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人間の力には限度がある。 死は越えられないし、それを越えてしまったものは、もう人間じゃない。 だから、死ぬって事には意味があるのよ。 「あの子?」 あたしの問いに、アンジェラは無言で頷いた。 あたしたちの視線の先、教室の廊下側の席に座った男の子は、何かしらをノートに書き込んでいる。よーく見るまでもなく、授業とは何の関係もないノートね。だいたいこの先生、さっきから何も書いてないんだし。 先生は注意せず、教科書とにらめっこをしながらお経を唱えている。何人かの生徒はそれを真剣に聞いていた。よくまあ、こんなもんを真面目に聞くわね。 もっとも、大半は昼寝してるか、彼のように何かを書いている。他の授業の宿題か何かかしらね。 あたしは件の男の子の席に近づくと、ノートを覗き込んだ。 「うわ。何これ?」 そこに書いてあるのは、あたしにはサッパリな言語。英語、かしらね。これ。よくよく見れば、出ている教科書もこの授業とは関係がない、アルファベットが羅列してあるもの。あたしは英語なんてぜんっぜん読み書きできないけど、彼にはできるみたい。英語で真剣に文章を書いている。 「アンジェラ、これ、読める?」 あたしは隣に立っている上司に聞いた。見た目はあたしの方が年上だけど、実年齢(?)はアンジェラの方がずっとずっと上だ。そのおかげか、アンジェラに読めない言語は今のところお目にかかった事はない。 「……『セフィロトの樹とは、旧約聖書における生命の樹の事であり、この世界を階層的に示したものである。カバラは選ばれた人間にのみ通じる口伝であり、一般の人間がその英知の片鱗に触れるために、セフィロトの樹という略式的な図形を使用した』とあるわね」 「えーと? なんだって?」 すらすらと読まれたせいで、中身がちっとも理解できなかった。聖書がなんだって? 「要するに、生命の樹という考え方に対する解説ね」 「せーめーのき? 宗教?」 「間違い、ではないわね」 あたしは改めて本を見た。英語で書いてあるから読めないと思っていたけど、ところがどっこい、これじゃあ日本語で書いてあっても理解できそうにないわね。 「オカルトマニアかぁ……、これなら、あたしたちの説明もあんまり難しくなさそうね?」 「どうかしら。なんとなく、ややこしい事になりそうな気がするわ」 もっとも。アンジェラは顔を上げ、 「ややこしい事にならなかった経験なんて、数えるほどしかないけれど」 「あー。そっかもね」 これも一種の宿命ってヤツ? あー。そんな宿命、願い下げなんだけど。 放課後、男の子はまっすぐに別館に向かった。並んでいる表札を見る限りだと、こっちは部室ばかりがあるみたい。 男の子が入っていったのは、オカルト研究会の部室。やっぱり。 中を覗くと、男の子の他には誰もいなかった。部屋も狭いし、いくつかの机と椅子、それに書棚を除いて他には何もない。 男の子は机の上に鞄を置くと、さっきの本とノートを取り出し、続きを始めた。真剣な様子で、とても割り込める雰囲気じゃない。 「どうする、アンジェラ? 話しかけてみる?」 「……誰か来たようだから、後にしましょうか」 アンジェラは軽く後ろを見た。あたしもそちらに視線を向けると、扉が開き、女の子が姿を現した。 くせっ毛の、意志の強そうな女の子だ。女の子はツカツカと男の子に近づき、鞄を乱暴に机の上に放り投げた。 「ちょっと、テル先輩。聞いて下さいよ! マジでひどいんですよ!」 あの男の子、テルっていうんだ。 テルは顔を上げると、呆れた視線を女の子に向けた。 「今度は何?」 「武井先生、ウチの本を取り上げたんです! ちょっと世界史の授業中に英語の勉強をしていただけなのに!」 「あれを英語の勉強って言うのはかなり無理があるだろうけどね。それに、授業は選ばなきゃ。