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夢だった。死に物狂いで手に入れたくて、そうして得たものだった。 なのに、一瞬にして、それは壊れてしまった。 もう二度と手に入らない。大切なものは、永遠に失われてしまった。 扉が、控えめにノックされる。俺が答えないでいると、扉がゆっくりと開き、ナツが顔を出した。 「調子は、どう?」 「これで調子がいいように見えるのかよ」 俺がにらむと、ナツは色素の薄い髪を揺らし、顔を伏せた。 俺はため息をつき、テレビに視線を戻す。 テレビでは、スポーツニュースをやっていた。日本代表は、サウジ相手に完敗していた。当たり前だ、エースを欠いて、得点が取れるようなチームじゃない。 日本の攻撃は、全て俺が担っていた。常に大事な試合の決定打は俺だった。その俺がいないのに、日本に勝ち目があるはずもない。 これは、俺が傲慢だとか、そんなものじゃない。ただの事実だった。 「また、スポーツニュースを見ているの?」 「見てわからないのか」 「体によくないし、やめたら?」 「どうよくないって言うんだ?」 聞いても、ナツは答えなかった。答えられなかっただけかもしれないが。 「どうせ、俺の体はもう治らない。なら、体に良かろうが悪かろうが、関係ないだろう?」 やはり、答えない。答えられない。 まともな神経を持っていたら、答えられる質問じゃない。 「……そりゃそうよね」 小さく。消えそうな声で、ナツはこぼした。 「ずっと夢だったんだもんね。落ち込むのも、仕方ないよ」 「落ち込む、ね」 這い上がれなきゃ、落ち込むって言わないんだけどな。 悪いが、俺には上に行くためのロープなんてもんはない。崖下に落ちたら、ずっとそのまんまだ。 「覚えてる? あの約束」 「――当たり前だろ」 それがなければ、今、これほど落ちたりしない。 「あれは、私が手術をする前の日だったよね」 「ああ。お前は、泣きそうだった」 本当に、今にも泣きそうなのを、必死でこらえて。そんなナツに、俺は、拳を握って約束したんだ。 「『スポーツ選手になって、たくさん稼いで、欲しい物もしたい事も、なんでもさせてやる。だから、今は耐えてくれ』」 ナツは、くすりと笑った。 「子供の言う事じゃないよね」 「ガキだから、そういう事が言えたんだ」 今なら。純粋さは失われ、世の中に絶望ってものが存在しているって知った今なら。そんな事は、口が裂けたって言えやしない。 静寂が、部屋を包んだ。ナツは、と見れば、ぐっとかみ締めて、何かをこらえているようだった。まるで、あの日のように。 「ねえ。もう、あの頃に戻れないのかな?」 「過ぎちまったら、もう戻りようがない」 過去は、変えられないんだ。どれだけ変えたいと、どれだけ帰りたいと願っても。 「用事は、もう済んだか」 これ以上。ナツの顔を見ていたら、耐えられそうになかった。自分の中の黒いものを、ナツに全てぶつけてしまいそうだった。 「えっと、その……うん」 「だったら、帰ってくれ。俺は疲れたんだ」 テレビを消し、俺はベッドの上に転がった。 ナツはしばらく迷ったように俺を見つめ、手土産を枕元に置いた。 「それじゃあ、まだ今度」 俺は、わざと答えなかった。 ナツは残念そうに俺を見て、そのまま部屋を出て行った。 夕食も終え、俺はまたテレビを見ていた。それ以外に、この病室ではやる事がなかった。 しばらく見ていると、特集が始まった。 『今日の特集テーマは、天才の名を欲しいままにした悲劇のサッカー選手、木島俊彦さんです』 瞬間、頭を鈍器か何かで殴られたような感覚が走った。 木島俊彦。それは、俺の名前だ。 テレビは俺の気など知らず、番組を続ける。 俺の幼少時代。子供の頃から、俺はサッカーだけは上手かった。それ以外は何もできなかったが、とにかく、サッカーの技術だけは誰にも負けた事がなかった。 『木島選手は、天才的なセンスで成長を続け、高校を卒業と同時にプロの世界に。ほどなくして代表選手に選ばれ、ここぞ、という場面では必ず決めて、日本のチームを文字通り引っ張ってきました』 けれど、チームメイトに恵まれた事はなかった。あいつらが嫌いなんじゃない。実際、気のいいバカも多い。けど、技術という一点においては、俺に追いつくレベルのヤツは日本にはいなかった。そのせいで、俺は一度も優勝した事はない。