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怒りは悪い感情らしい。 だが、憤怒の化身たる私からすれば、それは間違いだ。 怒りがあれば、生き物は進化できるだろう? 私のように。 開発から取り残された森。いくらでも並ぶ木々のひとつに、私は座っていた。 右腕を見る。そこには、まるで定規のようなもので引かれたような、綺麗な線があった。 それは、傷跡だった。人の命を自由に導く力と権利を持った死導者には相応しくない存在が、そこにあった。 手を握り締め、奥歯を噛み締めた。怒りに拳が震える。 絶対にして完全なる私が、よりにもよって死導者の部下に過ぎない、眷属などに傷つけられるなど。 そんなもの。あっては、ならない事だ。 「くそッ!」 軽く力を込め、枝を叩いた。枝は力任せに叩き折られ、バキバキとやかましい音を立てながら地に落ちていく。 これだけの力があっても、眷属ごときにやられているようでは、何の意味もない。 「八番目の眷属、志野ケイ――!」 我が傷の原因。奴は、絶対に、私の手で殺す。 傷は癒えた。以前は慢心によって腕を失ったが、今は違う。最初から全力で戦う心がある。なれば、私に敗北の要素など、欠片もあるまい。 まずは志野ケイ。続けて死喰い。我が命など関係ない、奴らを殺さねば、我が気が静まらぬ! イライラとした気持ちを抱えたままで座っていると、ふと、濁った気配を感じた。 「……何の用だ、色欲」 振り返る事はなく、声をかける。返答は、案外と近くから聞こえてきた。 「あんたね、レディにはもっと優しい声をかけるべきよ。だから嫌われるのよ」 ちらとだけ、後方を見る。七番目の死導者、『色欲』のアスモデウスは、私が座る枝と、ちょうど正反対に伸びる枝の上に立っていた。こちらに、背を向けたまま。 「私はお前と会話を楽しむつもりはない。用がないのであれば消えろ、でなければ消すぞ」 「あんたって本当に怒りっぽいのね。ま、憤怒なんだから当たり前なんだけどー」 言葉を切り、色欲はため息を漏らした。そして、続ける。 「あんたも死喰いにやられたんでしょ?」 「それは誰に聞いた?」 「誰でもいいじゃない。それより、そうなんでしょ?」 「――まあ、そうだ」 正確には死喰いではなくその眷属なのだが、そんな事をいちいち説明してやる義理はない。 「ねえ、サタン。私に協力しない? そうしたら、死喰いとその眷属を殺す手伝いをしてあげるわよ?」 「どういうつもりだ」 色欲の言葉に、私は真意を測りかねた。 色欲は八人の死導者の中でも、かなり自分勝手な部類だ。こいつが何の利もなく他者に協力など、するはずがない。 「あんたって怒りっぽいくせに案外と賢いのね。大丈夫、あんたを騙すつもりなんてないから」 「死導者の語る大丈夫などという言葉、信じるに値しないな」 死を導く者。故に死導者。死者にすら死を導く我々の言葉など、最初から信ずるに値せぬ。 私の言葉の真意を見抜いたのか、色欲はくすくすと笑った。 「簡単に言ってあげる。要するに、私にとっても死喰いが邪魔になったのよ」 「ふむ。だからと言って、自ら動く理由にはならぬだろうが」 私を利用して死喰いを潰したい、といったところか? だからと言って、そんなものに利用されるつもりもない。下手をすれば、私も色欲に殺されかねない。 「状況が変わったの。できる限り早く殺したくってね。理由はこっちの事情だから、話せないわ」 「……ふむ」 どうすべき、か。 いくつか可能性を考え、それぞれに対策できるかどうかを見出す。時間にして、五分ほどだろうか。考えた後、私は答えを決めた。 「いいだろう。お前に乗ってやる」 利用されるのも一興だ。それで志野が殺せるのであれば、問題ない。 まずは志野を殺す事。それが、今の私の全てだ。 死喰いを探すとなると、かなり面倒だ。奴は常にふらふらと移動しているため、一箇所に留まる事はそうそうない。 だが、呼び寄せるのであれば話は別だ。派手に人を喰らう。それだけでいい。 人間の持つ生などたかが知れているため、力を蓄えるという意味では、何の意味も持たない。まさに死喰いを呼び寄せるためだけの、それだけのための殺戮だ。 そしてそれは、非常に効率的だった。 私が殺しを始めて、三日目の晩。今度は誰を喰らおうか、と考えている私の肌が、奴らの訪れを感じた。 私の意志とは関係なく、頬がつり上がる。私は四肢に力を入れ、思い切り跳んだ。 