僕は生かされている。
 夢も希望も、活力さえ存在しない、この僕が。
 僕は、死ぬ事さえも許されていない。


 教室に入ると、いつも通り、誰もいなかった。部活の朝練が始まるか、というくらいに早い時間。誰かがいるわけがない。
 それでも僕は自分の席に座り、あくびをした。本当に、いつもの事だ。
 このまま、授業が始まるまでボーッと過ごすのが僕の日課。クラスメイトから何を考えているのか理解できないと言われる原因だ。
「別に、何も考えていないんだけどね」
 ひとりごとを聞き届ける人もいないけど。思っていたら、
 ガラリと。教室の扉が開いた。
「……?」
 珍しい事もあるもんだ、などと思いながら目を向けると、入口のところにクラスメイトの顔があった。たしか、秋山さんだったかな?
 女子の中でも一、二を争うほどに小柄で、弱々しい雰囲気から、小動物のような印象を受ける。
「あ、えと、鍋島君……」
 僕がいるのが意外だったんだろうか。僕が早朝に登校していると知っている人は少ないから、無理もないかもしれない。
 秋山さんは教室の入口に突っ立ったまま、じっと僕を見ている。無意識に見返していた僕は、ふと、口を開いた。
「何かあるんだったら、席を外すよ?」
「え?」
「いや、だから、ひとりで何かしたい事があるなら、教室を出るけど。別に僕は教室にいなきゃいけないってわけじゃないし」
 僕の言葉をようやく理解したのか、秋山さんは顔を赤くして、ぶんぶんと横に振る。
「ち、違うの! だから、ええと、鍋島君は教室にいていいの!」
「そう?」
 なら、問題ない。僕は何も書かれていない黒板に視線を戻し、ただ眺めるだけという作業に戻った。
 ひたすらにボーッとしていると、隣に人の立つ気配がした。顔を向けると、秋山さんが何やら緊張した面持ちで立っていた。
「あ、あの」
「んー、何?」
 秋山さんは深呼吸して、返す。
「鍋島君は、いつもこんなに早く来てるの?」
「そうだけど?」
「へ、へえ。偉いね」
 言いながら、秋山さんは隣の席に座った。
「別に、偉いってほどの事じゃないよ。朝が早くて、家にいても仕方ないから学校に来ているだけだし」
 しかも、ずっとボーッとしているだけ。朝寝をしているクラスメイトの方が遥かに有意義な時間を過ごしているように思う。
「ああと……うん、まあ」
 歯切れの悪い肯定を返し、秋山さんは顔をますます赤くした。
「ええと、その、鍋島君は、お、お昼はどうするの?」
「購買部でパンでも買うつもりだけど?」
 売れ残りのコッペパンとかあんぱんを。食料戦争に参加する意思はないから。
「いつもそうなの?」
「そうだよ。ああ、教室では食べないから、知らなくても無理はないけど」
「じゃあ、どこで?」
 随分と食いついてくるなぁ。隠すほどの話じゃないから構わないけど。
「校舎裏。日は当たらないけど、園芸部の花壇があって気持ちいいから」
 人も滅多に来ない場所だから、落ち着けるし。
「そう、なんだ」
 微妙に頷きながら、秋山さんは言う。
「それが――」
 口を開こうとした途端、また扉が開いた。また女子生徒だ。
 秋山さんは振り返り、クラスメイトの顔を見る。その瞬間、秋山さんはガタリと席を立つ。
「あ、えっと、じゃあね」
「うん?」
 パタパタと駆け去るように秋山さんは離れて行く。どうでもいいけれど、忙しい人だね、秋山さんって。
 あくびをひとつ、僕はまたボーッとする作業に舞い戻った。


 お昼休み。予定通りに売れ残りパンを入手した僕は、花壇に足を向けた。
「まさか、とは思うけど」
 校舎の角に身を隠したまま、そっと花壇の様子を窺う。そこには、ある意味で予想した通りの光景が広がっていた。
 秋山さんは路肩の石に座り、いつもの緊張フェイスで誰かを待っている様子だ。誰かって、言うまでもないけどさ。
 息を吐いて覚悟を決めると、僕は校舎裏に足を踏み入れた。
「あ……」
 すぐさま秋山さんは顔を上げる。よく見ると、膝の上に弁当箱を乗せている。開いた様子はないから、まだ食べていないんだろう。
「どうしたの、こんなとこで」
「あう、それは……」
