ベースの姿が見えた時、恵美は思わず座り込んでしまった。安堵で、全身の力が抜けたのだ。
 アメリアをかつぎ、渋谷からここまで移動してくるだけでも、行きの3倍近い時間がかかった。それを思えば、純粋な疲労も、相当なものだろう。
 と、ホテルの入り口から見知った顔が飛び出してきた。先に到着していたのだろう、兄の悠介に、甲斐博士と茅野の姿もある。
「恵美、なんとか帰ってこれたか」
「まあ、ね。ケモノの数が少なくて助かった」
 実際、アメリアをかついだ状態で、大量の変種に襲われていれば、それだけで死んでいた。恵美が帰還できたのは、ただ単に運が良かっただけだ。
「……お帰り。君たちだけでも生きていてくれてよかった。状況は、悠介君から聞いているよ」
「茅野さん。葛原と守屋さんは?」
「まだ帰還していない」
 それだけで、絶望的な状況が伝わってくる。
 恵美が歯噛みした時、ガサガサと後ろの木々が揺らいだ。
 刀を手に振り返る。全身の疲労は、どこかに吹き飛んでいた。
 少し先、樹林が密度を増すあたりに目をこらしていると、
「……よう」
 よろめきながら出てきたのは、葛原だった。
「葛原君! 生きていたか!」
 茅野が嬉しそうに出迎えるが、悠介は眉をひそめたままだった。
「葛原君。守屋さんは?」
「残った。オレを逃がすために」
「……そうか」
 それだけで、彼の末路は十分に知れた。
 皆の間に沈黙が落ちる。とうとう、神威から脱落者が出てしまった。
「いつかは、こんな日が来るだろうと思っていたけどね」
 茅野は髪をガシガシとかき乱す。
「一人で済んだのは、ラッキーだったと言うべきかもしれない。不謹慎だがね」
 茅野の言に、反論した者はいなかった。犠牲者が出ていてラッキーとはひどい言いざまだが、それが事実なのは、この場にいる全員が思っていたことだからだ。
 あの大蛇から生きて逃げ切れただけ、奇跡的だと思わなければいけない。
 葛原は折れたライフルを放り投げると、足をひきずりながらホテルに向かう。
「葛原、まずは医療班のところに行け。恵美、お前もだ。アメリアも連れていけ」
 冷静に言う甲斐に、葛原は足を止めて振り向いた。
「なんでだ」
「怪我をしているからだ」
「守屋は、怪我じゃ済まなかった」
「お前は怪我で済んだ。なら治療すべきだ」
「あいつは! 死んだんだぞ!!」
「だからどうした!!」
 甲斐の一喝に、思わず葛原も口を閉じた。
「死人が出ることなど、元から覚悟の上だろう! だいたいお前たちが生まれるために、どれだけの人間が犠牲になったと思っている!」
「犠牲って……」
「197人だ! Bアンプルの投薬だけで、それだけの人間が死んでいる! あの大災害を生き延びた、貴重な生き残りが!」
「……ッ!」
 それは、神威の面々も聞かされていない事実だった。
 Bアンプルは人間を別の生き物に作り替える。その負荷に、過半数の人間は耐えきれない。葛原たちが生き残ったのは、体力的な面も大きいが、何より運が良かっただけだ。
「そうでなくとも、変種に殺された人間などごまんといる! 今さら一人が殺されたくらいでなんだ! 我々は、その程度で足を止めていられないんだ!」
 言っていることは、滅茶苦茶だった。もし平和な時代だったら、それだけで問題となる発言だった。
 だが、この現状を考えれば、それは事実でしかなかった。今この瞬間にも、変種に殺されている人間はいるかもしれない。世界中が変種のテリトリーとなった現状、人間は捕食される側だ。
 甲斐が黙ると、沈黙が落ちた。不自然な空気の中、葛原は首を振った。
「悪い。感情的だった」
「……いや。私の方こそ、感情に流されていた。すまない」
「いや、悪いのは、オレだ」
 そのまま、片足を引きずりながら、葛原はホテルに戻っていく。その後姿にかける言葉を持つ者は、誰もいなかった。



 治療を終えた恵美は、甲斐のもとへ向かった。
 会議室だったその部屋は、いまや乱雑に散らばった資料や薬品に埋もれている。部屋の片隅、監視用のカメラに繋がっているパソコンの前に、甲斐の姿があった。その隣には、意想外の顔もある。
「……兄さん?」
「恵美か。どうした?」
「ちょっと、博士に相談しようと思って。兄さんがいてくれたなら、ちょうどいいかも」
 恵美は勝手に椅子を引くと、甲斐たちと並んで座った。
「博士、状況は聞いているんだよね?」
「ああ、悠介から報告は受けている。生きて帰ってこられたのは、本当に運が良かったな」
「ボクも、そう思うよ」
 恵美はひとつ頷き、
「博士。あいつは、とんでもない呪力を持っている。正直、どうすれば勝てるのか、まったく考えつかなかった。今も、何も浮かばない」
「実際、地力で負けているんだ。勝ち筋などない。呪力とはそういうものだ」
「そのことなんだけど」
 恵美は自分の手に目をやる。
「『カグツチ』も通じなかったんだ」
「カグツチとは?」
 恵美に代わり、悠介が口を開く。
「八雲の業です。呪力で自分の中にある限界を超え、普段よりも強い呪力を発現させることができます。そのぶん、反動でとてつもない疲労が襲ってくるので、普段は使えませんが」
「なるほど、リミッター解除というわけか。そして、それを使ってなお、渋谷の変種には勝てなかった」
 恵美は頷く。そんな少女に、甲斐は嘆息した。