武井先生は厳しいって有名なんだから、普通は避けるでしょ」 「だってあの先生の授業、退屈なんだもん」 「若菜が退屈じゃない授業なんて体育くらいだろ」 言って、テルは再び本に視線を落とす。若菜は鼻息も荒く椅子に座ると、鞄から本を取り出した。こっちも外国語のタイトルみたいだけど……? 「フランス語ね。内容は彼が読んでいるものと大差ないようだけど」 「フランス語ぉ!? ちょっとちょっと、ここってオカルト研究会よね? 別に外国語研究会とかじゃないわよね?」 よくよく見れば、書棚に並んでいるタイトルも、半分以上は外国語だった。あたしに理解できるものでも、『神道とその歴史』『日本におけるキリスト教史』『神と悪魔』などなど、胡散臭いものばっかだ。 「なんか、こう……、普通なら近寄りがたい部室ね」 「そのものたる私たちが言うのもおかしな話ではあるけれど、普通の人間とは趣味が合わないでしょうね」 合わないどころか、引くわよ、普通。 「それにしても、よくまあ、あんな本を読めるわねー。なによ、この子たち?」 「勉強したのでしょうね。あるいは、片親が日本人ではないのかもしれないわ」 言われてみれば、若菜の方は割と彫りの深い顔をしている。テルの方はどう見ても日本人だけど、環境によっては英語くらいなら使えるかもしれない。あたしが、幼い頃から不思議な力を使えたように。 アンジェラは興味深そうにテルの読んでいる本を後ろから眺めだした。一方、読む事もできないあたしは、退屈だ。 「きゅ?」 見れば、エルも退屈そうにあたしを見上げていた。エルは時々、あたしに突っかかってくる事もあるけど、こういう時は気が合う。 「まったく。気まぐれなご主人様を持つと大変ね」 「きゅう」 頷くエルと共に、あたしはボケーッと待つしかなかった。 部屋が夕陽に染まる頃、テルと若菜は一緒に部室を出た。道中も会話に出てくるのはあたしでさえ分からない専門的な話ばかり。アンジェラはそれを理解できるみたいだけど、あたしにはさっぱりだった。 「じゃ、テル先輩、また明日」 駅前で若菜と別れたテルは、そのまま駐輪場の方に向かった。そこで自転車に乗ると、走り出す。どうやら、学校は自転車通学を禁止しているらしい。駅前じゃバレそうなものだけど、いいのかしらね。 あたしたちも空中を小走りに追う事、ほんの十分ちょっと。彼が辿り着いたのは、ごく普通の一軒家だった。 「ただいまー」 家の中に入っていく彼を見送り、あたしたちは見当をつけて外から二階に上がった。 壁をすり抜けて中に入る。そこはちょうど、オカ研の部室と似たような場所だった。机に椅子、ベッド。そして書棚。並んでいる本は、やっぱりオカルト関係のものばかり。どうやら、一発で当たったみたいね。 それにしてもこの部屋、変わってる。普通の高校生だったら、漫画なりゲームなりテレビなりパソコンなり、ともかくそういったものが置いてあるだろうに、この部屋にはそんなものがひとつも見当たらない。あるのは、本当に本だけ。あの子って現代人? 待っていると、男の子が部屋に入ってきた。鞄を机の上に置き、着替える間も惜しむように、書棚から引き出した本を読み出した。 「――行くわよ」 チリン―― アンジェラが鈴を鳴らす。この瞬間から、あたしたちは一般人にも見えるようになった。当然、テルにも。 鈴の音色に気づいたのか、テルは本から顔を上げると振り向いた。視線が、あたしたちとかち合う。 「……誰?」 あたしたちを見たテルは案外と冷静だった。まだ理解が追いついていないのかもしれない。あたしたちの事をいぶかしげに見つめるだけで、特に何かをしようとする気配はなかった。 「あたしはケイ。死導者よ」 「アンジェラ・ウェーバー。こっちはエル」 アンジェラが頭上の黒オコジョを指して言う。 テルはあたしたちをじーっと見つめ、言った。 「で、誰?」 「だからッ! あんたはあたしたちの話を聞いてないわけ!?」 