろに。そして僕は、化物と正面から相対する。
「よもや、私が見えるのか。やるものだな」
「目だけはいいもんでね」
「え? え、な、何? どうしたの?」
 僕の眼前。部屋の天井をこすりかねない大きさの何かがいた。
 天井まではゆうに3メートルはあるだろう。どうやらただの天井ではなく、屋根裏に相当する部分までぶち抜いた部屋らしい。
 その部屋に、何かがいた。巨大な腕と、それに比してあまりに短い足を持つ、ゴリラにも似た化物だ。決して人ではない。もちろん、遊園地の遊具でもない。
 意思を持ち、人ならざる姿を持つ、命さえないもの。
「変魂が、なんでこんなところにッ――!」
「無礼を言ってくれるな。誰が変魂だって?」
 ズ、と化物の姿が少し縮んだ。
「私は死導者。死を導く者。貴様ら人間を殺し、砕き、咥え、自らの糧とする者」
 ズズ、とさらに縮んでいく。
「たかだか死を拒絶しただけの人間などと比べられてはこの魂が穢れるわ」
 弱っているわけでは、もちろんないだろう。たぶん、圧縮しているんだ。自分を、力を。
「それにしても……、私を見る事ができ、変魂の存在まで知っているとはな。そうは見えぬが、お前も退魔に属する者か?」
 相手は僕の背丈より少し上背を残すほどの大きさで縮小を止めた。それがこいつにとって適正な大きさなんだろう。
「ちょうどよい。ただの人間ばかりを喰らっていては、舌が馬鹿になるからな」
「ま、さか……、お前がずっと喰っていたのか」
 ここから出てきた人があんなにやつれていたのは、ただ恐怖に遭ったからではなく、こいつに遭ったせい?
 こいつが、たくさんの人の生を、喰ったのか!
 化物はへらへらと笑っていた。その態度が、何より肯定している。
 許せない。
「おい。死導者、って名乗ったな」
「いかにも」
「僕の知る死導者たちは殺しをよしとはしないぞ」
「死喰いの知り合いか? だとしたら残念だったな、死導者とは元来が私のような性質を持つ。あいつが外れ者なのだ」
「そうかい」
 理屈はわからない。けど、こいつは、死導者たちから外れた者なんだろう。
 死導者は僕の友人だ。彼らは、以前は違うにせよ、今は絶対に人殺しをしない。そう約束したからだ。なのに、こいつはそれを平然と破る。
 それなら、こいつは人間の敵だ。
「それでは、死ね」
 化物が無造作に手を伸ばす。僕はその動きに合わせ、ぐっと握り込んだ拳を叩きこんだ。
「む」
 化物の腕が僅かに弾かれる、その隙に!
「厄介な手を持っているようだな」
「!」
 懐に飛び込もうとした僕の眼前で、化物の腹が“口”を開く。
 口から飛び出した舌は、一瞬にして僕を絡め取った。
「ぐっ、う……」
「くー!」
 必死に後ろを振り返る。先輩が僕を庇おうとしているのが見えた。
「先輩、来ないで!」
「邪魔するな!」
 化物の巨腕が先輩の体をつかんだ。舌に縛られている僕は身動きが取れない……、まずい!
