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小さな壁。他の人との間に作っている、小さな壁。 最初に気になったのは、その正体。けれど今は、そんな事は気にならない。 気になるのは、壁の向こうに待つ、少女の姿。 待ち合わせ場所である図書館前に、黒木は先に着いて待っていた。 両手で小さなバッグを持ち、空をぼんやりと見上げている。おっとりとした雰囲気をまとっているけれど、実際には年上と思いたくなるくらいにしっかりしている。 「黒木」 声をかけると、視線が空からオレに移った。 「おはようございます、品川君」 口元に微笑なんてもんを浮かべ、黒木は答えた。 「他の連中は?」 「まだ、みたいです」 「ったく、おせーなぁ」 「集合時間までは、まだ二十分……近くありますよ?」 時計を見ながら黒木は言う。言っている事はもっともだ。 「いーや、男なら早めに来るくらいでちょうどいいんだよ」 「早すぎますよ。私も、品川君も、ですけど」 黒木はともかく、オレが早くに来るのは理由があるんだけどな。 そんなの、正面から言えるような事じゃないけど。 オレは黒木に曖昧な笑みを返し、わざとらしく誤魔化すように口笛を吹いた。 ――結局、残りのふたりが来たのは、集合時間を五分ばかり過ぎてからだった。 オレと黒木、他二名は、授業の発表グループという繋がりがある。出席番号で班を作れ、なんて小学生みたいな発案を教師がやらなきゃこうはならなかった公算が強い。その点は、あのデブハゲ眼鏡に感謝しなきゃいけない。 こんな繋がりでもなければ、オレと黒木が友達になる事はなかっただろうから。 「ですから、大きな図とかは家で描く事にして、今日は必要な資料を集めて整理するだけにした方がいいと思うんですけど」 どうですか、とばかりにオレたちを見渡す黒木。そう言われてもオレはノープランだし、他のふたりも特に考えて来るような真面目派じゃない。 「それでいいんじゃないか」 オレが言うと、ふたりも特に悩んだ素振りはなく、そのまま頷く。 黒木はニコリと笑い、では適当に本を探してきましょう、などと言いながら席を立った。遅れてオレたちも立ち上がる。 地元図書館には発表に使えるくらいの本なら何冊かある。可能な限りを引用し、余った時間は個人の考察で埋めなきゃならない。ここに関しては、黒木に頼るしかない。 適当にそれっぽいタイトルの本を持って帰ると、すでに黒木は三冊も机に積んで、熱心に読みふけっていた。 オレも席に座ると本を開き、向かいに座る黒木を盗み見た。 柔らかそうな前髪の間から覗く澄んだ目が、上下に動いて並んだ字を追う。整った顔立ちと白っぽい肌は、思わず見とれる美しさがあった。 「――っと!」 なんて、見とれている場合じゃない。こっちはこっちで、やれる事をやらなきゃいけない。 本に視線を落とす。こんな状況でなければ死ぬまで開く事のなさそうな本には、興味も関心も欠片すら詰まっていない文字が列となって並んでいた。 それは、一種の魔法。進むほどに、まぶたを重くする重力変化の魔導書みたいなもんだ。 つまり……だんだん、ねむ、く――。 季節柄、太陽はさっさと任務を放棄して地面の向こうに消えてしまった。頬に紙の痕をくっつけたバカふたりと別れ、オレは黒木と一緒に帰り道を歩いている。 オレの手には黒木の鞄。中には図書館で借りた本が全力で詰め込んであり、その重さは半端じゃない。 「あの、重くありませんか? やっぱり自分で持ちますよ」 「あー、別にいいって。荷物を持つのは男の仕事っしょ」 向かうは黒木の家。ここから歩いても、それほどかからないらしい。 「あ、あの家です」 なんて、考えるまでもなかった。本当に近いな。 図書館から歩いて十分ちょっとだろうか? 七階くらいまであるマンションを黒木は指差していた。 