悲しんでいる人がいる。僕には差し伸べる手もある。
 でも、そこで手を伸ばすのは、絶対に正しい?
 それは、断言できない。少なくても、僕には。


 病院のニオイを嗅ぐと、なんとなく懐かしい気分になる。まだ幼いと言える頃に、しばらく過ごした場所だからかもしれない。
 けど。いくら懐かしい気分に浸れると言っても、やっぱりそこは病院。あまり出入りしたい場所ってわけじゃない。
 だって言うのに。
「先輩。いつも僕に無茶をしないように言っているのに、先輩が無茶をしてどうするんですか?」
「いやー、そのぉ、てへへ」
「笑ってごまかしましたね」
 真理先輩はギプスをしていない方の手で、頭の後ろをかく真似事をした。
 昨日の事だ。飼い猫がタンスの上から降りられなくなったとかで、先輩は椅子を使って猫を下に降ろして。
 でもってバランスを崩して転倒。手首骨折、全治三週間。
「……ため息しか出ませんね」
「だってさ、小雪に任せるわけにはいかなかったし。お父さんもお母さんもいなかったし」
「降ろそうとするのはいいですけど、もっと周囲に気を配って下さいよ。とにかく、これでしばらくは仕事もできませんね」
 僕が言うと、先輩は不満そうに口を尖らせた。とは言っても、ファミレスの従業員をギプスした状態でやれるわけがない。せいぜい、裏方の経理とか書類整理とかくらいしかないだろう。
 明日から仕事が増えるな、などと思いつつ空を見上げた。
 病院の中庭から見える空には目立つ雲はなく、少し白っぽい、秋の青空が広がっている。見えるものと言えば、人影くらい。
「――ん?」
 人、影?
 よーく目をこらす。やっぱり、それは人だった。枯葉色のコートに身を包んだ、紳士然とした雰囲気を持つ老人。空を飛んでいるんだから、幽霊とか、そんな類だろう。
「どしたの、くー」
 僕が立ち止まったのが気になったのか、先輩が聞いてくる。
「いえ、ちょっと、空を人が歩いていたもので」
「また、おばけ? 病院って本当におばけが多いんだ」
 この会話、赤の他人が聞いたら絶対に変なふたりって思われる気がする。
 でも、僕がおばけとか魂とか、そういう目には見えないものが見えるってのは本当の事で、だから、どうしようもないんだけど。
「でも、おばけなんて、どこにでもいるんでしょ?」
「ええ、まあ。けど……」
 僕は再び、空を見上げる。紳士の幽霊は、とある病室の窓をすり抜け、中に入っていった。
「気になるの?」
 先輩が、僕の顔を覗きこんでくる。隠しても仕方ないので、僕は頷いた。
「さっきの、なんかこう、普通のおばけじゃない気がしたんです」
 例えば、死導者みたいな。
 そこまでは、言わないけれど。
 先輩はじっと僕を見つめていた。と、いきなり僕の腕を掴む。
「はい?」
「気になるなら、会いに行けばいいじゃない」
 さっさと僕を引っ張って、病院に戻ろうとする先輩。それを、慌てて押しとどめた。
「ちょ、ちょっと先輩! いきなり行くのはまずいですよ!」
「大丈夫よ、きっと」
「いや、先輩? それに、先輩はどこの病室に入ったか、知らないじゃないですかー! ちょっと、先輩!?」
 僕の声は、先輩の耳には届いていなかった。

「来てしまった……」
 個室病棟の最上階、しかも最も奥の部屋っていう、病院でも端っこにあたる場所。その病室の前に、僕と先輩は並んで立っていた。
 病室のネームプレートには、白井百合と書いてある。普通に読んだら、『しらいゆり』だろう。もちろん、知り合いじゃない。
「で、どうするんですか、先輩? いきなり訪問しても、入れてもらえないと思いますよ。そもそも、ここにさっきの幽霊がいるかどうかもわからないですし」
「なんか、いる気がする」
「先輩は、見えないですよね?」
「女のカンよ」
 堂々と言い切られても。
 迷う僕を捨て置き、先輩は扉をノックした。
『はい』
 中から聞こえてきたのは、か細い女の子の声。その声に、先輩が返す。
「すみません、こちらにコートを着込んだ老人が来たと思うのですが、何かご存知ありませんか?」
 そんなにストレートに言って、大丈夫なんだろうか。頭のおかしい人とか思われないかな?