それを、後悔した事もない。 監督から一度、海外のチームに移籍する事を勧められた。けれど、俺は断った。俺は、日本を世界一にしたい。そのために、日本で試合を続けたいと言って。 何より、俺は、ナツと離れたくなかった。 『ところが一年前、木島選手は、脚に重大な疾患を抱えている事が判明しました』 病院で、様々な処置をしてもらった。手術もした。けれど、俺の脚が生き返る事は、ついになかった。 今の俺は、もう、サッカーができない体になってしまったんだ。 『今も木島選手の帰りを待つ人々は多く、特に子供たちは、こんなにも待ち望んでいます』 アナウンサーの後ろには、白い山があった。よく見ないでも、それが手紙の山だとわかる。 『さらに、木島選手を応援するメールも、たくさん来ています』 やめろ。俺はもう駄目なんだ。 『日本中のファンが、木島選手の復活を待ち望んでいるのです』 「やめろッ!」 テレビにリモコンを投げつけると、ガシャッと音を立ててリモコンが落ちる。その時に、スイッチでも触ったのか、テレビが消えた。 俺は荒い息を吐きながら、何も映っていないテレビをにらみ続けていた。 「くそッ!」 拳でベッドを叩く。返ってくるものは、布団の柔らかい感触だけだった。 「俺の気も、知らないで――!」 頭を抱え、俺はうなった。 あいつらは、知るべきなんだ。もう二度と助からない、二度とピッチには立てない男の気持ちを! そうすれば、あんな台詞は吐けない。復活を待ち望む? ふざけるな! 「くそッ、もう、死にてぇよ……!」 生きている、それだけで、こんなにも辛いなんて。そんな事、今まで一度だって思った事はなかった。 「なんで、なんだよ!」 叫んだって、何も返ってこない。 チリン―― 「貴方は、何に対してそこまでの怒りを覚えているの?」 「……あ?」 鈴の音、続けて、女の子の声。顔を上げると、いつの間にかベッドの脇に、見知らぬ女の子が立っていた。 夜空色のワンピースに、飾りのない腕輪。吸い込まれそうな深紅の瞳と黒くて綺麗な長髪が、印象的だった。 「あー、えーと、ここは君の病室じゃないんだけど?」 「知っているわよ。そもそも、私は入院患者ではないもの」 確信犯か。で、入院患者じゃない? 「俺に、用事なのか?」 まさか、ファン? もしそうなら、追い返そう。俺は今、ファンに会えるような状態じゃない。そんなものに、会いたくない。 「貴方に用事はあるけれど、貴方のファンというわけではないから安心して」 「ファンじゃ、ない?」 じゃあ、俺に何の用が? チリン―― 女の子はくるりと回り、俺の目をまっすぐに見つめた。 「私の名前はアンジェラ。アンジェラ・ウェーバー。八番目の死導者、称号は死喰い。貴方たちに理解できるように言うのであれば、死神のようなものよ」 「しッ――!?」 そりゃそう、だ。 いくら病院だって、こんな時間に入院患者以外が病院内を歩いていて、見とがめないわけがない。それに、この子は部屋の扉を開けた気配すらなく、いつの間にか俺の横に立っていた。 そんなの。人間にできる事じゃない。 「いや、待て待て。冷静になれよ、俺」 そうだ。死神なんているわけない。 実はこの子は、入院患者なのかもしれない。ベッドで休んでいて、元気になったら帰っていいとか。よくは知らないが、そういう休憩みたいな形でベッドを使う人もいるって聞いた事がある。 そういう子が、俺に会いに来たのかもしれない。仮にファンじゃなくたって、俺は有名人だから。 そうだ、そうに決まってる。子供の言う事を真に受けるなんて、頭がどうかしてるぜ、俺。 「言っておくけれど、別に貴方は間違っていないし、異常でもないわ。私が言っている事が真実である、それだけ。信じがたいとは思うけれど、」 また、女の子が回る。 チリン―― 「これなら、信じてくれる?」 俺の目の前に、刃物があった。 女の子が、剣を握っている。本当にそれは、剣としか形容のできないものだった。それが、俺に向かって、突きつけられていた。 「……ま、まさか、俺を殺しに来たのか?」 「いいえ。話をしに来ただけよ。ただ、こうでもしないと会話にならないでしょう?」 チリン―― 女の子が鈴を揺らすと、剣が消えた。まるで、煙みたいに。 「それで、貴方は何に怒りの感情を抱いているの?」 もう、認めるしかなかった。手品にしたって、剣を隠すような場所はない。