 まだ言い訳を考える前だったか。仕方ない、助け船を出してあげるかな。
「僕に何か相談でもあるの?」
 秋山さんの隣に座り、横を見る。秋山さんは目を丸くしていた。
「いや、だってさ、こんなところに来るのって園芸部か僕くらいだし。お昼に待っていたんだから、何か話したい事があるって思うのが普通でしょ?」
 内容はサッパリだけど。だいたい、さして親しくもない僕にわざわざ相談したい用件があるようには思えない。ただ、それしか可能性がないってのも事実。
 秋山さんは丸い目をしばらく僕に向け、やがて、催眠術から覚めたみたいにハッとなった。
「えっと、まずはお昼を食べよう?」
「ん、そうだね」
 腹が減ってはってヤツかな。
 僕はパンの袋を、秋山さんはお弁当を取り出し、食べ始めた。
 しばらくは無言が続く。元々、僕から話題が出せるわけじゃないんだから、当然だけど。
「あの、さ」
 秋山さんを見る。あくまで弁当箱からは視線を外そうとしていない。よく見れば、ほとんど箸が進んでいなかった。
「えっと、その、そう、鍋島君――」
 顔を上げた秋山さんと目が合う。途端、外された。これだけ明確にやられると、さすがの僕もちょっと気になる。
「な、鍋島君って、夢とかある?」
 これまた、唐突な話題だな。場が持たなかったんだろうか。そんなに、話しにくい事を相談してくるのかな? だとしたら、困る。そんな話を親しくもない、しかも女子にいきなり話されても、僕にできる事はほとんどない。
「夢なんて、ないよ」
 とりあえず、正直に答える。僕には、夢とか希望とか、そういう明るい言葉は似合わない。
「私には、あるんだ」
 秋山さんは目を空に向けた。僕もつられるように見上げる。
 今日は晴天。雲の欠片も存在しない青い空が、どこまでも広がっている。
「私ね、先生になりたいの。小学校の」
 先ほどまでと違って、秋山さんの口調には“よどみ”がなかった。それだけ、自分の中で確固たる想いになっているんだろう。
 少し、羨ましい。
「私が小学生の時ね、担任の先生がすっごくいい先生だったの。悪い事は悪い、良い事は良いってきちんと教えてくれた。その姿に、憧れちゃって」
「へえ」
 僕とはたいした違いだ。僕の担任は、児童が悪い事をしたら、どうやって自分に悪影響がないように処理するかって事ばかりを考える人だったから。
「それから、ずっと先生になりたいなって思っていたの。ううん、今も思ってる」
 本当に。秋山さんは、生きる希望に満ち溢れた人だね。
 僕とは、正反対だ。
「鍋島君はそういう事、ない? 立派な人とか、優しい人とかに出会って、人生が変わったなんて事」
 立派で優しい人に会って、人生が変わった事。
「ある、かな」
 もっとも、僕の場合は、まったくの逆方向な結果に終わっているけど。
 何も言わないけれど、秋山さんはキラキラした目を僕に送っている。いかにも『聞きたいなぁ話してくれないかなぁ』って顔だ。
 そうだなぁ。話してあげようかな。
 これだけ希望に満ちた人には、知ってみて欲しいから。
「僕の場合は、兄と姉がそういう人だった」
 絶対に晴れない闇ってものを。
「兄さんは秋山さんと同じ、教師を目指してた。真面目だけど優しくて、僕はあちこちに連れて行ってもらったよ」
 四角い眼鏡がぴったりな人だった。今でも、眼鏡の向こうの優しい目つきがハッキリと思い出せる。むしろ、兄さんの顔は、それくらいしか思い出せない。
「姉さんは、子供を、みんなを守りたいって、警察官を目指してた。頭も良かったし、色々な事を知っていた。僕も、色々な知識を教えてもらったよ」
「……もらった?」
 秋山さんは、頭が良いらしい。
 僕は頷き、答えた。
「兄さんも姉さんも、もういないんだ」
 忘れた事はない。
 赤。どこまでも広がる赤。
 壁、天井、床、兄さん、姉さん、父さん、母さん、僕。
 何もかもが赤く染まって、バカみたいに皆が同じ色で、そして。
「引っ越す前の話だから、知らないだろうけど。前の町では有名だったよ、僕の家は。ニュースにもなったからね」
 秋山さんの顔を見る。その顔が、少しだけ青いように感じるのは、僕の気のせいだろうか?
