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神奈川県。旧横浜駅。 既存の交通網など絶えて等しい。線路は苗床となり、たくさんの樹木が立体的に生えそろっている。 その中に、巨体があった。 ねじくれた角。長い髭。体はがっしりとしており、全身が鋼のような筋肉で覆われている。背中に生えた翼は頼りないが、あるいは、空を飛ぶためのものではないのか。 大悪魔バフォメット。最高ランクにまで上り詰めた大型種が、建物の屋上から睥睨している。 「やあ、バフォメット」 朝宮はそんな化物に、旧知の友人と再会したかのような調子で声をかける。 バフォメットは荒い息を吐きながら、朝宮を見ている。 「さあ、世界を終わりにしよう。人間を駆逐するんだ。殺すんだ!」 「ルゥ……」 うなったバフォメット。と、その視線が、朝宮からそれる。朝宮もまた、後ろを振り返っていた。 「ついてきたのか。死ぬぞ」 「るせえ。慣れてる」 答えた葛原は浮かんだ汗を払い、対戦車ライフルを握り直した。 手が意図せず震える。怖いのだ。だが、それも当然だ。 ランクAの大型種と、それに匹敵する力を持つ朝宮。どんな奇跡が起きたとて、この組み合わせを倒すことなどできやしまい。 自分はここで死ぬ。それはわかっている。 だが、せめて、一矢だけでも報いなければ。せめて、朝宮だけでも殺せれば……、状況は激変する。きっと、バフォメットも力を失うことだろう。 ――そう信じたい。 「おい、クソ野郎。テメエにゃ人間のプライドはねえのか」 「プライド? それがなんだという。それに、君こそ馬鹿か。僕らはすでに人間じゃないんだ」 「呪力保持者だって、元は人間だぜ」 「だが人間ではない。あの暴動がいい証拠だ。人間は人間を襲わないだろう。人間ではない者だからこそ、あれほど極端にしいたげることができるんだ」 「……」 じっと朝宮を観察していた葛原は、気づいていた。 朝宮の瞳。その色合いが、駐屯地を出た時とは違っている。黒く、昏く――。 「喰われたのか、テメエも。イザナミに」 「いいや、僕が喰ったんだ」 違うな、と口の中でつぶやく。 イザナミに毒されたのだ。イザナミがもつ、人間に対する憎しみ。怒り。それらに、朝宮という人格が塗りつぶされた。 もはや、彼は人間ですらない。半分以上、人ならざる者に意識を奪われた――化物。 「おう、じゃあ、仕方ねえな。死ねや」 葛原は銃口を朝宮に向けると、引き金を引いた。 轟音。とてつもない衝撃が銃身を伝わって腕へと響く。 放たれた砲弾は、朝宮の顔面に激突し、弾け飛んだ。 否――朝宮に当たる、わずか数ミリ手前で砕けたのだ。 「知らないのかな? 呪力を持つ者に、此方の武器は通じない」 彼方と此方。ガラスのこちらと向こう側。 人間は、彼らに抗うことさえできない。 「じゃあ、やるしかねえな」 「そんな脆弱な武器で? 僕を? 舐めるにも程がある!」 葛原が飛び出そうとした直前、先に朝宮が動いた。 研究員とは思えぬ機敏な動作で、瞬時に間合いを詰める。かわせぬ一撃。銃座を盾にした葛原だったが――。 「甘い!!」 さしたる呪力も通わぬ武器など、イザナミを吸収した朝宮には通じない。 強烈な蹴撃。受けることもできぬまま、葛原は弾き飛ばされる。二回、三回と地面をバウンドし、大樹に激突してようよう止まった。 意志に反して口から血が吐き出される。たったの一撃で、体はもはや限界だった。 いや、実際に限界だったのだろう。変種が再発してからというもの、葛原は最前線で動き続けてきた。つい先日もエキドナと戦ったばかりなのだ。これほどの連戦、体を十分に休める暇もない。 もはや、体が言うことを聞いてくれないのだ。 「テメエ……」 「君はそこで見ていろ」 朝宮はバフォメットを見上げる。巨大な悪魔は、ビリビリと咆哮を響かせる。 「さあ、来るんだ、バフォメット。僕がお前を喰らう! 全てがここから始まるぞ! 終わりの始まりだ!」 応じるように、バフォメットは鎮座していた建物から飛び降りた。ずしん、と地面が揺れる。 こうして見上げると、本当に大きかった。身の丈はアルミュール以上。三階建ての建物と変わらない。それだけの巨体ならば立っているだけでも地面を砕きかねない重量になるはずだが、その様子もない。あるいは、呪力で体を軽くしているのだろうか。 