深夜。皆が寝静まる頃になっても、甲斐は会議室から出ようとしなかった。
「……ふむ」
 見れば見るほど奇妙な存在だった。生物らしい口などもなく、かといって内臓の一部がごとく血液が通っている様子もない。知らずに見れば、バケツ一杯のゲルにしか見えない。
 顕微鏡で観察しても、核らしきものが見えるものの、それ以外には何もない。水分の塊、そう結論づけるのが自然なようにも思える。
「だが、何かある……」
 全ての変種を採取したわけではない。だが、変種の脳から、明らかに変種とは異なる存在が見つかった。これは、自分の仮説を証明するキーだ。
 こんなにも簡単に、こんなにもあっさりと見つけたカギだ。鍵穴が合わないからといって、嘆くのは早い。
 こいつが大型種を生み出す証拠。さもなくば、この生物を死滅させうるほどの弱点。
 それさえ見つかれば――。
 顕微鏡越しに黒い物体を見つめていた甲斐は、扉が開く気配を感じ、顔をあげた。
 そこに、茅野明彦の姿があった。
「茅野か。とうとう見つけたぞ」
「ああ、それが例の生物か」
「まだ生物とも断定できないがな」
 茅野は甲斐と隣に並ぶと、黒い物体を見下ろす。
 その目に、甲斐は何かを感じ取った。
「茅野。これを、お前は知っているんだな?」
「知っていると言ったら?」
「教えてくれ。こいつは何だ?」
「研究者が答えを要求するのか?」
「確かに、私は研究者だ。未知の生物をあばき、その生態を解明することに喜びを感じることができる人間だ。だが、研究とは生きた人間のためにするものだ。そして、生きた人間は、もういくらも残っていない」
「……お前らしい言い方だ」
「茅野。何を隠しているんだ。どうしてそれを隠さねばならない?」
 茅野はすぐに答えなかった。
 黒い物体を眺めている。その目には、確かに何かの感情が浮かんでいた。それが何なのかまでは、甲斐にはわからなかったが。
「……ヨモツヒラサカ、という言葉を知っているか」
「日本神話だったか?」
「そうさ。キリシタンが言うところの地獄、要するにあの世だ。イザナギという神は、失った妻を取り戻すべく、黄泉平坂へと向かう。ところが、妻はすでに醜い姿に成り果てており、そんな姿を見られた怒りから、妻は夫を追いかけた。夫は命からがらこの世に逃げ帰り、子孫繁栄を誓った……」
「神話を聞きたいわけじゃない」
「妻の名はイザナミ。この黒いスライムの名でもある」
 唐突に現実へと引き戻され、甲斐は口をつぐむ。
「その昔、黄泉平坂から黒い化物――イザナミが現れた。イザナミは人間の力をものともせず、奴に取り込まれると、あらゆる生き物が凶暴なケモノとなった、と言われている。人間はなんとか対抗できないかと考えに考え、ひとつの結論に至った。すなわち、自分たちも取り込まれてしまえばいい、と」
「……まさか」
「そうさ。人間たちは、自らイザナミを喰らい変種となったんだ。呪力を破るには呪力しかない。呪力を手にした人間は、なんとかイザナミを弱らせることに成功した。だが、滅ぼすことはできなかった。それはそうだろうな、所詮、人間が得た力も、元をただせばイザナミのものだ。そこで人間は、イザナミをバラバラに引き裂いて力を分散させ、結界でこれを封じた。恵美たちが言う、ケモノガクシというやつだ」
「じゃあ……、こんなものが、日本中に散らばっているというのか?」
「日本だけかははっきりしないがね。イザナミは封じられてなお、力を持っている。その証拠に、呪力結界の中では、イザナミの力にあてられた生物が、時折、変種と化す。ケモノのことさ。そして、それは人間にも当てはまる」
「じゃあ、恵美やアメリアは?」
「過去を辿れば、呪力結界の近くに住んでいた先祖がいるだろうな」
「……だから、生来の呪力保持者がいたのか」
 イザナミの持つ、呪力を他者に与える力。冗談だ、と笑い飛ばしたいが、それができない。何故なら、それが事実である証拠を自分は見ているからだ。
 大型種による小型種の増殖。あれは、イザナミが持つ、生物に呪力を与える習性のことだったのだ。
「つまるところ、イザナミとは何なんだ?」
「俺は研究者じゃないからな。言い伝えでは、あくまで黄泉平坂から来た異界の化物としか伝わっていない。だから、これは俺の私見だが……、イザナミは、生物の種なんじゃないか、と思っている」
「タネ……?」
「ああ、言い換えれば生物の根幹だ。イザナミがあり、他の生物がある。神話がごとく、あらゆる生物の起源となるんじゃないか、ってな」
「バカな! 生命が、人類がこんなものから生まれたと言うつもりか? 人類は、自分たちの母に殺されようとしているとでも言うつもりか!?」