エレベーターに乗り、三階へ。角の部屋が、黒木の家だった。 「よろしかったら、中にどうぞ。お礼にお茶でも淹れますよ」 「あー、そうか?」 せっかくのチャンス。逃す手はない。 オレは黒木に案内されるまま、部屋に上がった。 「お邪魔します」 一応、頭を下げながら入る。と、奥の部屋から物音が聞こえ、四十手前くらいのおっさんが顔を出した。眼鏡の奥で、冴えない瞳が笑っている。 「おや。お友達かい」 「ええ。品川君です」 「ども。品川です」 オヤジさん、かな? こんな昼間っから家にいるって事は、在宅の仕事でもしてるのか? オヤジさんは人のよさそうな笑みを浮かべ、ごゆっくり、と告げて部屋に戻った。 「こちらにどうぞ」 オレは黒木に案内されるまま、台所に通された。椅子を勧められたオレはそこに座ると、黒木はお茶の用意を始めた。 「さっきのは、オヤジさん?」 「はい。翻訳の仕事をしているので、普段から家にいるんです」 翻訳家、ねえ。オレとは性質の合わなさそうな仕事だな。 「どうぞ」 暖かいお茶と菓子を出した黒木は、自分もオレの向かいに座った。 オレは茶を飲みながら、ふと疑問に思った事を聞く。 「お袋さん、は?」 「あ……」 黒木は顔を伏せ、お茶を見つめた。やべえ、聞いちゃいけない事を聞いちまったかなぁ? オレが心配していると、 「――離婚、したんです」 ぽつりと、独り言のような雰囲気で呟いた。 「私がまだ小学校の三年生だった時です。お父さんを一方的に責めて、お母さんは家を出て行きました。以来、この家には戻ってきていません」 「離婚、したのか」 後悔の念がよぎる。やっぱり、聞かなきゃよかった。 「悪い、な。嫌な事を思い出させちまって」 オレが言うと、黒木は顔を上げ、ゆっくりと首を横に振った。 「いえ。私も、もう割り切っていますから。どうしてお母さんが出て行ったのか、までは知りませんけど、それでも、もう私とあの人は他人です」 あの人。そう言った時の黒木は、いつもと違って、言葉に少しだけ冷たいものを含ませていた。 「だから私、家事とかも得意なんですよ。お父さんは、そういうのは苦手ですから」 黒木はどこか、無理に作ったような明るい声で言う。 ここでオレが暗い顔をしていたら、いつまでも湿っぽい空気になっちまうな。よし、ここは気合を入れなおすか。 「へえ。じゃあ、料理とかもできるんだ?」 「はい。普段は簡単なものしか作れませんけど、休みの日なんかには、ゆっくりと料理ができますから。きちんとしたものを作っています。特にお父さんは、体を動かしませんから。栄養の偏りがないようにしているんです」 「ああ、翻訳家だと、やっぱり外には出ないんだ?」 「一日中、家から出ない日の方が多いですね」 そう言って、黒木はくすくすと笑う。その顔は、いつも通り可愛らしかった。 そこに、さっきの冷たい影は、どこにもなかった。 帰り際、夕食を勧める黒木に断って、オレは黒木家を出る事にした。さすがに、まだそこまではできん。 「じゃ、また明日、学校で」 「はい。あの、よろしければ、また来て下さい。発表のまとめとかもありますから」 「ああ、そうさせてもらうよ」 言って、オレは黒木に別れを告げた。 マンションを出て、空を見上げる。すでに陽は沈み、点在する星が懸命にまたたいていた。 「離婚したの、か」 オレの両親は、どこまでも普通の人だ。離婚なんてものすらも縁が遠い。だから、黒木の気持ちは、よくわからない。 あいつが平気だって言うなら本当に平気なのかもしれないし、あるいは無理しているだけなのかもしれない。物腰の柔らかい態度を見ていると、どちらとも取れて、判断できなかった。 「けど、辛くないわけがねーよな」 他の人と違う部分が、自分にはある。他の人よりも明確に劣る部分がある。それは、コンプレックスにならないわけがない。 