私は許されない行いをした。
 人間が人間として生きていくのに、やってはいけない行為をした。
 だから私は、もう人間じゃない。


 きちんと部屋が片付いている事、冷蔵庫にお酒が冷やしてある事を確認し、私は壁にかかった時計を見上げた。
 午後三時ちょっと前。うん、完璧だ。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
 いつの間にか、私のそばに小雪が立っていた。今日もいつも通り、髪をツインテールにまとめ、暴れやすい……もとい、動きやすい服装をしてる。
「どうしたの、小雪」
「今日のお客さんってさ、お姉ちゃんの彼氏なんでしょ? カッコいい?」
「ん〜……カッコいいってのとは、少し違うかな。でも、とっても優しいのよ」
 そう。私には、もったいないほどに。
「でも、小雪は私の部屋に入っちゃ駄目よ。私と紅葉だけの時間なんだから」
「わかってるよ。あたしだってそんなに子供じゃないんだから」
「三年生が何を言うか」
 私がそう言って笑うと、小雪はぷくっと頬を膨らませた。そういう動作が今時にしては珍しいほどに子供らしくて、だから私は、この親戚の子供が愛おしくてならない。たぶん、紅葉の次に好き。
 その時、ピンポーンと気の抜けるような電子音が聞こえてきた。
「あ、来た」
「あたしも出迎えに行く」
 しょうがない、とばかりにため息をつき、私は小雪と一緒に玄関に向かった。
 玄関の扉を開くと、見慣れた顔がそこに立っていた。
「ども、先輩。こんにちは」
 そう言って笑う。本当に紅葉は、よく笑う。まるで私を安心させたがっているみたいに。
「今日はぴったりね。さ、上がって」
 お邪魔します、と言いながら紅葉が中に入ってくる。
「あれ? 初めまして、だよね?」
 と、紅葉は玄関に立つ小雪の姿に気付いたらしく、微笑みかけた。
「はい。田崎小雪といいます。お姉ちゃんのお父さんの、弟の娘です。よろしくお願いします」
「はい、よろしく、こゆきちゃん。僕は遠藤紅葉。『もみじ』って書いて『くれは』って読むんだ。よろしく」
 そう言って、紅葉は小雪の頭をなでた。
「こゆきちゃんは、何年生?」
「今度、小学三年です」
「はきはきと喋るね。偉いよ」
 そう褒めて、紅葉は私を見た。
「小雪。私は紅葉を部屋に案内するから、戻ってなさい」
「はーい」
 不満っぽい返事をして、小雪は玄関から走り去った。
「廊下は走るんじゃないの!」
 私の注意を聞き流して。
「先輩に親戚がいるってのは聞いてましたけど、あんなに利発そうな子供だとは知りませんでした。ちょっと意外ですよ」
「む。何よ、それ。それじゃあまるで、私が利発には見えないみたいじゃない」
「自覚、ありませんでしたか?」
「むむむ。先輩に対してその口の利き方は何だね、紅葉君」
「は、申し訳ありません、田崎先輩」
 ピシッと背筋を伸ばして言う。私はつい、声を出して笑った。
「そこのスリッパを使って。私の部屋は二階だから」
「また、なんですね。それじゃ、お邪魔します」
 靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。それを待って、私は紅葉を部屋に案内した。
 私の部屋は二階の一番奥、つい最近まで物置代わりに使っていた部屋だけど、今はきちんと掃除をしたおかげで、むしろ他の部屋よりも綺麗になっている。
 私は紅葉を部屋に案内すると、ちょっと待ってて、と声をかけて部屋を出た。
 台所まで行くと、小雪がニヤニヤしながら立っていた。
「何よ、小雪。どうかしたの?」
「お姉ちゃんの彼氏、割とカッコいいじゃない。でも、ちょっと真面目そうかな。大学生なのに髪、黒かったし」
「呆れた。そんな事を言うために私が降りてくるの、待ってたの?」
 小雪はニヤニヤ笑いのまま、頷いた。
「もう。年上をからかっちゃ駄目よ。そんな暇があるなら外で遊んできなさいよ」
「お姉ちゃん、言ってる事がお母さんみたい」
「そりゃそうよ。私だって、もうお母さんになってもおかしくない年なんだから」
「まだうら若き二十代でしょ」
 と。こんなところで小雪と漫才している場合じゃなかった。
「私は部屋に戻るから。ドアのところで聞き耳なんか立ててたら怒るからね」
 そう言い残し、私は冷蔵庫から取り出したワインと氷を手に、台所を後にした。