死喰いと志野は、私を待っていたかのように、夜空にしゃんと立っていた。 「久方ぶりだな、死喰い。志野」 「あんた、どういうつもり」 私と正面から対峙したのは、桜色の着物に身を包んだ剣士。八番目の眷属、志野だ。今は全身から怒りの波動を発している。 その後ろには、死喰いが控えている。外見からすればただの黒っぽい服装の少女だが、その実は、私と同格以上の力を持った、凄腕の死導者。あなどるわけにはいかぬ。 死喰いの頭上には、見慣れぬ動物が乗っていた。名も知らぬ存在だが、あの死喰いが連れておるのだ、何か力を持っていると見るべきだろう。 「どういうつもりとは?」 私は志野と死喰い、両者に警戒しつつも、問い返す。すぐに仕掛けるわけにはいかぬ。色欲の準備が整うまでは。 「殺しのゲームは終わったんでしょ!? なのに、どうして人を殺しているのよ!」 「存外、頭が回らぬのだな?」 死導者が続けていた殺しのゲーム。人に死を導く、それ自体を楽しむ、それだけの事。その裏に誰の思惑があろうとも、そして、その思惑が外れようとも、楽しい事を止める理由はない。 もっとも。今の私は、楽しいから殺していたわけではないのだが。 「理由など、どうでもよかろう。それとも理由がなければ、殺してはならぬのか?」 志野の放つ怒りが増した。その分、奴の注意が私だけに向いているのがわかる。 私の役割は、志野と死喰いを離し、志野を殺す事。色欲の役割は、隙を突いて死喰いを殺す事。 どちらも、私の損にはならぬ。元々、志野は私の手で殺すつもりだった。その間に邪魔になるであろう死喰いはどうしようかと考えていたが、色欲が相手をするのであれば、何の問題もない。仮に色欲が負けようとも、弱った死喰いならば殺しやすい。 ……ふむ。頃合、か。 空気の変調を敏感に感じ取る。死喰いと志野がそれに気付いた様子はない。 なれば。後は、全力で敵を殺すだけだ。 「来い、志野。貴様を殺して、私は我が内の憤怒を静めよう」 「いいわよ、サタン。あんたはあたしがぶっ殺す。アンジェラ、手は出さないで」 生を剣状に固め、志野は腰を低くして構えた。こちらも、全身に力をみなぎらせる。 「行くぞ、志野」 「来なさいよ、アクシュミおばけ」 動いたのはほぼ同時。空を蹴り、志野は剣を、私は拳を振りかぶる。 志野の振り下ろす斬撃をひねってかわし、勢いそのままに拳を振るう。その一撃は、落ちるようにしてかわされた。 軽く後ろに跳ぶと、今まで立っていた場所を刀身が走り抜けた。 過ぎ去る手を蹴飛ばし、私は後方に。下がったと見せかけ、思い切り前に跳ねる。 以前に戦った時よりは確実に力をつけている。特に、回避と防御は上手くなった。以前なら簡単に後ろを取れたものだが、今はそうもいかない。 だが、攻撃は甘い。なまじ、必殺の剣などを持っているせいだ。奴の剣は私の肌でも容易に切り裂くが、所詮は剣。当たらなければ何の意味もない。斬撃の威力に任せ、命中させる訓練を怠ったのが要因だろう。 が、私とてうかつに踏み込むわけにもいかぬ。奴の斬撃は間違いなく必殺、その事実には変わりない。下手に踏み込んで斬られれば、格闘以外の攻撃手段を持たない私は、ほとんど敗北も同然。今回は逃げの手を打つ事も叶わぬだろう。 殺すか、殺されるか。その境は、私か志野か、どちらが先に決定的な一打を与えられるか、にかかっている。 なれば。その一撃、我が拳で決めるのみよ! 「ぬん!」 私の拳を、志野は跳んでかわす。そのまま、回転するように剣を舞う。 一撃を紙一重でかわし、私はさらに蹴り、拳、また蹴りと、相手に隙を生ませぬように攻撃を繰り返す。 ラッシュを続ける中、私は死喰いの様子を確認した。 私と志野の戦いを見続けるその様は、隙だらけ――! 「今だ!」 私の合図と共に、冷気が夜空を駆け抜けた。 「アンジェラッ!?」 志野の悲鳴にも似た声が飛ぶ。だが、甘い! 「他者を気遣う余裕があるのか! 志野よ!」 一挙に間合いに飛び込み、私は拳を志野の腹に叩き込んだ。 志野が苦悶に顔を歪める。そこにすかさず、全力の蹴りを叩き込む。 僅かな余裕の間に確認すれば、色欲もまた、得意の吹雪と槍撃で死喰いを追い詰めていた。 「勝てる……!」 眷属にはかなりの打撃を加えた。死喰いは隙を突かれ、状況は不利。このまま眷属を叩き潰し、続けて、死喰いも葬ってくれる! 「終わりだ! 志野!」 握りを落とした志野に向かい、私は全力で突っ込んだ。猛スピードも加味された一撃。