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絶望と希望。 正反対の位置に存在する両者。 その狭間に、俺は飲まれた。 この世界は優しくなんてなかった。 たまに見える小さな光は全て闇を際立たせ、成長させるための要因。希望は絶望を育てるための餌に過ぎず、救われる要素なんて何一つとして存在しなかった。 食虫植物が美しい色彩で惑わすように、この世界を彩る美しさってのは、人を食らうための存在なんだ。 絶望の上に作られた、絶望のための世界。そんなところに存在する幸せなんて、幻だった。 「そういうの、わかりませんか。わからないですよね、たぶん」 「ああ……、わからんな」 俺の前に座る鋭い目の刑事は、額にシワを寄せて言った。 「オレにはガキの言葉にしか聞こえん。世界なんて、そんなだいそれたものを語れるほど、お前は生きちゃいないだろうが」 「そうかもしれませんね。けど、俺の世界ではそれが全てだった。誰も食われない希望なんて与えてくれなかった。俺がどれだけ探しても、否定されるばかりだった。俺の世界には、救いがなかった」 「だからって殺していいと思ったのか?」 「いいえ。悪い事だと知っています。だから、したんです。悪者は、正義の味方に殺してもらえるでしょう?」 「死にたければ勝手に死ねばよかったろう。家族や無関係な人まで巻き込んで、恥ずかしいとは思わなかったのか」 こいつ、本当に刑事か? 脇で俺の調書を書いている刑事も呆れていた。まあ、このくらい極端な刑事がいてもいいのかもしれないな。 「駄目なんですよ。自殺じゃ駄目なんです。それじゃあ、俺は逃げた事になる。死者に申し訳が立たない」 「親を殺すのは申し訳が立つってのか?」 「別の話ですから」 これは、ただの詭弁だった。要するに俺のわがままだ。独りで死ぬ勇気がなかったから、殺してもらおうと思っただけ。 でも、世の中、殺してもらおうと思うと案外と難しいとわかった。財も地位もない一介の元学生に過ぎない俺では、なおさら。 刑事はため息混じりに告げた。 「理解ができん。仕方ない、今日は留置場で頭を冷やしてこい。そうすりゃ、少しはまともな考えになるだろう」 それは無理だ。たった一晩で、俺の全てを否定できるはずがない。 いや……、それは間違いか。なにせ、俺の全てはとっくの昔に否定されているんだから。 まあ、なんだっていいや。俺は変わらない。変えられない。 もう、変われないところまで来てしまったんだから。 俺はごく普通の家庭に生まれた。一般的な四人家族だ。 ひとつだけ他の家と違う点があったとすれば、それは生まれた時から仏壇があった事。祖父や祖母の仏壇じゃない。俺の、姉の仏壇だった。 姉は俺が生まれる前に死んだらしい。交通事故だったとかで、俺は写真でしか姉の顔を見た事がなかった。 きっと、俺の家庭が狂ったのは、その時からなんだろう。狂った家庭に生まれた事、それが俺の最大の不幸だったんじゃないかと思う。 俺は姉貴の代わりに生まれたようなものだった。それは、常に俺の中に意識として存在した。 俺の命は、俺だけのものじゃない。その心が、常に俺を前へ前へと連れて行こうとした。 必死に努力をした。おかげで、俺は他人の目から見ても誇れる子供として成長を続けた。姉貴の代わりは、果たし続けていた。 けど、俺の世界の全て、狂った家庭は、徐々にそのひずみを大きくしていたんだ。俺が気がつかなかっただけで。 水面下で何があったのか。俺は、知らない。俺にわかる事は、いつの間にか家族が互いに憎みあっているという、その構図だけだった。 兄貴は父を嫌い、お袋は兄貴も親父も嫌っていた。親父もお袋や兄貴に愛想を尽かしていた。 俺だけが、家族の誰からも愛されていた。その代わりに、他の家族はめちゃくちゃだった。 それでも俺は耐えていた。いつか姉貴の呪縛から解き放たれ、家族が家族となれる日が来ると信じて、俺は生き続けた。 それも無駄になるなんて、知らなかったんだ。 大学に入って四年目。就職活動の時期が来る。様々な会社に行き、面接を受け、雇ってもらえるように努力を重ねた。努力は得意分野だ。 そこで、俺は初めて挫折というものを知った。 どこに行っても、認められない。