 ワインの入ったグラスをテーブルに置き、紅葉はちょっと赤くなった目で私を見た。
「それにしても、良かったですね」
「何が?」
 私はワインをグラスに注ぎながら聞き返す。
「こゆきちゃんですよ。あんな事があったから、元気がないかなって思っていたんですけど。案外と元気じゃないですか」
「そういえば、そうね」
 私は元々、小雪の家――つまり、叔父の家に居候していた。
 それが私の不注意で火事になってしまい、住めなくなっちゃった。いや、半焼で済んだんだけどね。
 それでも燃えちゃったものもあるし、少しは暗くってもおかしくないんだけど……。
 小雪が暗い顔をしているところは見た事がない。あるいは、私に心配をかけないようにと、無理に明るく振舞っているのかもしれないけど……さすがにそれは気付くか。
 小雪は、私よりもずっと強くて、ずっと前向きなのかもしれない。
「先輩」
 何気ない調子で呼ばれ、私は考えるのを止めて紅葉を見た。
 その瞬間、何か違和感を覚えた。
 特に何も変わりはない。いつも通りの笑顔で、いつも通りに喋っている。なのに、なんだかいつもと違う気がした。どこか真剣な、怖い空気がある。
「先輩は大丈夫ですか」
「何、が?」
 私の声は、いつもより固くなっている気がする。いつも通りにしたいのに、戻らない。紅葉はいつも通りなのに。
「先輩も色々と心労の種があるんじゃないかなと思って。そういうのを取り除くのも、僕の仕事のひとつなんですけど」
「だ、大丈夫よ」
 これじゃまるで、私が嘘を言っているみたいじゃないの。どうにかして平静を保たなきゃ。せっかくの幸せが、なくなっちゃう!
「ん、大丈夫ならいいんです」
 そう言って、紅葉はワインを飲んだ。
 紅葉には、全てを見抜かれている気がした。私が嘘を言っている事も、更に言えば、嘘の内容さえ知っている気がした。
 それは、私の考えすぎかもしれない。実際、私の隠し事は非現実的すぎて、普通の人には想像もできないはずだから。
 でも、紅葉の目はとても綺麗で、何でも見えているような気がした。
 私の嘘の正体も、私という人間性さえ。
「……先輩? 大丈夫ですか?」
 顔色が悪くなったのか、紅葉が心配そうに私の顔を覗きこんだ。
「ん、大丈夫よ。ちょっと飲みすぎたのかな。少し外の風に当たってくる」
「僕も行きますよ。酔った先輩をひとりで行かせるわけにはいきませんから」
「大丈夫よ。紅葉はここにいて」
 私はそう言って、強引に紅葉を残し、部屋を出た。
 小雪には近所のコンビニに行くと言い、私は家を出た。家の中には、これで小雪と紅葉だけになる。
 私の両親も、小雪の両親も、どちらも共働き。私もたまたま今日は家にいるけど、普段は仕事でいないから、もしかすると小雪は寂しいかもしれない。もちろん、そんなのは私が心配するような事じゃないのかもしれないけど。
「はぁ……」
 思わず、口からため息が漏れる。
 紅葉にしている隠し事。それが、気になってしまう。
 もし。もし、私の秘密を知ったなら、紅葉はどうする? 私を軽蔑し、嫌い、離れてしまう?
 それは怖い。それだけは避けたい。だから、言い出せない。
 紅葉は信頼している。大抵の秘密なら、それは言ってしまえる。内緒にしといてね、と言っておけば、紅葉は本当に誰にも言わない。
 けれど、今度のは違う。他の隠し事とは、桁違いに大きな秘密。
 ――私は、人を殺した。
 ぶるりと身体が震え、思わず周囲の誰も私を見ていないか、確認してしまった。住宅街の通りには、人影はあまりない。少なくても、私に注目している人はいない。
 今でも覚えている。忘れようがない。あの、感触。人を突き飛ばした、あの感触。
 死の間際、あの人は私を驚きと、そして僅かに混じる憎しみの瞳で見つめた。彼女が落ちていく姿が、コマ送りの映像のように見えた。
 それから新聞を読み続け、その人の死亡記事を見つけた。警察は事故扱いにしたとか。だから私を疑っている人は、誰もいない。
 誰もいない、けど。けれど、誰かに疑われたら、私は切り抜けられる自信がない。
 怖い。怖い怖い怖い。全てが怖い。
 気が狂いそうなほどの恐怖を感じる。時折、目に映る全ての人が私を疑っているような気すらした。
 それでも私が耐えられているのは、紅葉がいるからだと思う。だから、もしも紅葉がいなくなったら、私は本当に、死ぬしかない。

