駅を出た時、ふと、僕の耳に声が届いた。いや、それは声なんて生易しいものではなかった。
 悲痛な、心苦しくなるほどに切ない叫び声。僕は、思わず耳を塞いでしまった。
 そろそろと、周囲を見渡す。そこには、いつもと何も変わらない町並みが広がっていた。本当に、何も変わらない。まるで……、あの声が聞こえなかったかのように。
「変魂か――!」
 僕は耳を頼りに、声の方向へ走り出した。危ないかもしれない、そもそも僕は何の関係もない。けど、足は勝手に動いていた。
 走る、走る、走る。家の角を曲がった時、そこが目的地とわかった。
 ふたりが、対峙している。
 片方は黒髪を振り乱した女性。手足は枯れ枝のように細くて、手の指は恐ろしく長い。そして、その表情。とても人のものとは思えない、幽鬼と呼ぶべき顔がそこにあった。
 見るだけで足が震えそうな相手を前に、その子供は、しゃんと立っていた。
 白。どこまでも白い、女の子。
 腰まで流れる髪も、身体を包むワンピースも、肌の色までもが、白い。
 けれど、その白さだけを除けば、シルエットは僕のよく知る少女とそっくりだった。
「アン、ジェラ?」
 その名前を、口にする。白い少女は、ゆっくりと振り返った。
「私の事を、アンジェラ、と呼んだかしら?」
 吸い込まれそうな深紅の瞳が、僕を見つめた。
「残念だけれど、私はアンジェラではないわ。私は、マリア。零番目、『聖母』のマリア・キティ・ウェーバーよ」
 僕が何も言えずにいると、マリアは小さく首を傾げた。
「貴方はアンジェラの知り合いかしら? 私の姿も見えるのだから、相当な力があるのね。退魔師には見えないけれど、どういう力なのかしら。面白いわね」
 マリアの注意は、完全に僕へと注がれている。それだけのチャンスを、敵が無視するはずがない。
 化物となってしまった女性が飛び出す。腕を振り上げ、世にも恐ろしい形相で――。
「危ないッ!?」
 僕は、思わず叫んだ。マリアは僕から視線をそらさず、片手を持ち上げて呟く。
奇跡の創造クリエイション
 ガン、と腕がマリアに当たる直前で止まる。まるでそこに壁か盾でもあるみたいに。
 マリアはちらりと変魂を見上げ、
「しつけがなっていないわね。話をしている最中に仕掛けるなんて。蛮勇は死期を早めるだけよ」
 もう片方の手が、ゆっくりと持ち上がる。それを見ていた僕は、思わず口走った。
「待って」
 マリアは律義に動きを止め、僕を見た。その幼い顔に、問いかける。
「まさか、殺すの?」
「ええ。こうなった魂に救いはない。永久の時を、憎まれ、恨まれ、うとまれながら存在し続けるだけ。なら、殺してあげる事とは、慈悲や救いと呼ばれるべきものよ」
「そんなわけないよ。殺して幸せになんてなれない。殺された方も、それに――殺した方も」
 僕は、知っている。命の重みを。生き物という存在の大切さを。
 命を奪った人は、壊れてしまうんだ。どれだけ自分を責めても満足できなくて、苦しんで。そんなの、ダメだ。絶対にダメだ。
「彼女の動きを止められないかな? そうしてくれたら、後は僕がカタをつける」
 僕を見ていたマリアは、表情を笑みの形に崩した。
「何をするつもりか知らないけれど、いいわ。付き合ってあげる」
 マリアは変わり果てた女性を見上げ、呟いた。
奇跡の創造クリエイション束縛の十字架ゴルゴタ・クロス
 どこからともなく、光の十字架が女性の後ろに現れる。途端、女性の手足が何かに引っ張られるように動き、その体が十字架に縛られた。ちょうど、キリストみたいに。
 僕は、身動きができなくなった女性に近寄る。じっと見つめると、鋭い眼差しでにらみ返してきた。
「今、楽になるから」
 言って、僕はさらに見つめる。
 目の奥が熱くなり、舌が乾いていく。それにつれて、女性の輪郭がぼやけ、色の塊に変わっていく。
 この女性は元々、ピンク色だった。そこに、今は鉄色が加わって、この人の本来の姿を変えてしまっている。
 これが、変魂。魂の変わり果てた姿。本来ならただの人間だったのに、死んだ事を認められず、生に固執した姿。