受け取る通知は不採用の三文字ばかり。 何故? 俺の何が悪い? 混乱する頭を抱え、それでも努力だけは続け。ようやく、小さな会社の内定を得た。 ようやく俺を認めてくれる人が現われた。俺の努力は無駄じゃなかった。希望は存在していた。そう、思った矢先の出来事。 つい、先月の事だ。会社から電話があった。 『会社の経営が予想以上に悪化していまして、それで、できれば内定を辞退して頂けると――』 目の前が真っ暗になった。何も聞こえない、何も見えない。 もう、何もかもが遅すぎた。卒業式すらも終えてしまった俺には、大学院に行く事も、新たな就職先を探す事もできなかった。 希望の芽は、絶望に食らい尽くされてしまった。 その時、俺は死ぬ事を考えた。窓を開け放ち、道路に向かって飛び出す。それだけで俺は楽になれる。そう思った瞬間、俺は思い出した。 “俺は、姉貴の命を背負っている” そう。俺は、自由に死ぬ事さえも許されていなかった。 最後の手段。それは、殺される事だけだった。幸いにも、日本は犯罪者を殺してくれる法律がある。そのためには、犯罪者とならなければいけない。それも、よほどの。 手始めは、兄貴。テレビに夢中になっているその背中に、包丁を突き刺した。 次に、お袋。浴槽に顔を押し付けると、数分で動かなくなった。 三人目は、親父。かなり抵抗されたけど、刃物を持っていた俺が勝った。 それでも、まだ足りなかった。三人。これでは、無期懲役になってしまうかしれない。確実に死刑にされるためには、もっと多くの犠牲者が必要だった。 包丁を持って家を飛び出した俺は、車に乗って片っ端から人に当たっていった。車が電柱に激突した後は、包丁で切りつけた。 効果はてきめん。俺はすぐさま逮捕され、そして、現在に至る。 「今頃、外じゃ大騒ぎなんだろうな」 外の様子はまるで伝わってこない。だけど、どうせいつものように、勝手な議論が飛びかっているに違いない。 俺の経歴を全て調べ上げ、こじつけた理論で俺の動機とやらを探るんだろう。 だが、俺の思想を理解できる人間がいるとは思えない。そう、いるとするなら……そいつは、人間じゃない。 「人間じゃなくて、悪かったわね」 「何? あんたらは、俺の考えまで読めるわけ?」 「顔に思いっきり書いてあったんだけど」 言って、ケイは不快そうに俺を見下ろした。 別に俺はこの高校生みたいな女の子と一緒に事件を起こしたわけじゃない。この子は、数日前から俺の前に現われる、不思議な女の子だった。 桜色の着物と白いミニスカートを組み合わせた衣装。肩くらいまで伸びた、外ハネ気味の髪。曲がる事なんて欠片も考慮しなさそうな、強い色をたたえた瞳。 志野ケイ。自称、死導者。壁をすり抜けたりできる、あからさまに人外な女の子だ。 その正体は、俺にはわからない。それに、そんなものはどうでもいい。俺は、死ぬのを待つだけの身なんだから。 ケイは深く深くため息をつき、隣に立つ女の子を見やった。 「ねえ、アンジェラ。こいつ、本当の本当に無理だと思うんだけど。絶望に染まったとかいうレベルじゃないわよ。絶望の化身ね、化身。黒々としたもんを適当に鍋にぶち込んで煮詰めたようなタイプ。救いようがないわよ」 ケイの隣に立つ女の子は、見上げて返した。 「救われる人間は、私たちの手を必要としないわ。救われない人間、報われない存在にこそ、私たちは必要となる」 返したのは、まだ中学校にも入れないだろうというくらいの、幼い少女。夜空色のワンピースを揺らし、深紅の瞳で周囲を見つめている。 アンジェラ・ウェーバー。これまた死導者とかで、ケイの上司らしい。見た目からすれば年齢的に逆だろ、と思うが、中身はそうでもなかった。 「あのさ、前にも言ったと思うんだけど、俺を救うってのは無理だと思うんだ。俺は救えない、救いようがない。そもそも、俺の世界に救いなんてものは存在しない」 「貴方の世界にないのであれば、私の世界に存在する救いをプレゼントするわ。自分が持っていないからといって、諦めてしまってはいけない」 「じゃあ、俺はどうすればよかったって言うんだ?」 聞き返すと、アンジェラも黙り込んだ。 「未来の希望は食われた。家族にも希望はなかった。恋人なんていないし、友達なんて赤の他人だ。