「亡くなったん、だ。えっと、ごめん。変な事を言って」
「気にしないで。僕が勝手に喋ったんだから」
 これ以上を話したら、秋山さんは気を失っちゃうかもしれないなぁ。
 さすがの僕も、そこまで話すつもりはない。僕のトラウマ。消したい、消せない過去。それを、ただのクラスメイトでしかない秋山さんに話すほど、僕も愚かじゃない。
 パンの包みをぐしゃりと潰し、ポケットに突っ込んだ。
「そろそろ、相談できるようになった?」
「え?」
 きょとん、と目を丸くする秋山さん。それが、急に赤くなる。
「あ、えっと、いいの! もう!」
「そう?」
 結局、何が話したかったんだろう。少しだけ気になった。
「――ねえ、鍋島君」
 弁当箱に視線を落としたまま、秋山さんは早口で言う。
「明日も、来ていい、かな?」
「ん? ここに?」
 小さく、本当に小さく頷く。僕は首を傾げながら、答えた。
「別にいいけど? 僕だけの場所じゃないし。気に入ったの?」
「えっと、うん」
 変わっている。ここ、空気は清々しいけど、寒いのに。
 まあ、他人の趣味にどうこう言っても仕方ないか。
 視線を上げると、名前も知らない花が小さく揺れていた。

 それから、本当に毎日、秋山さんは校舎の裏に来た。そして、特に意味もない世間話をかわす。
 彼女と一緒にいると、たまに、どうしようもなく辛くなりそうな時がある。僕とは欠片ほども似ていない人生を送ってきた人が眩しくて、羨ましくて、時に憎くなる。そんな感情はすぐに押さえつける。彼女に、悪気はない。
 秋山さんを見ていると、彼女には何の悩みもないように思えてくる。でも、それはありえないってわかっている。どんな人にも悩みはあるし、秋山さんだって、たまに寂しそうな顔をする事もある。それは、すぐに恥ずかしそうな顔とか笑った顔にかき消されてしまうような、小さなものだけれど。
 なんて、寝る前につらつらと考えていたら、なんとなく目が冴えてきてしまった。
「参ったな」
 布団から起き上がり、僕は頭をかいた。
 ただでさえ睡眠不足だってのに、これ以上、睡眠時間を減らしたくないんだけどな。
 外からは、誰かの歌声が聞こえる。こんな時間に歌うなんて、非常識な人だ。酔っ払いかな。
「――ん?」
 ふと、その声が聞いた事のあるようなものな気がした。
 よーく耳をすませてみる。控えめに、誰かの迷惑にならないように小さな声で、けれど、すっきりと通った旋律。僕はこの声を、知っている。
「秋山、さん?」
 そんな気がした。
 気になって、カーテンを細めに開けてみる。僕の住んでいるウチは二階建ての医院で、僕の部屋は二階だ。そして、ウチの前は遊具のひとつもない広場になっている。
 そこに、街灯に照らされたデッドスペースみたいな場所に、女の子が立っていた。軽く染めた髪を肩のあたりで揺らしている。
「やっぱり、秋山さんだ」
 遠目だったけれど、僕は視力だけは悪くない。それに、見慣れた人だから、すぐにわかった。
「……、」
 どうして秋山さんがこんなところにいるんだろう。そう思ったら、体が先に動いていた。
 着替えて、上着を着込み、音を立てないようにそっと階段を降りる。裏口から抜けると、僕は広場に向かった。
 外に出ると、秋山さんの声はハッキリと聞こえた。決して大きな声じゃないけれど、それでも、なぜだか綺麗に聞こえる。
 広場のところまで来ると、秋山さんは、ちょうと歌い終えたらしい。声が止み、そっと目を閉じた秋山さんは、顔を伏せていた。
「秋山さん」
 僕が声をかけると、わかりやすくビクリと体全体を震わせて、振り向いた。
「ななな、鍋島君!? なななな、なんで!?」
「なんでって、僕の家、そこだし」
 僕が指差すと、秋山さんの顔が、え? という風に変わった。
「でも、そこって、富沢さんじゃ?」
 そう。看板にも『富沢診療所』の文字はある。けど、ここが僕の家と呼ぶべき場所なんだ。
「僕、引っ越したって言ったでしょ? あれ、親戚の家にって意味なんだ。正確には、叔父の家なんだけど」
 叔父さんは人間的には素晴らしい人だ。こんな僕の面倒を看てくれるんだから。ただし、医者としては優秀とは言えないらしいけど。僕が風邪を引いたのだって気がつかないくらいだし。
「ええと……」
 聞いていいのだろうか、というのが顔に書いてある。本当に、この人の考えは読みやすい。
「いないよ、両親とも」
 だから僕は、先に答えた。
 秋山さんはぎゅっと手首を握り、小さく、本当に小さく、震えているように見えた。
「それよりさ、秋山さん。こんな時間にこんなところで、何をしていたの?」
「え? それは、その、ね?」
 急に戸惑い、秋山さんは顔を赤くしてそらした。
 しばらく迷っているようだったけれど、やがて、意を決したように答えた。
「私、たまに眠れない事があって。そういう時は、外で歌うようにしているの。そうすると、落ち着く気がして」
 変だよね、と言い、秋山さんは乾いた笑いを浮かべた。
「だから、時々、遅刻しそうになっちゃうんだ。寝坊しちゃって。そんなのだからさ、鍋島君ってすごいなって思っちゃうんだ」
「別に、すごくないよ」
 思ったままを口にする。すると、目を丸くして答えてくれた。
「僕が早くから学校に行っているのは、単に眠れないからだよ。悪夢のせいで、いつも早くに目が覚めちゃう。仕方ないから、学校に行っているだけなんだ」
 あれから。あの赤い日から、僕は一晩たりとも、ぐっすりと眠れた事はない。
 秋山さんは、僕を心配そうな目で見ている。何が心配なのかは、わからないけど。眠れない事? 変な話をしている僕の頭? それとも、別の何か?
 僕は口の端を持ち上げ、聞いてみた。
「僕の、暗い話。聞いてみたい?」
 彼女の返事は、首肯だった。



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