「聞けば聞くほど化物だな。それだけ、お前たちと呪力の桁が違うということだろう」
「それもそうだと思うんだけど、その、なんだか少しだけ違うような気もするんだ」
「具体的には?」
「あのケモノを相手に『カグツチ』を使おうとした時、全身に痛みが走ったんだ。前に使った時は、そんなことなかったのに」
「恵美、まさかお前、『カグツチ』を使ったのか? ケモノを相手に!?」
 割って入った兄に、恵美は苦笑を浮かべる。
「だ、だって仕方なかったんだよ。最初の襲撃時さ。おじいちゃんが大きなケモノに向かって『カグツチ』を使って、けど、それでもトドメは刺せなかった。だから、ボクも仕方なしに……」
「だけど、お前はその祖父さんから止められていただろう、『カグツチ』は使うな、と!」
「えっと、その、ごめん」
 そう、恵美は祖父から、『カグツチ』は使うなと厳命されていた。だが、それを使わなければ、生き延びることもできなかったはずだ。そういう意味では、仕方ない措置であったとも言える。
「……まったく」
 嘆息する兄の横で、甲斐は何事かを考えている様子だった。と、恵美に視線を向け、甲斐は口を開く。
「つまり、お前は『カグツチ』とやらを使おうとした、だが、全身が痛んだせいで十全の力は発揮できなかった。そう言いたいのか?」
「うん、そう。もちろん、完全な力が発揮できれば、あのケモノを斬れたとは言わないよ。だけど、もう少しは反撃できたようにも思うんだ」
「……」
 甲斐は黙って恵美の腕を握った。
「普段、どこか痛むところは?」
「特にないよ。アジ・ダハーカと戦った時も、そんなことはなかったと思う」
「ふむ」
 甲斐は恵美の全身を検分し、
「恵美。呪力はどこで作っていると思う」
「え? どこって、体?」
「半分正解だ。正確には、全身の細胞が呪力を生み出している。『カグツチ』とやらは、おそらく呪力で全身の細胞を活性化させるのだろうな」
「そうなの、かな?」
 恵美は兄に視線で助けを求めたが、兄も首を横に振った。恵美よりは知的な兄ではあるが、だからといって、研究者というわけではない。
「人間の体には、普段は使わない筋力がある。100%の力は発揮できない、そういう構造になっているんだ。なぜなら、それだけの力を発揮してしまうと、体が耐えられないからだ。それは呪力にも当てはまるんじゃないか」
「どういうこと?」
「そのままだ。お前は最初の襲撃時に『カグツチ』を使ったと言ったな? その時、お前の体は、普段は出さないほどの全力を発揮した。その力に、体が耐えられなかった。日常生活や、普段の戦闘では問題ないのだろうが、同じように全力を出そうとすると、体が悲鳴をあげる。そうだな……、たとえるなら、ひび割れた車といったところか。ゆっくり走ることはできるが、アクセル全開にはできない」
「そのせいで……。じゃあ、それを治すことって、できないのかな」
「はっきり言ってわからん。呪力は、まだわかっていないことの方が多い力だ。私はお前たちに呪力を与えることはできるが、その運用については、まだ研究データが足りていない。ましてや、呪力的に痛んだ体を治す方法など、想像もできん」
「そっか……」
「では、僕らは渋谷の変種を討伐する方法はないんでしょうか」
 甲斐の鋭い視線が、恵美から悠介に移る。
「恵美の『カグツチ』を頼ったことはありませんが、それにしても、八雲の業であの変種は討伐できません。かといって、他のメンバーで、あの変種に特別有効な能力を持っている人もいないように思います」
「その通りだ。というか、地力負けしている時点で、どんな能力を持っていても意味はないがな」
「だとしたら、あの変種は殺せない……、言い換えれば、僕らは、ただ殺されるのを待つしかないってことですか?」
「そうは言わない」
 甲斐は立ち上がると、部屋の片隅に置かれた冷蔵庫から、一本の試験管を取り出してきた。
 濃緑色の液体が詰まった試験管は、コルクで栓がなされている。
「これはBアンプルの原液だ。葛原たちに投薬したBアンプルは、これを薄めたものだ。アンプルは薄めることで致死率を下げることができる一方、発現する呪力も弱まる傾向にある」
「そういえば、投薬しただけで100人以上の人が死んだって言っていましたね」
「197人だ。300人にアンプルを投薬したから、まあ6割から7割程度の人間が死んでいる。だが、これが呪力を発現しつつ死なない、最も薄い薬量なんだ」
「なるほど……。では、その原液を打てば」
「確実にもっと強い呪力が発現できる。まあ、確実に死ぬだろうがな」
 甲斐は試験管の中で薬液を揺らす。
「今、濃度を薄めることなく致死率を下げる研究をしている。成功すれば、より強い呪力保持者が生まれるだろう」
「それまで待て、と?」
「そういうことだ」
「それまでの間に、渋谷の変種がより強くなる可能性は?」
「高い。だが、現状はそれだけしか方法が考えられない。どのみち、対抗策はないんだ。なら、未来に希望を託す他にできることはないだろう」
「それは……」
「もちろん、そんなものは作戦でもなんでもないとわかっている。だが、我々に選べる道は、そう多くないんだ。なら、残った道に、全力を傾けるしかあるまい?」
 甲斐の言葉に、悠介は反論できなかった。



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