「だったら、それを埋めるのも、男の仕事っしょ」 頭の後ろで手を組み、オレはのんびりと歩き出した。 もう、冬のにおいがしていた。 発表の準備は、黒木が主に行った。オレもできる事はやったつもりだが、なにせ、本を読むと眠くなる体質。調べるという行動は、明らかに黒木の方が早かった。 その分、オレは原稿のコピーだの、パソコンを使ったスライド作りだの、黒木が苦手な部分を補った。ちなみに他のふたりは、荷物を持たせるくらいしか役に立たなかった。 その日、オレはノートパソコンを手に、黒木の家に向かっていた。黒木はパソコンが使えないらしく、資料の作成はオレがやっている。それを、黒木の家で確認しようという事になった。 二度目のマンションに到着すると、オレは深呼吸をしてから、インターフォンを鳴らした。 『はい』 聞こえてきたのは、オヤジさんの声だった。 「品川です」 名乗ると、 『ああ、聞いているよ。ちょっと待っていてくれるかい』 待つまでもなく、扉が開き、あの眼鏡顔が現われた。 「ようこそ、品川君。娘はちょっと買出しに出ていてね。すぐに戻ってくると思うから、中で待っていてくれるかな」 「はい」 オレはオヤジさんに通され、いつぞやの台所の席に座った。 「私は、お茶を淹れるのが下手でね。娘が帰ってくるまで待っていてくれるかな?」 「お構いなく」 社交辞令を口にするオレの向かいの席に、オヤジさんは座った。 「娘が帰ってくるまで、ちょっと話をしていてもいいかな?」 「構いません、けど?」 オレが心で首を傾げていると、オヤジさんは笑ったような目でオレを見ながら、口を開いた。 「娘とは、親しいのかな」 「同じクラスで、今は友達です」 将来は違う、と思いたい。 「あの子の母親の事は、聞いているかな」 いきなり、ヘビーな話が出てきたな。 「……離婚したと聞いています。理由までは知らないと言っていましたけど」 オレがオレの持つ知識そのままを披露すると、オヤジさんは頷いた。 「あの子には話していない。けど、どこかで感じたようだ。今も気にしているらしい」 やっぱり、割り切ってなかったか。 ある意味で予想通りの内容に、オレは頷いた。 「実はね、私の妻が出て行ったのは、娘が原因なんだ」 「黒木の――?」 オヤジさんは笑っていた。けど、目が、笑いをやめていた。 「本当なら、私のせいだ、と言いたいところなんだけどね。違うんだ。妻は、娘を憎んでいた。実の娘を」 「憎んでいたって、どうしてですか?」 聞くと、オヤジさんは目を細めた。その向こうに、妻の顔を思い出しているのかもしれない。 「私の妻は、自分本位な人間だった。それが子供や私のためであったとしても、自分の時間を削られる事を嫌がった。それでも、母親としての自覚がいずれは出てくるだろうと思っていたんだけどね……」 目算は外れた、ってところか。 「妻にとって、特に娘という存在が、段々と疎ましくなってきたらしいんだ。私は妻のそういう性格を知っていて結婚したんだから文句を言う資格もないが、娘は違う。あの子には、可哀想な事をした」 日に日に溜まっていくストレス。家の中でストレスが溜まるんじゃ、どうしようもない。本当なら、どこよりもくつろげる場所のはずなのに。 「とうとう、耐え切れなくなったらしい。私と娘を置いて、出て行ってしまった」 それからだよ。オヤジさんの言葉は、今にも消え入りそうだった。 「娘が、誰に話す時も丁寧語で話すようになったのは」 あ、と声が漏れた。 少しだけ、変に思っていた。黒木は、上級生や先生だけじゃなく、同年代のオレたちや、後輩に対してすら、丁寧語で話す。最初はただ、どこまでも丁寧なヤツだと思っていたんだけど……。 「昔のあの子は、素直で活発だった。男の子を泣かせるくらいにね」 今の黒木からは、想像もできない姿だ。男子に泣かされる方が、ずっとイメージに合う。 