「ちょっと! 誰だか知んないけど、くーをいじめたら許さないわよ! くーを放しなさい!」
 先輩は足をバタつかせ、化物に対して必死に叫ぶ。見えてはいないだろうに、抵抗をしている。僕のために。
「小うるさい女だな」
 化物は歪んだ顔をさらに歪め、僕を見下ろした。
「ふむ。これほど美味そうな食事を前にしては、貴様など前菜にもならんな。どうでもいい、死ね」
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 僕は。抵抗する事さえできなかった。
 先輩をぐっと握った化物が、その体を放り投げる。天井に激突し、勢い余って床に落ちた。
「せん、ぱい……」
 先輩が、傷ついた。
 僕のせいだ。
 僕が、先輩を守れないから。力があるのに。それを知っているのに。
 ちゃんと、正面から見ようとしないから。
「先輩」
 返事がない。先輩はぴくりとも動かなかった。
 その言葉を連想する事さえ嫌で。何かを考えたくない。
「む?」
 化物が舌をほどいた。僕の体が床の上に落ちる。
「なんだ。急に気概を失くしおって。そんな女が大切だったのか?」
 よろめきながら立ち上がり、先輩に歩み寄る。その体に触れる。
 ぎゅっと抱きしめた。
「先輩ッ……!」
 その体は、何の反応も示してくれなかった。僕を抱き返してくれる事さえない。
 幽霊を見知っている。その存在を理解している。だから僕にはわかる。
 死んだらおしまいなんだ。死ぬという事、それこそが全ての終焉。続きはないし、あってはいけない。その事実を理解できないまま、苦しんでいる人が大勢いる。でも、現実として、死後があろうとも死者は眠らなければいけないんだ。それが世の中のルールだから。
 そう、ルールなんだ。
 全部ぜんぶ理解していて、それでも苦しい事に変わりはなくて。
 嫌だ。そんなのは嫌だ。そんな結末は嫌だ。そんな現実は嫌だ。
 嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!
 そんなのは、嫌なんだ!!

「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 魂の底から叫びがあがった。自分では何も意図していないのに。
 体の芯が熱くなる。頭の根本が熱せられて、世界が紅く染まっていく。
 体が勝手に動く。
 僕は先輩の体を横たえる。それでも視線は外せない。
「どうした。もうおしまいか」
 化物が問いかけてきた。勝利を疑わないその声が、馬鹿のように聞こえた。
「……なあ。お前は、どうしてこんな事をするんだ」
「愚問だな。生者を喰らえば力となる。それを知っていながら指を咥えて見ている愚か者は、正真正銘の愚者でしかない。力があるなら行使する! 喰らえば生きられるのであれば喰い尽くす! 当たり前の事であろう!」
「そうか。それがお前の理屈か」
「そうだ。お前たち人間には終生、理解できぬかもしれんがな」
「ああ、理解できないね」
 顔を持ち上げる。化物と視線が合う。
「……!」
 奴の顔が曲がった。明確な恐怖が浮かんでいた。
 自分の顔から表情というものが抜け落ちていくのがわかる。感情が死に、頭が冷えていく。なのに、芯はとても熱い。
 不思議な感覚。
「お前がそうしたいというのなら、それでいい」
 化物の目に僕が映っているのさえ見える気がした。いや、見えている。見ようと思って見られないものなどあるはずもない。
 化物の瞳に映る僕は、ひどく冷たい顔をしていた。そして、目が輝いている。
 瞳が紅く染まっている。
「それがお前のルールなんだろう?」
 無関係な一般人を巻き込んで、喰らって。
 そんな事が本当に許されると?