これならば、いかに八番目の眷属と言えども、粉々だ! 「死ねぇ!」 「――あんたがね」 私は拳を突き出し、それは、途中で消えた。 ……消えた? 「な、に?」 確かに、なかった。私が突き出したはずの、必殺の威力を持っていたはずの、右腕が、あるべき場所になかった。 「油断したわね、サタン。あたしだって、いつまでもバカのなんたらみたいに、刀一本で戦うわけないでしょ?」 志野は、しっかりと剣を握っていた。 おかしい。 志野の能力は、刀身を作る能力だったはずだ。作れるものは刃のみ。あまりに切れすぎる刃しか作れない志野は、握りがなければ、剣を握れるはずがない。 なのに、志野の手には、剣があった。 「スペアよ、スペア。もうちょっと正確に言うなら――」 志野は袖の中に手を戻し、再び出した。その手には、もうひとつの握り。 「二刀流、ってヤツ?」 そう、か。志野が攻撃を当てる訓練をしなかったのは、この奥の手を使うための、トラップ……!? 気付いたところで、もう、遅かったが。 一方の剣が私の胸を指し、もう一方の剣が私の翼を切り落とす。動くわけにはいかぬ。胸を指すこの刃を弾けぬ限りは。 志野に蹴飛ばされ、私は宙を舞った。ギリギリで、踏みとどまる。 「どうせあんたの事だから、あたしを呼び寄せるために殺しをしたんでしょ」 「わかっているではないか」 志野の、剣を握る手に力が加わった。 「あんたさ、それが悪い事だって思えないの? 思わないの?」 「貴様も死導者の端くれならば、理解しているだろう。我々は、人々に死をもたらす、そのために生まれた存在だ。そこに良し悪しなどない」 「でも! ベルフェゴールとかマモンは、殺しをしないって!」 「ああ。なろうと強く願えば、なれるやもしれんな。だが、願う理由はない。私はお前たちではない。人の美しさなど理解できぬし、理解するつもりもない。所詮、奴らも我々と同じだ」 傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。人が生まれながらに持つと言われる、七つの罪。我らは、その具現化に過ぎない。言うなれば、人の悪い部分の塊だ。 闇は光を理解しない。同様、人の悪しき部分を固めた我らが、人の美しい部分を理解する事もありえない。 怠惰や強欲が、特別なのだ。 「貴様には理解できぬかもしれんな、志野。ならば、殺せ。私を殺して、お前の正義を完遂させろ」 すでに私は負けた。敗残の兵だ。敗北してなお生きながらえる? そんな事、できるものか。 だが。予想に反し、志野は動こうとしなかった。 「どうした、志野。貴様の剣は、誰を殺すためのものだ。人に害なす者を殺すためのものではないのか?」 明らかに、志野は迷っていた。殺す事での解決を認めたくないとばかりに。 甘い。甘すぎる。世には、殺さねばわからぬ者もいるのだ。それを、知らなさ過ぎる。私はこんなに甘い相手に負けたと言うのか? 「志野、私を殺せ! この私を、敵も殺せぬ雑魚に負けた道化にしてくれるな!」 「で、も――!」 いざとなると、やはり志野の剣には迷いが見えた。今や、隙だらけ。全快の私ならば瞬殺できるほどに。 この程度の敵に、私は、負けたのか! 「志野!」 私の叫びに、 「落ち着きなさい、サタン」 少女の声が応じた。 反射的に振り向く。そこには、白い装束に身を包んだ、幼い姿の少女がいた。 あらゆる死導者の祖。死導者の中の死導者、『聖母』のマリアが。 「私が甘かった、という事ね。そのせいで、余計な心労を与えたようだわ」 白衣の少女は、私と志野、ふたりの間に割って入った。 「マリア、どうしてあんたがここに?」 志野が問いかける。聖母は志野に視線を送り、言った。 「貴女たちと同じ理由、よ。おそらくはね。それだけではないわよ」 聖母が顔を上げる。と、我々の周囲を覆うように、気配が生まれた。 「いよう、憤怒ぅ。やられたみたいだねぇ?」 「はッ、情けねぇ。たかだか眷属ごときにボロボロにされてんじゃねーよ、お前も祖の端くれだろうが」 漆黒の翼を持つ少年。『強欲』のマモン。 見た目には青年と変わらぬ男。『傲慢』のルシフェル。 死導者たちが、私を取り囲んでいた。 視線を巡らせれば、色欲の近くには、老人の姿を持った『怠惰』のベルフェゴールがいる。奴の舞い散る葉を受けたらしく、自身の放ったらしい氷で体を閉ざされていた。 「貴方たちに話したい事があったのよ。ちょうど、全員が揃ったようだし。ここで話をさせて貰うわ」 聖母は、言った。 |