人間って、根源的にはバカなんだと思う。
 得にならない事を平然とするし、理にかなっていない行動も多い。
 それでいいと思うんだけどね。私も人間だし。


「付き合っ」「嫌だ」
 …………。
「あのさ。せめて最後まで言わせてくんない?」
「嫌だ。だいたい、毎朝の挨拶代わりにそんな事を言われ続ける、こっちの身にもなれよ」
 言って、石橋くんはため息をついた。
「じゃあな。もう俺に付きまとうなよ、マジで」
 私に背中を向け、さっさと歩き去る石橋くん。その背中を見つめ、私はぐっと拳を握った。
「よし。明日こそは!」
「やめときなよ」
 ぴたりとそのままで動きを止め、私は振り返った。そこにいたのは、はてさて、親友の顔。
「や、レイちゃん。どしたの、こんなところで」
「どしたの、じゃない。っていうか、あんた、いい加減に諦めなよ」
 レイちゃんは呆れた様子で私を見た。対する私は、いつものスマイル。
「諦める理由がないじゃない」
「毎日毎日、告白してはフラれ続けているのは理由にならんのか」
「まったく」
「はあ。あんたって、本当にいい性格してるよね」
 レイちゃんは、ちらりと石橋くんが立ち去った方向に目をやった。
「あんなのの、どこがいいわけ? 顔がいいわけでも頭がいいわけでも運動ができるわけでもないのに」
「優しいもん、彼」
「女の子を無視し続けるあれのどこが?」
 本当に不思議そうな顔をするレイちゃん。そりゃ、理解はしにくいかもしれない。普段は絶対に見せないようにしているみたいだし。
 私は、思い出す。入学式の日、私の前に現われた彼の姿を。
 その日、なんとまあ最悪な事に、私は道に迷っていた。後で知った事だけど、どうやら駅で反対側に降りたらしく、目印になるような建物がどこにも見えなくて焦っていた。
 そんな時、私は彼に出会った。
 彼は、自宅から自転車で同じところに向かう途中だったらしい。明らかに道に迷った顔つきの私を見つけ、自転車に乗せていってくれた。
 たった、それだけ。けど、私にとっては、それだけで十分だった。ほとんど、ひとめぼれのようなものだった。
 ……入学式の後で告白した時にフラれたという事実もあるけど。
「まあ、彼の良いとこは私が知っていればオーケー、というわけでね?」
「おっとー。付き合ってもいないのにノロケが入りましたー」
 沈黙。そして、レイちゃんは口を開いた。
「あの、さ。本当に、やめた方がいいよ、石橋くんは」
 その言葉は、今までのような冗談めいた空気を持っていなかった。だから私も、真剣に問い返す。
「それは、どうして?」
 レイちゃんは、言いにくそうだった。答えに迷い、言うか言わないか迷い、結局、言う事に決めたらしい。
「彼、さ。借金があるらしいんだよね。それも、かなりの金額」
「へ? 借金?」
 レイちゃんは重々しく頷き、続けた。
「石橋くんの父親、最低のダメ親父だったらしくてね。闇金みたいなところで金を借りて、そのまま失踪しちゃったんだって。それで、今は石橋くんが返済するように迫られているって」
「それ、本当なの」
 私はレイちゃんの肩をつかみ、ぐっと顔を寄せた。レイちゃんは、小さく頷いた。
「た、たぶん。事務所から出るとこを見たって人も、いるし」
 瞬間、全てを理解した。石橋くんが、私を拒絶し続けた、その理由。
 石橋くんは、私を受け入れるわけにはいかなかったんだ。私に、迷惑をかけたくなかったから。
「うん、だからさ、諦めた方がいいんじゃないかな」
 レイちゃんの声に、私は返事をしたかどうか。
 自分でも、わからなかった。

 気がついたら、自分の部屋にいた。
 どこをどう通って帰ってきたのかさえ記憶にない。本当にいつの間にか、家の中にいた。そして、そんな事はどうでもよかった。
 彼が追い詰められているという事。それが、単純なまでにショックだった。
 彼は私の事をどう思っていたんだろうか。脳の足りないバカ? ただのうざいお気楽人間?