「私見だと言っているだろう。だが、どうして地球だけに生物が生まれたのか、はっきりしたところはまだ判明していない。それに、詳しく研究をしたわけではないが、地球上に呪力を持つ生物は他に存在しない。そうなると、俺にはイザナミが宇宙から来た原初の生物、そんな風に思えるんだ」
「……」
 甲斐には否定も肯定もできなかった。
 確かにこの生物は、いつから地球にいたのか、はっきりしない。どこから来たのかもはっきりしない。だから、生物が生まれるより早く地球に住み着いた存在だと言われても――証明できない。
「茅野。お前は、どうしてそんなことを知っている?」
 茅野は無言で顔を持ち上げる。
 そのまなざしには、何の色もなかった。
「イザナミという名は初めて聞いた。だが、お前は以前から、この生物が存在していることを知っていたように言う。お前は何を知っている。どこでその知識を得た」
「どこで、と聞かれたら……、実家で、としか答えられないな。俺は、そういうところのものだから」
「……まさか、お前も?」
「ああ。俺も八雲と同じ。呪力結界を見張る役目を担った、一族の末裔さ」
 そう言って、茅野は自嘲的に笑った。
「もっとも、俺は知っての通り、呪力を持っていない。できそこないだ」
「アメリアの両親も能力を持っていないと言っていたな。能力が発現する者と、しない者がいるのか」
「そうさ。そして、俺は一族の中でも、使えない者だった。茅野は弟が継いだよ。俺はそれが悔しくてたまらなかった」
 茅野は、そっとイザナミに触れた。
「俺は必死になって弟を超える方法を探したさ。そこで、イザナミの能力に目をつけた。他者に呪力を与える能力……、それは、俺にも力を与えてくれるんじゃないか、と」
「それで私のところに、あの変種を持ち込んだのか」
「まあな。当時、俺は実家に――日本に居場所がなかった。そこで、渡米し、俺の目的に合致した研究をできる人間を探していたんだ。研究者としての能力が高く、倫理観が薄く、研究以外にはさほどの興味もないような変人を、な」
「……まさに条件ぴったりというわけだ」
 今度は甲斐が自嘲する番だった。大学での研究には飽き飽きし、それでいて社会生活にも興味を持てなかった、当時の自分。
 茅野があの兎を持ち込まなければ、自分はもっと鬱々と生きていただろう。
「お前に変種の研究をさせ、軌道に乗りかけた。だが、俺には、その程度じゃ足りないことがよくわかっていた。少なくとも、お前が作ったBアンプルを投与したマウス程度では、どう見ても弟の呪力量を超えているようには思えなかった」
「それは仕方ない。Bアンプルは、要するに変種の持つ呪力の濃縮液だ。元から微量の呪力しか持っていない小型種をもとに作ったのでは、ろくなものが作れない」
「ああ、それはわかっていたさ。だからこそ、イザナミが必要だと感じていた。全ての根源、始まりの変種。こいつの力があれば、Bアンプルは本物になる。その確信があった」
「……お前、まさか」
「ああ。俺がイザナミをよみがえらせた。実家の裏山に眠っていたイザナミを起こし、Bアンプルの原材料にしようとした。失敗したがね」
 いつも冷静で、たいていのことに頓着しない甲斐でも、さすがに手が震えた。
 彼の言っている意味、それを理解したがゆえに。
「お前、自分が何をしたか理解しているのか。パンデミックなどという言葉では済まないんだぞ」
「ああ。たくさん犠牲になったことも理解している。だからこそ、俺は、俺の手で……、神威の手で、世界を取り戻したいんだ」
 黒い物体に手を添えた茅野は、冗談を言っている風ではなかった。
 甲斐の喉がごくりと鳴る。
「茅野、お前は、歴史上最低の大罪人だ」
「あなたも同類さ、甲斐博士」
「……」
 甲斐の口からは反論が出なかった。声がかすれ、ひゅうひゅうと音だけが漏れる。
「それ、は、だが、しかし」
「博士。あなたにこのことを話したのは、たいした意味があったわけじゃない。ただ、理解しておいて欲しかっただけだ。イザナミはとんでもない力を持っている。死してなお死なない。この死体をここに置いておくだけで、何かのきっかけになりかねない。本来なら封印しなければいけないんだろうが、今の我々にはそんな技術さえない。研究は、急いで欲しい」
 今の甲斐には、小さく頷くことしかできなかった。
 手の震えは、止まりそうもなかった。



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