 そんなの、苦しいだけなんだ。死んでしまったら、もう終わりという事を認めなきゃいけない。それを、僕が教える。
 鉄色に触れる。色は徐々に消えていき、数瞬の後、そこにはピンク色だけが残った。
 目を閉じ、再び開くと、僕の前には綺麗な女の人が立っていた。
「わかってくれましたか」
 声をかける。女の人は、小さく頷いた。
「私、もう、死んでいるんですよね」
「……はい」
「もう、何もできないんですよね」
「そうです」
 あなたはもう、死んでしまったから。
 言外にこめた想いを悟ってくれたのか、違うのか。僕にはわからなかったけれど、女の人は小さく、息を吐いた。
 そして、僕に目を向ける。
「ありがとうございました。私、あなたに感謝しなきゃ」
「感謝なんて、しなくていいですよ。僕はあなたに何もできない。あなたがしたい何かを、僕は手伝えない」
「あなた、いい人って言われませんか?」
 突然の質問に、僕は面食らった。答えられずにいると、女の人はくすりと笑った。
「あなたみたいな人ばかりだったら、私も、もうちょっと生きられたかも」
 ふわりと、女の人の身体が浮き上がる。
「さようなら。――もう会わないと思います」
「さようなら。元気で、っていうのは変かな」
 最後にほほ笑み、小さな呟きを残して、女の人は姿を消した。
 耳が捉えたのは、一言。
 ――ありがとう。
 その一言で、僕は救われた気がした。
「ちょっと、貴方」
 声に振り向くと、マリアがじっと僕を見ていた。
「あ、ごめん、ありがとう。助かったよ」
「そんな事はどうでもいいわ。それより、貴方、起源が見えるの?」
「え? うん、見えるよ」
 そういえば、この能力は“アンジェラでもできないほど”に特別な能力なんだっけ。
「そうだ、君も死導者なんだよね? 『聖母』のマリア、だっけ。あれ? 『聖母』……?」
 聖母。それは、特別な存在。
 死導者を生み出した、つまりはアンジェラの生みの親。そして、幼い頃、僕を助けてくれた白い影の正体。
 って、事は?
「そっか、君が僕を助けてくれたんだ。ありがとう、おかげさまで、こうして生きているよ」
「少し、話が飛躍しているわね。そもそも、貴方は何者? どうして死導者を知り、起源までも見切る瞳を持っているの? 私が貴方を助けたというのは、どういう事?」
 ……これは、ゆっくりと説明する必要がありそうだな。

 遠藤紅葉。元々は一般人だけど、幼い頃に交通事故に巻き込まれ、生死の境をさまよった。その時に白い影に助けられ、以来、おばけが見えるようになった。
 その後、なぜだか僕は成長してしまい、起源まで見えるようになった。アンジェラが言うには、『聖母の力が作用したんじゃないか』との事。
 他にも色々とあったけれど、それを話し続けていたらキリがない。だから、およその話だけをしておいた。
 マリアは、歩きながらも僕の話を真剣に聞いていた。僕が話し終える頃には、僕のアパートに到着していた。
「どうする? 家に、入る?」
「お願いするわ」
 マリアを引き連れ、家に入る。こんなところを先輩に見られたら殺されそうだ。もっとも、先輩は霊が見えないけど。
 小さな部屋に入ると、僕は荷物をベッドの上に置き、床に座った。マリアはきょろきょろと部屋を見渡している。
「貴方、私に命を救われたと言ったわね」
「そうだよ。あの時に助けてくれなかったら、僕は今頃、死んでいた」
 じっと僕を見つめるマリアの顔を見て、僕は、ふと思いついた考えを口にしてみた。
「もしかして、覚えてない?」
「ええ」
 あっさりと言われたよ。
「私はアンジェラ以上に気分で動いているわ。助ける事も、逆に殺す事もある。そのいちいちを記憶したりしていない」
 そこまで言って、マリアは言葉を切った。そして、小さく笑い出す。
 その笑みは段々と大きくなり、やがて、高らかな笑い声となった。
「ふふふ、そう、貴方は起源が見えるの。面白いわね、この時代、この場所は! 生を作り出す存在、起源を見抜く存在! しかもそれが、一般人? 私はずっと孤独だった、この世を作り出した神だけが私と居並ぶ事ができる唯一無二の存在だと思っていた。なのに、一部なれど、私と並ぶだけの力を持つ者がこんなにも現れるなんて。この時代は、どうなっているというのかしら?」