 実際、私は彼の苦痛の何分の一さえも理解できない、平凡な生活を送っていた。不自由なんてない、優雅ではないけど貧乏でもない、平穏無事の中を生きていた。
 それは、彼の目にはどう映ったんだろう。彼が得られないものを持っている、私という人間は。
 憎まれて当然だった。恨まれて当然だった。
 なのに、彼はそんな様子は見せなかった。私を適当にあしらうだけで、害意なんて欠片も見せなかった。
 彼は、私なんかよりもずっと、強く生きていた。
「――私、は」
 チリン――
「何かができるのだろうか」
 顔を上げると、女の子がふたり、私を見下ろしていた。
 部屋の扉が空いた気配はなかった。私がぼーっとしていたから気がつかなかっただけかもしれないけど。
 それを抜きにしても、不思議な子たちだった。
 何が、というわけじゃない。強いて言うなら、雰囲気だろうか。とにかく不思議な子。それが、第一印象だった。そして、あるいはそれが全てでもあった。
 夜空色の女の子は、優しく笑んだ。
「こんばんは。私はアンジェラ、彼女はケイ」
「……私に、何か用?」
 力の入らない瞳で見返すと、桜色の女の子は頭を抱えた。
「あちゃー。重症ね、これ。あたしらを見て驚きもしないし、騒ぎもしない。それって女の子としてどうなのよ?」
「仕方ないわね。彼女は今、深い後悔と絶望の中にいるのだから」
 夜空色の女の子はじっと私を見つめた。深紅の瞳の奥に、私の姿が見える。
「貴女が何かをしなければならない理由は何もないわ」
 いきなり、そんな事を言った。
「それって、どういう意味?」
「そのままよ。貴女が愛する男性がどのような苦境にいようとも、それで貴女が何らかの義務を負うわけではない。
 貴女の力ではどうにもならないかもしれないし、仮にどうにかなったとしても、貴女にとってはデメリットの方がはるかに大きい。そのような状況で、貴女が何かをしなければならないなんて強要されるはずもない」
 夜空色の女の子は、そっと私の髪をなでた。優しく、慈しむように。
「貴女は恋心に見切りをつけ、諦めてしまえばいい。世界に男性は彼しかいないわけでもない。今回はふさわしくない相手だったと割り切って、ふさわしい人間を探せばいい」
 次の、相手。彼以外の相手。
 そう。別に、彼が初恋というわけでもない。付き合った事もある。彼のために私が何かをする理由は何もないし、素直に諦めてしまえばそれでいい。次の恋愛を探して、普通の恋をすればいい。
 たった、それだけの事。わかりやすい、考えるまでもない事。
 だからこそ、決心は簡単についた。
「そんなの、あなたたちに言われる筋合いはないわ」
 ぐっと足に力を込めて、立ち上がる。見下ろした先にいる夜空色の女の子は、なんだか小さく見えた。
「私が好きな相手は私が決める。私が何をするかは私が決める。私や彼の事について何を知っているのか知らないけど、勝手な事は言わないでよ」
「でも、どうするってわけ? 相手は本物よ。たかだか一般学生のあんたに、何かあいつを救う方法があるっての?」
「ないわよ。でも、立ち止まったら本当に可能性がなくなっちゃう。
 今の私は、彼に顔向けする事もできない。本当の意味で対等になって、もう一度、告白する。そのためには、私が何かしなきゃいけないの!」
 まるで全身が燃えているかのように熱かった。
 何ができるかわからなかった。何もできないかもしれなかった。それでも、何かをしなければいけないとわかった。
 今ここで何もしなければ、私は絶対に後悔する。さっきまでの後悔なんて比にならないほどの後悔を。
 その前に、私は、動かなきゃいけないんだ!