 翌日、私は仕事場に向かっていた。今日は紅葉もシフトに入っているから、一緒に仕事ができる。
 電車を降り、駅から歩いて数分の距離にある仕事場まで歩く。
「あら?」
 前方に見慣れた黒髪を見つけた。あれは、紅葉だ。
「くれ……!」
 手を上げ、声をかけようとして、私の動きは止まってしまった。
 紅葉の隣に、女の子がいる。年はたぶん、高校生くらい。上は和風、下はミニスカっていうちぐはぐな格好の女の子。それが、笑っていた。その隣で、紅葉も、笑っていた。
 何を話しているのか、それまでは聞こえない。けれど私には、ふたりがどこまでも仲良しに見えた。まるで深い絆で結ばれているような、そんな感じがした。
 ふと、紅葉が私の方を向いた。まずい。反射的にそう思ったけれど、もう遅い。紅葉は私を見つけ、小走りに近寄ってきた。
「こんにちは、先輩。先輩もこれから仕事ですよね」
「え、ええ……」
 私は、ぎこちない返事しかできなかった。
「誰、この人。紅葉の知り合い?」
 後から女の子も寄って来る。近くで見ると、女の子はすごく魅力的に見えた。
 内から滲むような、強い光がある。平凡な外見の私と違って、どこを探してもいないような、強い意志がそこはかとなく感じられる。変な格好なのに、それすらも変だと思えなかった。
「この人は僕の彼女。田崎先輩」
「ああ、この人が」
 女の子は紅葉から私に視線を移し、強い微笑みを浮かべた。
「こんにちは。あたし、志野ケイ」
「は、初めまして。田崎です」
 なんだか、この人といると、私は掻き消えてしまう気がする。
 この子の輝きが、闇のような私を消してしまうような、そんな錯覚を覚えた。
 それでも私は、努めて平静に尋ねた。
「紅葉に高校生の知り合いがいるなんて知らなかった。どこで知り合ったの?」
「ん? ケイの、まあ先輩と知り合いで。その縁だよ」
 ケイ。紅葉は、そう呼んだ。名前を、呼び捨てにするほどの仲なんだ。じゃあ、やっぱり?
「じゃあ、先輩。僕はちょっと志野さんを駅まで送ってからバイトに行きますから、先に行っててください」
「え? あ、う、うん。わかった」
 私には、頷く以外の行動は取れなかった。

 さっきの女の子は、誰なんだろう。紅葉はあの子の先輩と知り合いだって言っていたけど、それにしては親し過ぎた気がする。
 まさか、浮気? ううん、紅葉がそんな事をするはずがない。
 でも、とも思う。あの子は、私よりも魅力的だった、と。
 あの子には私にはない、どころか、普通の人にはない強い輝きがある。それには、私ですら惹かれそうになった。紅葉が惹かれないはずがないと思う。
 ……んぱい。
 ああ、でも、紅葉が私を裏切るなんて? そんな、そんな事はない、と思う。そう思いたい。
 先輩!
 紅葉を信じなきゃ。私から紅葉を取ったら、何も残らなくなってしまう。本当に人間ですらなくなってしまう。そんなのってない。
「先輩!」
 私は肩をビクリと震わせ、振り向いた。そこに、怪訝な様子の紅葉が立っていた。
「く、紅葉。どうしたの?」
「先輩こそどうしたんですか。さっきからボーっとして。大丈夫ですか? 顔色も悪いですよ?」
 私は手に持っていた皿を台の上に置き、無理にでもと、笑顔を作った。
「大丈夫よ。心配しないで」
「心配もしますよ。今日の先輩、何だか変ですよ?」
 紅葉は私の額に手を当てて、自分の体温と比べた。
 だからどうして、そんなに優しくしてくれるんだろう。そんなに、甘やかさないで欲しい。そんな事をされて、それで突き放されたら、私は自分で立てないよ……。
「わかったわかった。今日は早退するわ。店長に言っておいてくれる?」
「はい、わかりました。お大事に」
 紅葉は心底、心配そうな顔で言った。
 私は紅葉に大丈夫、と言い残して、更衣室に入った。



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