「いや、聞いたよ。指導者なんでしょ? でも、指導者っていきなり言われてもさ。家庭教師、には見えないね」 「――あんた、この小学生みたいな女の子が指導者に見えるわけ」 ああ、声に疲れがにじむ。 「指導者じゃなくて死導者。死を導く者。おばけ、幽霊、死神悪魔精霊ゴーストデビルなんでもよし! とにかく、そういうもんよ」 一気にまくし立てた言葉を、テルはきちんと噛み締めて解釈する。なかなか賢いというか冷静というか。常人離れしているのは間違いない。 「えーと。つまり、死導者、ってのはオカルトなんだ?」 「怪奇現象、と呼べなくもないわね。世の中の表に出る事のない現実の一端よ」 アンジェラがあたしの代わりに話す。てか、こいつにはアンジェラが話した方が通じやすいんじゃないの? 「組成の異なる魂だけの存在、と言えばいいかしらね。こうやって実体化しているのも単なる『力』の一部でしかないわ。本来、私たちに体はないの」 「へー。魂だけで存在する? 確かに、そりゃ悪魔と呼ばれても仕方ないね」 「アンジェラっ!」 あたしは暗に話を進めるように促した。おしゃべりするのはいいけど、あたしたちはそんな事をするためにテルに会いに来たわけじゃない。 あたしたちは、死神。死を告げる者。 その目的は、ひとつしかない。 アンジェラはあたしに向かって頷くと、彼に向き直った。 「私たちが訪れた目的。わかる?」 アンジェラは小さく首を傾げた。 意地の悪い質問だと思う。答えはひとつしかないけど、その答えは普通の人なら避ける質問だから。 「わかるよ」 けど、彼はあっさりとそう言った。そして、たいした事じゃない、と言わんばかりの態度で告げる。 「死を告げに来た。まあ、要するに、ボクは死ぬわけだ」 あまりにあっさりとし過ぎて、現実味が感じられない。本当にこの子が死ぬんだっけ、なんて思ってしまう。 でも、それは事実だ。あたしも死導者の端くれ、そんなのは見ればわかる。 「あんた、死ぬのが怖くないわけ?」 「怖くないというか、死が身近すぎて、そうなるからどうって思わないんだよね」 椅子を軋ませ、テルはあたしたちを見比べた。 「死導者って、やっぱり死者にも会うんだよね」 「まあ、ね」 「つまり、君らにとって死者と生者を分けるものは何もないわけだ」 「――何も変わらないってわけにはいかないわよ」 「そりゃそうだろうね」 うんうんと頷き、テルは続ける。 「けど、ボクのように生きている人間にも、すでに死んでしまった人間にも、君たちは話しかける事ができる。触れ合う事も、一緒に笑う事も泣く事もできる。だろ?」 「否定は、しないけど」 「それは、ボクとは違う事だ。決定的にね」 「何か、あったのかしら」 ないわけがない、と思う。それは、テルの表情を見ていればわかった。 「ひとつ、聞きたいんだけど。死んだ人には、死ねば会えるものなのかな」 「相手の死亡時期と場所によるわね。ごく最近、死亡した場所が特定できる相手ならば、会う事も不可能ではないわ。私たちが探してくる事もできる。けれど、昔に死んだ人にはとても会えない」 「それは、天国でも?」 「私は、天国という存在を見た事がないわ」 「…………そっか」 テルは残念そうにうつむいた。顔は微笑を浮かべているのに、とても悲しそうで。 「ボクには、妹がいたんだ」 その一言で、なんとなく言いたい事がわかった。 「会いたかった。もう一度。そのために、色々と学んだ。でも、駄目だった」 それが、テルの悲しげな理由。 それが、テルが死を受け入れられる理由。 「生者は、死者に会う事はできないわ」 「うん。そうなんだ」 あたしは、普通ではない人間にもたくさん会ってきた。 不思議な能力を使い、死者と話したり、触れ合ったり、時に消滅させる能力を持った知り合いは何人かいる。 けど、テルは一般人。そんな、生まれながらに人と違う能力を持った人間じゃない。 