俺が絶望にまみれたからって、引き上げてくれるような奴はいなかった」 どこまでもどこまでもどこまでも、深い闇。耳を傾けてはいけない音色を聞いてしまった俺は、帰れない門を通り抜けちまった。 「どこにも希望なんてなかった! 願いなんて叶わなかった! 俺はそんなに難しい事を要求したのかよ!? ただ、普通の家族と一緒に、普通の生活をしたいって思っただけじゃねえか! なのに、なんでそれが拒絶される!? 俺の何が悪かった!? そうさ、生まれなきゃよかったんだ!」 知りたくなかった。世界がこんな場所だなんて。こんな、悲しみのために生きるような場所なら、俺は生まれたくなかった。 「俺の最大の過ちは、この世界に生まれた事だ。だから、俺は清算する。多くの犠牲の上で、俺は俺の犯した最大の失敗を償う! それで満足なんだろ、そうすりゃよかったんだろ!? 最初から! ずっと! ずっとずっとずっとだ!!」 「……重症ね。まだ生きてるのが不思議だわ」 お手上げ、とばかりに肩をすくめるケイ。アンジェラは、ただ俺を見つめていた。 「ひとつ、聞いてくれるかしら」 「――何」 アンジェラは俺の目の前でしゃがむと、俺の瞳をじっと覗き込んだ。 「貴方は、不幸を見つめ、希望が踏み潰される時を感じてしまった。それ故、世界を恐れ、目を閉じ、耳を塞いでしまっている。小さな物音に怯え、悪魔の影が見えないかと恐怖している。 貴方が信じる通り、この世は優しいばかりではないわ。貴方が言うような側面も、確かに存在している。それは、多面体の持つ一面。けれど、多面体は数え切れない面を持っている。そう、気づいて欲しい」 「俺は、もう気づいてしまってるんだ。どれほどの面を持とうとも、本質はひとつだって。多面体の核は、腐った性根だ」 俺の答えに、アンジェラは悲しそうに顔を伏せ――そっと、離れた。 「私もまだまだ、力不足ね」 ケイに目配せし、アンジェラは腕を揺らす。 チリン―― 小さな鈴の音色が泣きたくなるような余韻を残し、ふたりの姿は消え去った。 「ああ……、くそっ!」 ダン、と思い切り床を叩く。 まだ、手は痛みを感じていた。俺が生きているという事を、証明するが如く。 間もなく俺は起訴され、裁判が始まった。検察官はいかに俺が残虐な行いをしたか立証しようとし、弁護人は俺の精神状態が普通ではなかった事情などを説明しようと懸命に頑張っていた。 それらを、俺は部外者の眼差しで見守る。裁判は順調に進み、やがて、判決の日を迎えた。 すでにお馴染みとなった場所に立ち、俺は裁判官を見上げる。 『最後に何か言いたい事はありますか』 前回の裁判を思い出す。裁判官の質問に対し、俺はできうる限り簡潔に答えた。 『どうせなら、もっと殺しておけばよかったかもしれません。そうすればもっと早く、俺は殺してもらえた』 世界は今まで俺を裏切り続けた。絶望を与えるためだけに、俺を生かしてきた。 なあ、もう十分だろう? 最後くらい、俺の願いを聞き届けてくれ。 お前の力で、俺を殺してくれ。 見えない神に祈りながら、その時を待つ。裁判官は、先に判決理由を述べ始めた。結論を先延ばしにしているせいか、後ろでは記者らしい連中がそわそわしている。結果の第一報を誰より早く届けたいんだろう。何の意味があるのか、まるで理解できない。 長々とした、意味不明の言葉の羅列。その後に、緊張した面持ちで、裁判官はその言葉を告げた。 「よって、被告人を有罪とし……、死刑に処す」 その言葉を聞いた途端、その他が全てどうでもよくなった。 ああ。お前は、こんな願いだけは聞いてくれるんだな。 あるいは、この世界を牛耳っているのは神様なんかじゃなく、死神や悪魔と呼ばれる類のものなのかもしれない。ふと、そう思った。 刑務所に移された俺は、死の時を待っていた。 いつだろう、いつだろう。今すぐでもいい。ともかく、俺を殺してくれ。 いや、慌てる事はない。どうせ俺は殺されるんだ。願いは叶ったんじゃないか。焦る必要は何もない。 静かに、穏やかに日々を過ごす。そんな最中、日常と違う者が現われた。 「面会人――?」 家族も何もない俺に、そんな人間が来るなんて予想外だった。誰だろう、と思いながらも、面会室に通される。 