この子は、普通の人間じゃない。それだけは、認めざるをえない。 俺はため息をつき、ベッドに視線を落とした。 「俺が、何に怒っているのか、だったよな」 ゆっくりと、自分の中のモヤモヤと固めて、言葉にする。 「たぶん、ファンだな」 「どうして? 貴方を応援し、支援してくれているのでしょう?」 「期待されるから、辛いんだ。何の期待もされない、何も望まれず、何も願われていないんなら辛くない。俺に日本を引っ張って欲しいって、俺にサッカーをして欲しいって思われる。それが、俺には辛いんだよ」 どれほど応援されても、どれほど期待されても、俺はそれに答える事ができない。しないんじゃなくて、できないんだ。 それが、辛い。重荷になる。けれど、俺にはどうしようもない。結局、こうしてベッドの上でうなるくらいしか、できやしない。 「そうね。それは、仕方のない事だわ」 女の子の声が、頭に降ってくる。なのに俺は、顔を上げられなかった。 「貴方は大切なものを失ってしまった。それは、貴方の中を占める、最も大きな欠片。その喪失感は、何物にも例えがたい。けれど」 チリン―― 女の子の手が、俺の頬に触れた。冷たい、暖かさなんて何もない手。氷のような手。けれど、不思議と暖かさを感じる。冷たいはずなのに、実際に冷たいのに、この暖かさは何だ? 「それも、欠片に過ぎない。貴方の全てではない。貴方というひとりの人間は、一片のみで構成されているわけではないわ」 俺がなんとか顔を上げると、女の子はじっと俺を見ていた。 「貴方にとって、スポーツはとても大切な、何よりも大きな欠片だった。では、次の欠片は? 他の欠片は? 貴方にとって大切なもの、守りたいと思ったものは、それだけだったの?」 「俺が、守りたいもの?」 女の子は頷き、続けた。 「貴方はスポーツを始めた。そして、余りある才能によって、どんどんと上に昇っていった。それは、誰のため? 苦しくても悲しくても、辛くても厳しくても、貴方が努力を続けてきた理由は何?」 「俺が頑張ってきた理由、は――」 それは、あいつに元気になってもらいたかったから。病弱で、生まれた時から入院と退院を繰り返していたようなあいつに、笑って欲しかったから。 俺には他に何もできるものがなくて、だから俺は、サッカーに打ち込んだ。ただ、あいつのために。 もちろん、楽しかった。サッカーも好きだ。だけど、俺がそれ以上に好きなものがある。好きな奴が、いる。 「理解した? いえ、とうに理解していたはずね」 女の子は微笑み、俺に背中を向けた。 「守りたいものがひとつとは限らないし、むしろ唯一でしかない人の方が珍しい。もし何かを失ったとしても、自暴自棄になってはいけない」 チリン―― 「失われたものはそれだけ。他の守りたいものは、まだ無事。なら、自ら何もかもを捨てる必要はない。こぼれ落ちて拾う事ができなくなったものがあるとしても、まだ手に持っているものもあるのだから」 そうだった。俺がサッカーをしようと思ったのは、あいつに笑って欲しかったからだった。 なのに、俺は何をしている? 何をした? あいつは。笑えているか? いや。そして、そうしたのは……。 ぴたり、と女の子が足を止めた。首だけで、振り向く。 その顔を見ながら、俺は言った。 「ダメだ。俺は、あいつを悲しませるだけで、喜ばせるなんてできない。俺にできる事は、サッカーだけなんだ」 そう。俺には、サッカーしかなかった。それ以外のもので、あいつに報いるなんて、できない。だから今の俺には、何もできない。 女の子はまたため息をついた。その様子に、俺は、顔が下を向いてしまった。首が、重かった。 「そうね、貴方は今までサッカー以外の何物も経験してこなかった。そんな貴方では、少なくても同年代の他者と比べれば、能力としては大きく劣ると言わざるをえない」 でも。その言葉に、俺の頭は少しだけ持ち上がった。 「貴方が持っているものが、ひとつしかないわけでもないでしょう?」 「え?」 くすりと笑い、女の子は小さく口を動かす。 「これ以上のヒントは、あげないわ」 チリン―― 「あ、れ?」 俺がまばたきをした次の瞬間、女の子の姿はなかった。 目をこすり、見直す。やはり、病室のどこにもいなかった。 「何を、しろって言うんだよ」 重い体をベッドに預ける。起き上がる気力は、もう沸かなかった。 |