「……貴女の心意気、確かに受け取ったわ」
 チリン――
 夜空色の女の子がくるりと回る。同時に、私の脳裏に見た事のない光景が映し出されていた。
 雑居ビルにある、事務所。いかにも怪しげな雰囲気の、嫌な場所だった。
「そこに行ってみなさい。引いては駄目。正面から憶する事なく貴女の想いをぶつけなさい。そうすれば、きっと届くから」
 チリン――
 再び回った後、女の子たちの姿は消えていた。
 なんだか、夢の中の出来事みたい。自分のしていた事が現実だと、未だに理解が追いつかない。
 それでも、やらなきゃいけない事は、ひとつだった。

 深く息を吸って、吐く。気持ちは不思議と落ち着いていた。昨日の女の子たちのおかげなんだろうか。
 扉に手をかけ、一気に開いた。
 瞬間、事務所中の男たちの視線が私に注がれた。
「ん? 融資希望の方ですか」
 眼鏡をかけた優男が私に声をかけてきた。それに対し、私はキッと力強くにらみすえてやる。
「社長に会わせて下さい。石橋孝明の件で話があります」
「では、少々、お待ち下さい」
 意外と素直に奥まで引っ込んだ男は、すぐさま帰ってきた。
「どうぞ、面会室でお会いになるそうです」
 男に案内され、つい立で区切られただけの空間に案内される。応接セットの向かい側には、やたらと目つきの鋭いおじさんが座っていた。
「どうぞ」
 勧められるまま、私は向かいのソファに腰を下ろす。さあ、ここからが、勝負だ。
「初めまして。私は黒井金融社長、黒井健三と申します。はは、金融業には向かない名前だとよく言われるのですがね」
「井上唯です。本日は、石橋孝明の件で参りました」
「石橋君。確かに当社からいくらか借りておりますね。彼が何か?」
 顔は笑っている。なのに、目だけは全く笑っていなかった。
 怖かった。すぐにでも逃げ出したかった。
 それでも、逃げるわけにはいかない。無理矢理に自分を奮い立たせ、口を開く。
「単刀直入に言います。彼の借金を帳消しにするチャンスを下さい」
「これはまた、おかしな事を。あなたは他人から借りた金を返さなくていいと仰るのですか?」
「ですから、チャンス、です。勝負をして、私が勝ったら借金をゼロにして下さい。もし私が負けたら、倍額を私が代わりに払います」
 これが、私の賭け。
 どちらに転んでも、石橋くんは借金から解放される。そして、後は私だけの問題となる。
「彼の借金の額は、ご存知ですか」
「いえ」
「……二千万です。倍額となれば、四千万。あなたにそれだけの金額が稼げるのですか? 見たところ、学生に見えますが」
「体を売るなりすればいいだけでしょう。そういうのは、あなたたちの方が得意なんじゃないですか」
 黒井の目が細くなった。顔から表情が消える。
「それは、本気で言っているんですか。ここがどういう場所か、理解したうえで?」
「でなきゃ、こんな事を言いません」
 黒井の視線と私の視線がぶつかり合って、火花を散らす。
 先に視線をそらしたのは、黒井だった。
「ははは、」
 急に顔面を笑みで染めたかと思うと、腹の底から笑い出した。
「ははははははは! はっはっはっはっは! いやあ、あなたは実に面白い! 現実離れしている!」
 くっくっくと笑いをかみ殺し、黒井は涙さえ浮かんだ瞳で私を見た。
「いいでしょう。乗りました。勝負の内容と日取りはこちらで決めても構わないのですか?」
「条件があります。この事に関して、石橋くんには何も話さない。そう約束するなら、それで構いません」
「いいでしょう。では、契約成立です」
 ソファから席を立った黒井は、上目遣いに私を見た。
「先に言っておきますが、私は嘘はつきません。仮に我々が負けたら、本当に借金は帳消しにしましょう。そこらのチンピラや暴力団と一緒に考えないで頂きたい」
「ええ、信じます」
「ふふ。我々を信じるという点で、あなたもどこかがぶっ飛んでいますね」
 黒井は、実に楽しそうに笑っていた。



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