それが、切なくて。やるせなくて。 これが、人間の限界。 「死って、すごい壁だよなぁ」 テルの呟きが、胸に響いた。 翌日も、あたしたちはテルと一緒に歩いていた。今日もテルは外国語の難しい本を読んでいる。 「ねえ。無駄だって思って、なのにどうしてそんな本を読むわけ?」 放課後、部室に入った時、あたしは聞いてみた。まだ若菜はいないから、普通に話す事ができる。 テルは鞄を机の上に置き、 「まあ、ボクの願いは叶わないけどさ。それはそれ、今までずっと続けてきた、言うなればライフワークだから」 「ライフワークでんな難しい本を読めないわよ、あたしは」 「難しくはないよ? だいたい、死導者ならこんなのは日常なんじゃないの?」 「んなわけないでしょ。死者っても、みんながみんな、幽霊になってウロチョロするわけじゃないもの。死んで、それをすぐさま受け入れる人、受け入れざるを得ない状態の人もいる。そういう人は、オカルトなんか感じる暇もないわよ」 「ふうん、そうなんだ。それは興味深いね」 「……あんた、やっぱ本物なのね」 本物のオカルトマニアだ。 などと話していると、廊下を駆ける音が聞こえてきた。あたしは慌てて姿を消す。 次の瞬間、扉をぶっ飛ばしかねない勢いで、若菜が部屋に入ってきた。 「テル先輩! これから一緒に職員室に殴りこみに行きましょう! 大丈夫、今ならきっと勝てますから!」 「今度は何をしたわけ」 「そんないつも問題行動を起こしているみたいな言い方はやめて下さい。ただ、先生に『本を返して下さい』って言っただけです」 「ついでに何か言わなかった?」 「授業が退屈すぎるから本を読まなきゃ寝ちゃうんですと言いました」 「それだ」 あたしもそう思う。というかこの子、感性おかしくない? 「ともかく、そんな不順な理由に付き合う道理はない」 すっぱりと斬り捨て、テルは再び本を読み始めた。若菜は不満そうにウロウロした後、やっぱり昨日と同じ席に座って、同じ本を読み出した。 そのまま、しばらく。部屋に夕陽が差し込む頃になって、テルは口を開いた。 「そういえば昨日、お告げがあったんだ」 「――はあ? テル先輩、頭おかしくなったんですか」 「オカ研の人間ならそれくらいは素直に受け入れてよ」 若菜は口を尖らせ、 「そんで、なんて言われたんですか?」 「もうすぐ死ぬって」 瞬間、部屋の空気が凍った。テルは構わずに話し続ける。 「ボクが死んだらここもひとりきりになっちゃうねぇ。ま、来年の新入生の中から、ひとりくらい捕まえてきてよ。幽霊部員でいいからさ。ああ、そういえばボクは本当の意味での幽霊部員になるね」 「テル、先輩。その冗談、笑えません」 「うん、冗談じゃないから笑わないで欲しいかな」 若菜は本を机の上に置くと、立ち上がった。そして、テルの前に立つ。 「テル先輩。本気ですか」 「言っておくけど、自殺するつもりはないよ。寿命らしいんだ、魂の方の」 「先輩。一緒に秋菜を生き返らせるって約束はどうなるんですか」 「それは無理って事になるね。それと、実は生き返らせるってのも無理らしいよ。秋菜は、もうこっちにはいないらしい。それに、あの世なんてものもないそうだ」 若菜はテルの襟元をつかみ、強引に引っ張った。ボタンがひとつ、弾け飛んだ。 「なんで、そんな簡単に死ぬ事を受け入れられるんですか」 「若菜。人間は、いつか死ぬ。それを受け入れなきゃいけないんだ。オカルトの勉強をして、よくわかった。この先に、幸せは存在しない」 若菜はプルプルと震えていた。やがて、テルを放すと、鞄を引っつかんで部屋を出て行った。一言も、話さないまま。 バタン、と大きな音を立てて閉まった扉を、テルはじっと見つめていた。 「いいの。あれで」 あたしが声をかけると、テルは扉の方を向いたままで言った。 「いいんだよ、あれで」 あたしはアンジェラを見た。 アンジェラは、何も言わなかった。 |