バフォメットは巨大な拳を開くと、朝宮に向けた。朝宮は、バフォメットの手のひらに乗る。 「ああ、いい子だ、バフォメット」 「ルルゥァ……」 朝宮は、バフォメットの額に触れた。 朝宮の左腕が脈打ち、それそのものが生き物であるかのようにうごめく。 「行くぞ、バフォメット!!」 朝宮の左腕が、バフォメットの頭蓋を打ち砕いた。 血と脳しょうが飛び散る中、朝宮は嬉々として腕を突っ込む。脳髄の中から引きずり出されたのは、黒いゲル状の物質――イザナミ。 「ははは、はははははははは!!」 イザナミを握りしめた朝宮。その腕がひしめき、イザナミを吸収する。 直後。朝宮の体に変化が訪れた。 白衣が弾け、その下から隆々とした筋肉が盛り上がる。体は巨大化し、服が破れた。 頭の左右からは角が生え、人間の足は硬質化し、蹄に変化する。背中の肉を破って羽が飛び出し、尻からは長いしっぽが飛び出した。 「悪魔……」 それは、人間が悪魔を吸収し、全てを悟った姿だった。 バフォメットの体を蹴り捨てた朝宮は、翼を動かしながら地面に降りる。軽く地面が揺れた。 朝宮は、もはや人間の姿を成していなかった。身の丈は倍ほどにも膨れ上がり、全身が人間ではありえない構造を成している。 バフォメットを――バフォメットの遺伝情報を持っていたイザナミを喰ったのだ。もはや、彼は朝宮でもなければ、バフォメットですらない。まったく別のナニカ――偉大なる悪夢。 「……ああ、とっても気分が良い」 朝宮は空を見上げた。その先、その全て。 「ようやくだ。忌々しい封印を解かれて幾星霜。ようやく、私は人間どもから世界を取り戻せる」 狂気に満ちた瞳。そこには、すでに朝宮だった時の色はない。 それは、あるいは救いか。 「……朝宮、いや、化物。お前は何だ」 「何? 何か、か。強いて言うなら君たちの敵だよ」 「何百年も、何千年も前からいたんだろう、お前たちは。どうしてそこまで人間を目の敵にする」 「当然だろう? 君たちにはずっと苦しめられてきた。煮え湯を飲まされた、と言うのだね」 朝宮は笑う。楽しそうに笑う。自由を喜び、これから訪れる快楽に狂喜している。 「お前は……、どこから来たんだ」 「どこと聞かれても困るがね。君たちの概念では理解できないのだろう? 異界、地獄、ニライカナイ、黄泉。好きに名前をつければいい。いずれも意味はない。ただの記号だ」 やはりか、と葛原は思う。 奴はこの世の存在ではない。伝承にある通り、存在からして違うのだ。 「私と君たちに接点など存在しないよ。君たちは私たちとは違う存在で、捕食しなければ済まない敵なんだから」 「そうかい。オレも同じ意見だ。お前たちは殺す」 「君に? できるかい」 「オレにできるわけねえだろうが。けど、オレたちはお前を殺すだろうぜ。実際、お前は一度、恵美に負けている」 「恵美? ……ああ、なるほど。あの少女か。確かに、彼女は厄介だった。さしもの私も終わってしまったかと思った。だが、まだ終わっていない。これからだ、これからだ!」 アンラ・マンユは葛原を見下ろす。 「まずは彼女だ。彼女を殺せば、私を殺せる存在などなくなる。そして、私は世界中に私を増やそう。三千世界を支配し、私はどこまでも繁栄する!」 手始めとばかり、アンラ・マンユは手のひらを葛原に向ける。 葛原にも、それが感じられた。アンラ・マンユの手に、力が集まっている。もはや計測機器も必要としないほどの呪力。 化物だ。 「死ね、人間!!」 放たれる呪力。葛原は本能的に目をつぶった。直後、腕が焼けるように痛む。 「っ……!?」 だが、意識は続いていた。焼けるほどの痛み。おそるおそる目を開くと、肩口から肉が削がれ、血が溢れていた。 それでも、死んではいなかった。顔を上げれば、アンラ・マンユは彼方を見ている。 「邪魔をしてくれる」 アンラ・マンユの呟きに応じるように、人影が飛び降りてきた。 「アメ、リア……。逃げろ……!」 苦しいながらも声を吐く。確かにアメリアには声が届いたはずだが、異国の少女はアンラ・、マンユから目をそらさなかった。 「バフォメットを食べたのね」 「そうさ。もはや誰も、私を止められない」 「止めてみせる」 アメリアの周囲で、冷気が渦巻く。 空間が軋み、木々が凍りついていく。 「バカ……!」 葛原のうなりを合図にするかのように、戦端が切り開かれた。 |