 僕の心配が大当たりしたのか、中から返事はなかなか返ってこなかった。しばらくして飛んできた返事は、先ほどとは違う声だった。
『私に、用か』
 それは、しわがれているのにハッキリしている、健康そうな老人の声だった。
「は、はい」
 先輩には、今の声は聞こえていないはず。だから僕が、返事をした。案の定、先輩は不思議そうに眉をひそめた。
 なおもしばらく待つ。すると、扉が開いた。
「入って」
 女の子の声に導かれるまま、僕と先輩は中に入った。
 そこは、長期入院している人の部屋に特有の、病のニオイに満ちた部屋だった。ベッドの上には、色白で病的に細い女の子がひとり。目を覆うように包帯を巻いている。
 そして、そのベッドのかたわらに、老人が立っていた。イギリスの老人というイメージをそのままカタチにしたような、コートと杖がよく似合う老人だ。
「初めまして。遠藤紅葉を申します」
 とりあえず名乗って、頭を下げた。僕の隣で先輩も、田崎真理です、と名乗る。
「白井百合です」
 ベッドの上の女の子が名乗り、
「ベルフェゴールだ」
 幽霊も名乗った。
「私に用事との事だが、どういう事だ?」
 ベルフェゴールは、帽子の下から鋭い視線を飛ばしてきた。それを見返し、僕は答える。
「あの。僕は、アンジェラの知り合いなんです」
 こう言えば、死導者なら反応するだろう。そう思って、答えてみた。
 反応は、僕の予想よりもわかりやすいものだった。
 顔を上げたベルフェゴールの、丸く見開かれた目が視界に入る。まるで、僕が何を言ったのか理解できない、という風だ。やがて、ベルフェゴールは笑い出した。
「ははは、そうか。貴様、あの天使の知り合いか! なるほど、ならば、この私が見えた事にも合点がいく!」
 続けてベルフェゴールは、白井さんに視線を移した。
「百合、私はこの者と少しだけ話をしてくる」
「うん、ゆっくりと話してきていいよ」
「わかった」
 白井さんの回答に短く答え、ベルフェゴールは僕を見た。
「屋上に来い。人払いは私がしておく」
 言って、ベルフェゴールは窓をすり抜けていった。
 僕は扉に戻ろうとして、
「ちょっと待った紅葉。私に事情を説明して行きなさい」
 先輩に止められた。
 手短に、今の会話を説明する。そして、最期に付け足した。
「僕がひとりで行きますから、先輩はここで待っていて下さい」
「ヤダ」
 即答か。
「相手は、たぶん、死導者です。何か危険な事があるかもしれません」
「なら、なおさらよ。くーをひとりにしておけないでしょ?」
 困ったな。こうなった先輩は、僕の話なんて聞きやしないんだから。
 どう説得しようかと考えていると、
「田崎、さん」
 白井さんが、口を開いた。
「ベルが誰かと話したいって言うの、滅多にないの。だから、できれば、邪魔しないであげて欲しいんです。大丈夫、ベルは、誰かを傷つけたりなんてしませんから」
「でも……」
 先輩は、迷っているようだった。僕をひとりにすると、また何かをしでかすとでも思っているのだろうか。だとしたら、逆だと思う。
「あの、白井さん。あなたとベルフェゴールの関係って、何ですか?」
 代わりに、僕が聞いてみた。白井さんは小首を傾げ、
「ただの友達ですけど?」
「友達――?」
 それは、死導者には最高に似合わない言葉だった。
 死を導く者。だから、死導者。死神にも近い存在である死導者に、友達なんて。
 もっとも、死導者の友達がいる僕が言う事じゃ、ないかもしれないけど。
 僕は再び先輩に視線を戻し、言った。
「先輩、お願いします。僕に、行かせて下さい」
 じっと見つめる。視線をそらしたら負けだ。
 先輩も弱々しく僕を見返し、やがて、視線を外した。
「……わかったわよ。でも、早く帰ってきてね」
「はい」
 安心させるように満面の笑みを浮かべ、僕は白井さんの病室を後にした。

 シーツがはためく、病院の屋上。そこに、ベルフェゴールはたたずんでいた。
 僕が黙って後ろに立つと、ぽつりと、まるで独り言のように言う。
「私が彼女と出会ったのは、偶然だった」
 遠くを見つめるベルフェゴールの横顔は、僕の知る、どの死導者とも違った雰囲気があった。
「たまたま、そう、たまたまだ。私が、ここを訪れたのは。そして私は、彼女と出会い、狂った」
 まるで、疲れきったような、そんな顔。
「私は、彼女に死を導く事ができなかった。死導者であるにも関わらず、殺す事だけはできなかった」