つまりは。母親のせいで、黒木はそこまで変わってしまったんだ。 「あの子が友達を家に連れて来たのは、本当に久しぶりなんだ。品川君」 オヤジさんの目が、オレの目を見つめる。どこまでも真剣な目に、オレは視線をそらせなくなった。 「お願いがある。あの子に、素直さを取り戻してやって欲しいんだ」 「オレに、ですか?」 「ああ。こんなの、本当は父親である私の仕事だろうし、ただの友達でしかない君に頼むのが間違っている事も、十分に承知している。けれど」 息を溜め、一気に吐き出すように言う。 「私じゃ駄目なんだ。どれだけ経っても何をしても、あの子が昔のように笑う事はなくなった。見たところ、君は娘と親しそうだ。だからこそ、君に頼みたい」 冗談や嘘でない事は、目を見ていればわかった。どこまでも真剣で、どこまでも真面目で、どこまでもまっすぐな瞳が、オレを見つめていた。 オレは軽く息を吐き、答えた。 「わかりました。オレにできる事なら、やってみます」 答えると、オヤジさんはゆっくりと頭を下げた。 「ありがとう」 「そんな、たいした事じゃないですよ。顔、上げて下さい」 オレが言ったちょうどその時、 「ただいま帰りました」 黒木の声が玄関から聞こえてきた。 「ああ、お帰り」 答えるオヤジさんは、もういつもの姿に戻っていた。 台所まで入ってきた黒木は、そこで初めてオレの存在に気がついたらしい。 「あ、品川君。ごめんなさい、お待たせしてしまったようですね」 「いや。オヤジさんと話していたら、時間を忘れちまったよ」 オレは、努めて笑顔で答えた。 視界の端で、オヤジさんも笑っていた。 結局、オヤジさんに強要されて、夕食までご馳走になってしまった。 おかげで外は真っ暗。しかも、寒い。 いやまあ、その分、黒木と過ごせたから良いんだけどさ……。 吐く息が白くなりそうだ、などと思いながら歩く。 チリン―― ふと前を見ると、女の子が歩いていた。この寒さの中でも長袖ワンピースだけで平然と歩いている。ある意味で尊敬できそうだ。 何の気なしにすれ違いかけて、 「貴方には、守る力がある?」 言葉に思わず足を止めた。見れば、女の子も足を止め、オレを見上げている。 「守る力、って?」 「言葉のままよ。彼女には不可避の災厄が訪れる。貴方はその深い絶望、苦しみ、悲しみから、彼女を救い、守り、助ける事ができる?」 彼女? 黒木の事だろうか? じゃあ、災厄って? 言っている事が抽象的で、よくわからなかった。 「答えてくれる? 貴方は、彼女を、守れるの?」 「彼女って、黒木か?」 女の子は頷く。長い黒髪が生き物のように揺らめいた。 「黒木に、何か起こるってのか?」 「いいえ。彼女自身には、何も起きないわ」 じゃあ、災厄って何だよ。 聞いても、なんとなくだけど、答えてくれそうにないと思った。 「それで、答えは?」 再び、聞いてくる。答えは決まっているけど、それを言っていいものだろうか。こんな、見ず知らずの女の子に。 女の子は深い紅色の瞳で、オレを見つめる。その吸い込まれそうな目を見ていると、答えなければいけないような気になってきた。 「……守りたいとは、思っているよ」 それしか、オレには答えられない。 「オレは頭とか悪いし、何か特別にできるってわけじゃないけどさ。あのオヤジさんの話を聞いちまったら、できる範囲で守ってやりたいって思うよ、そりゃ」 「――そう」 答えを聞いた女の子は、満足そうに頷いた。 「えっと、ところで君、誰? 黒木の知り合いか?」 「知り合い、と言えば、間違いとは言いがたいわね」 女の子はオレに背中を向けると、駆け出した。 「あ、おい!」 「その気持ち。忘れないでね」 チリン―― 言い残し、女の子は角を曲がって走り去ってしまった。 「何だったんだぁ?」 状況がよくわからないオレは、頭をかくしかなかった。 |