 圧倒的なテンションに、僕は言葉を失った。この子、こんな性格だったのか? アンジェラとあまりに違いすぎる。
 マリアの笑いが止まる。それでもまだ、楽しそうにくつくつと肩を揺らしていた。
「貴方は、それだけの力を持っているのに、どうして溺れないで済むのかしら?」
「それだけの力って言っても、そんなにたいしたものじゃないよ。実生活には何の役にも立たない」
「そうかしら? 貴方がその気になれば、誰かを殺す事も容易よ。それも、一般人はおろか、退魔師にさえ理解できない方法で」
 そこで、マリアは表情を引き締めた。
「貴方は、まっすぐね。力を持っているにも関わらず。それは、どうしてなの?」
「そう言われても、自覚もないし、もちろん原因なんてわからないよ。それに……」
 僕がまっすぐ、か。
 それは、なんだか、違う気がする。
「実際に、貴方は先刻もひとりの魂を助けたわ。化物としてではなく、人として処理をした。私は真似しようとさえも考えなかった、立派な発想よ」
 立派な。
 違う、僕は、そんなに凄い人間じゃない。
 大切な人さえも救えない、ダメな人間なんだ。
「――? どうかしたの、紅葉」
 顔色が悪くなったりしていたのだろうか。マリアは言葉を止め、僕を見つめた。
 無理にでも笑顔を作り、それに答える。
「僕は、さ。そんなに立派じゃないよ」
「どうして?」
「本当に救いたい人には、何もできていないから」
 どれだけ多くの人や魂を助けられたとしても。
 僕は、たったひとりの女性を救う事さえもできていない。
「僕には、恋人がいるんだ。年上だけど心が弱くて、先輩風を吹かせる事もあるのに、簡単に折れたりもする。その、一番の原因を、僕は知っている」
 先輩は、人を殺した。
 現代社会では許されない、罪を犯した。
 以来、先輩は壊れている。今の先輩は、僕に依存する事で、平静を保っているだけだ。僕がいなくなったら、先輩は、どうなってしまうだろうか。
「その人のためを想うなら、本当は僕がいちゃいけないんだ。僕がいる限り、自立はできない。なのに、離れられないんだ。僕の方が」
 本当なら、先輩は警察に行き、裁判を受け、罪を裁かれなければいけない。でないと、いつまで経っても終わらない。
 なのに、僕がそれに耐えられないから、そうさせない。先輩に逃げ場を作り、こうして仮初の平和に浸かっている。
 それは、僕のエゴだ。社会正義を無視した、恥ずべき行為。僕は、そういう事をしている。
「どんな時だって、誰を助けたって、僕は僕が誰よりも救いたい人を救えないでいる。僕は、その程度の人間。そういう人間なんだ」
 僕が先輩という人格を守っている。それと同時に、僕が先輩という存在を傷つけている。
 どうするのが、本当に正しいんだろう。
 何よりも重い罪を犯した人間。それが、平和に暮らしているという事実。いつもの僕なら、間違っている、それは良くないと断言するだろう。
 けれど、先輩に関してだけは、とても言えない。それを言ってしまえば、僕の日常は、崩れてしまう。
 マリアはしばらく沈黙した。僕も何も言わないまま、視線を落とす。
 どれくらい、そうしただろう。
 マリアが再び口を開いても、僕は床を見つめたままだった。
「紅葉。明日、その人間に会えないかしら?」
 驚き、顔を上げる。マリアの瞳は、冗談を語っている目ではなかった。
「貴方ほどの人間に迷いを生じさせるほどの女性。私も、見てみたいの」
「それは、構わないけど……。ただ、それなら姿は消したままの状態でいてくれないかな? そうしないと、真理先輩の事だから、心配するに決まってる」
「了解よ」
 マリアと一緒にバイトか。
 ……また悶着が起きなければいいんだけど、そういうわけにはいかないだろうなぁ。



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