そこで俺を待っていたのは、知らない二人組だった。 ひとりは全力全開の好青年。犯罪とは最も縁遠いタイプに見えた。もうひとりは、これまた取り立てた特徴のない人間。どちらにも共通するのは、おそらく高校生くらいだろう、という事だけだった。 「えーと、誰ですか」 先に死しかない俺は行動のいちいちにためらいがない。思った事は、すぐさま口にできた。 「僕は、遠藤紅葉です」 「野上ワタルです」 「遠藤君に、野上君」 どちらも、俺の知り合いにはいない名前だ。そんな見知らぬふたりが、俺に何の用だってんだろう。 そこで、はた、と思いつく。 「もしかして、君らもアンジェラの知り合い?」 「ええ、まあ。あの子にちょっと頼まれまして」 遠藤は清涼剤でも飲み込んだような笑顔で言うと、隣を見た。野上が頷き返す。 「まずは、僕の話を聞いてくれますか」 前置きし、野上は語り出す。 「僕は、中学に入ったばかりの頃、世界が汚くて仕方ないって思ってました。強盗、虐待、殺人。そんなのが溢れている下らない世界に別れを告げて、さっさと死の世界に生きたかった。それを止めてくれたのが、アンジェラでした」 アンジェラの顔が思い浮かぶ。あいつ、そんなに前から同じような事をしていたのか……。 「アンジェラは僕に教えてくれました。悪いのは世界ではなく、僕自身だと。僕が目を閉じているせいで、美しいものも見えなくなっているって、教えてくれたんです。勇気を持って踏み出せば世界は変えられる。逃げるばかりではなく、踏み出すという事。 それを知った僕は、自分の問題と正面からぶつかりました。そして、乗り越える事ができた。その時の体験が、今も僕の中に生きています」 どこにでもある話に思えた。思春期の中学生にありがちな事、な気がする。少なくても、わざわざ死刑囚の俺に聞かせる話だとは思えなかった。 「つまり、俺が否定的に周囲を見ているから、絶望だらけの世界に見えるって事か?」 「さあ……。それは、僕にはわかりません。あなたの人生も知らないし、現状も知らない。ニュース、あんまり見ないんで……。 でも、今のあなたの目、似ている気がします。昔の僕――閉じた世界でひざを抱えていた頃の僕に」 似ている? 冗談じゃない。 俺の絶望を、希望なんて欠片も存在しなかった人生を、中学生の迷いと一緒にして欲しくはない。レベルが違うどころの話じゃない。種類が違う。 俺はじろりともうひとり、遠藤をにらんだ。 「んで、あんたも同じような話をしに来たのか」 「いえ。僕は、野上君みたいな経験、ないんです。ただ、ちょっとだけ特殊でして」 「――?」 「えっと、おばけ、見えるんです。昔から」 頭がおかしいのか。いや、アンジェラみたいな存在がいるんだから、もしかするとこいつも本物か? さすがの俺も、おばけは見た事がない。もしも会えたなら、あるいはこんな人生にはならなかったかもしれない。けど、とうの昔に死んでしまった姉貴に、今から会えるとも思えない。 「あんまり時間があるわけじゃないので、見えるって前提で聞いて下さい。 僕はたくさんの死者と会いました。あなたのように、人生に絶望した人にも。中には、死んでも後悔していない人だっていた」 遠藤は目を伏せた。まるで、それが自分の責任だとても言わんばかりの態度だ。 「僕には、あなたが間違っていると言う事はできません。本当は正しいのかもしれない。希望は絶望のためにあり、救いなんてものは存在しないのかもしれない。実際、救われない人、見た事もあります」 ただ。小さく、弱々しく聞こえる声。けれど、不思議と耳に残る声だった。 「僕は、救われない人だと諦めたくはない。可能性を探し続けたい。だから、あなただって救われるって、希望を持てるって、信じていたいんですよ」 「死刑囚に?」 「死刑囚でも、です」 なんだ、こいつらは。青臭いどころの話じゃない。俺の大嫌いな、希望ってものだけを信じているタイプだ。 こんな連中と、話していたくない。一緒にいるだけで気分が悪くなる。 それに、ちょうどいい。そろそろタイムリミットだ。 「話はそれだけ? じゃあ、もう帰ってくれ」 「ええ。また来ます」 また? ――やめてくれ。 本当に来ない事を願いつつ、俺の願いは叶わない、と心のどこかが言っていた。 |