 振り返ったベルフェゴールは、本当の老人のように見えた。
「どうしてだか、わかるか?」
「それが、普通じゃないって言える理由の方がわからないよ」
 くすりと笑い、ベルフェゴールは続けた。
「紅葉、だったな。お前は、アンジェラをよく知るからこそ、そう思うだけだ。普通の死導者は、もっと身勝手だ。人を殺し、その力を得る事で、より強くなる。それだけを娯楽としていた存在だ」
「でも、今は違うんでしょ? なら、それでいいじゃないか」
 口ではそう言ったけど、なんとなく、ベルフェゴールの想いもわかる気がする。
 自分だけが、他の誰とも違う感覚。世界中で自分だけが孤独であるかのような錯覚。それは、僕も知っている。
 僕も幼い頃に、誰も見えない存在が見える事に対して、深く悩んだ時期がある。事情は違うけど、たぶん、似たような感じだったんだと思う。
 ベルフェゴールはじっくりと僕を眺め、ぽつりと言った。
「お前は、変わり者だな。私と同じだ」
「うん、まあ、よく言われるよ」
 苦笑が浮かぶ。性格、能力。色々な点で、僕は変わっている。でも、それが僕の個性なんだから、仕方ない。
「それで、ベルフェゴール。あの、白井さんって、どういう人なんだ?」
「ベルでいい。彼女も私をそうやって呼ぶ」
 言葉を切り、ベルフェゴールは足元を見た。その先に、白井さんの病室を見透かそうとしているかのように。
「彼女は、どうやら魂に傷があるらしくてな。目も見えず、鼻も効かず、触覚も存在しない。彼女にとっての世界とは、ほとんど耳で聞こえるものだけだ。だが、そのおかげかもしれぬな。彼女は私の存在を感知する事ができる。霊的な力は、そこらの霊能力者よりも上かも知れぬ」
「魂に、傷?」
 って事は、現実的には、原因不明の病気ってところか。だから、あんなに長く入院しているようなニオイがしたんだ。
「彼女の病気は他の人間の病気と原因からして異なる。故に、非常に珍しいものだ。だからこそ、医者たちの好奇心を満たすため、ここにずっといる。もう、何年もだ」
「友達、とかは?」
 聞くと、ベルは首を横に振った。
「彼女は学校に行った事がない。両親も仕事だとかで、病室を訪れる事はない。彼女と接する他者は、私のみだ」
 だいたい、わかってきた。
 友達もいない、奇病の女の子。そこを偶然に訪れた死導者。
 彼女のどこに惹かれたのかは、僕にはわからない。たぶん、ベルにもわからないだろう。けど、魅力のようなものを感じた。
 そして、ベルは白井さんと過ごす日常を選んだ。それが、ずっと続いている。いつからかはわからないけど、ずっと。そして、おそらくは、これからも。
 僕も死導者というものを知っている。ベルの言う通り、身勝手に人を殺す可能性もあるって事も。
 でも、今は違うって事も、知っていた。だから、信じられる。
 本当は、どうして死導者がわざわざ病院に来たのか、その理由を知りたかっただけなんだけど。これなら何の問題もない、むしろ、他の問題が見えてくる。
「その、白井さんの傷は治せないのか?」
 聞くと、ベルは首を横に振った。
「私には無理だ。私は生を細かく操る術を持たぬ。私が魂をいじろうとすれば、彼女は自我を失うだろう。だからこそ、私には何もできぬ。それこそ、アンジェラやマリアほどの力があるならば別だろうが」
 アンジェラにマリア。どちらも、死導者の中でも有数の力を持った存在の名前。
 あのふたりほどでなければ、どうにもならない病状。確かにそれは、絶望的だ。
 けど。もし魂に問題があるだけなら、僕には、それを治す術がある。
 ……でも。
「アンジェラにどうにかできるなら、どうして頼まないんだ?」
「頼むまでもない。あの子は、生ける者に手を出す事はない。マリアの許しでもない限りは、な。マリアとて、気まぐれでも起こさぬ限りは、助けたりしないだろう。つまり、今の私には、彼女の病気を治す手立てがないのだよ」
 そう。それが、問題なんだ。
「あ……」
 一言。僕が治すよ、と言えばいい。そうすれば、白井さんはもっと広い世界に出会えるし、ベルもこんな悲しげな表情をしなくて済む。
 けれど、それって、正しい事なのか?
 その確証が、今の僕にはない。
「――なんでもない。戻ろうか、ベル。先輩と白井さんが心配しているかもしれない」
 言い出せるわけが、なかった。



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