「死導者は人間を喰らうのをやめた。それでもなお、お前が喰らい続けると決めたのであれば、それはお前のルールだ」
 誰かの言葉を思い出す。
『原因があり、結果がある。物事にはすべからく起源があり、それが発展する事によって世界が成立する』
 奴は人間を喰らった。その過程で先輩を傷つけた。原因を自ら作った。
 因果は応報される。
『ルールを守らぬ者はルールに守ってもらえなくなる。いかな法則も規則もその者の前では意味をなさぬ』
 世界のちっぽけなルールなんて、もはや関係がない。あの化物は許されない事をした。だから、世界は彼を許さない。
 許してはいけない。
「人間だって動物だって規則ルールは守る。そうしなければ守ってもらえないからだ。守られない中で、我が身ひとつで生きていけないからだ。
 ルールを破る者ばかりじゃ世界が成り立たない。崩壊する。それを何より嫌うのは世界だ。だから、世界はルール破りをする者を絶対に許さない。何より自分を守るため」
「な、にを、言っている?」
「お前は死者としてあるまじき事をした。死後の存在が生前の存在に手を出した。あまつさえ、その生を喰らい、死の先から生の前へ戻ろうとした。掟破りだ」
「だ、から、どうした」
「掟を破ったんだ。ルールを破られても仕方ないだろう?」
「何を馬鹿な事をほざいている!!」
 化物が巨腕を振り上げた。人間の体であんなものを受ければぐちゃぐちゃになるだろう。だけど、逃げる必要なんてなかった。
「死ね! 人間!!」
 腕が振り下ろされる。僕は、ただ腕をあげ――。
「ッ!!」
 ずしん、と建物が揺れた。だのに、僕は微動だにしていない。
 それがおかしな事とも思えない。ごく、当たり前の事だ。
「その程度なの? 死導者を名乗るくせに」
 化物の巨腕は僕の細腕に止められていた。常識的に考えればありえない光景が、ごく自然な事に成り変わっている。
「ぐ、ぅ……! ならば!!」
 腕を引き戻し、今度は重ね合わせて巨大な拳を作る。それをそのまま振り上げる化物を眺め、僕は小さな声で呟いた。
因果律の書換リライト重力グラビティ
「ッ!?」
 ずん、と化物の体が沈んだ。ほんの一瞬にして、僕が触れる事さえなく。
「世の中の全てには起源がある。その上に色々な起源が乗って形を成す。乗った起源を書き換えれば、枠組みは外れないままにその存在が変質する――ちょうど、こんな風に」
 歩み寄る。今度は化物が僕を見上げる番。その目には恐怖が、瞳には紅眼の僕が映っている。
「重力を強化した。ほんのそれだけだよ? 死導者ならどうってことないだろう? 空を飛べる死導者に重力は関係ないはずだ、ほら、はねのけてみせなよ。それができてこその死者であり死導者だろう?」
「ぐ、ぬ!」
 徐々に、けれど、確実に。化物の体が起き上がっていく。重力をはねのけている。僕の言葉に導かれるように。
「そう、そうこなくちゃね。でも、ちょっと遅くないかな?」
 拳を握る。その延長を思い描く。
因果律の書換リライト巨腕アーム
 拳が巨大化する。化物がそうしたように、僕も腕を振り上げた。振り下ろせば、この程度はいくらでも砕ける。
 相手が化物だろうと何だろうと関係ない。いつでも、殺せる。
「さようなら。名前も知らない死導者」
 振り上げた腕を、僕は。
 僕は……。
「う、ああああああああああああああああああああああああ!!」
「紅葉!!」
 何かが僕と化物の間に割り込む。僕の腕が急に軽くなった。斬られたんだ、と後から気付く。
 僕は飛び込んだ人を見た。
「アンジェラ……?」
 いつからだったか。僕らの前に姿を見せなくなったはずの、八番目の死導者。僕の友人がそこにいた。
 彼女は、僕と同じ赤い瞳で、僕を見上げていた。吸い込まれそうな紅い瞳。
「紅葉。何をするつもり」
「何、って」
 僕は自分の拳を見つめ、
「……」
 それを、そっと下ろした。
「ん、ごめん、アンジェラ」
 握った手を開く。殺しても、意味なんてないはずなのに。
「頭では、理解していたはずなんだけど……。ごめん。僕は、まだまだ子供だった」
「よく、我慢した方だわ」
 久方ぶりに会ったというに、彼女はそんな時間など存在しなかったかのようにふるまう。その姿に、ちょっとだけ安心した。
 チリン――
 八番目の死導者アンジェラは鈴を鳴らし、手を振るう。何もない空間に現れた鎖が化物の体を縛り上げる。
「ありがとう……」
 その言葉は自然に口をついて出た。それが出る限りは、まだ大丈夫なのかもしれない。



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