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悠介は一人、自室で自分の手を見つめていた。 そこに見えるのは、ただの手のひらだ。刀を握ることしかできない、不器用な男の手だ。 「……どうして、僕は」 しばしそうしていると、扉が控えめにノックされた。 「どうぞ」 扉が開く。現れたのは、スーツに身を包んだ、まだ若い女性。 「えっと、首相の秘書の……」 「鳴海です」 名乗り、女性はぺこりと頭を下げた。 「よろしいでしょうか?」 「ええ、まあ。することもありませんし。ですが、何でしょう?」 「たいしたことではありませんが、何か悩んでらっしゃるのでは、と思いまして」 「……」 悩んでいないと言えば嘘になる。 だが、問題は、どうして彼女がそんなことを聞くのか、だ。 「まあ、こんなご時世ですから、悩みは尽きませんが」 当たり障りがないように答えると、鳴海はくすっと笑った。 「妹さん、Aランクの変種を討伐したんですってね」 「ええ。アトラク・ナクアは、恵美がいなければ倒せませんでした。凄い奴ですよ」 「あなたより、ですか?」 「……」 言葉に詰まった。 そんな悠介に、鳴海は笑みを深くする。 「確かに、恵美は、もはや僕よりも強いですね。僕には呪力の流れと言われても、よくわからない」 「呪力の扱い、それは妹さんの方が優れているようですね。ですが、戦術的・戦略的な判断力や、チームをまとめて指示する能力などは、妹さんに負けないのでは? 組織には、そんな力の方が重要です」 「それは、そうかもしれませんね」 彼女の言う意味がわからず、悠介が心の中で眉をひそめていると、鳴海は悠介の隣に座った。 ベッドのスプリングが軋み、ふわりと体温が伝わってくる。 「どういうつもりですか?」 「スカウトです、ただの」 甘い声音。鳴海はスーツの上着を脱ぐと、ベッドにかける。開き気味の胸元が覗いていた。 「僕に、恵美たちを裏切れ、と?」 「神威は存続しました。あなたたちの努力が実った結果です。ですが、ただそれだけ。茅野社長は、決して信用しきれません」 「どうしてですか?」 「彼は隠し事をしているからです」 「隠し事?」 「ええ。彼は、あなたと同じ、呪力保持者の家系に生まれています」 「えっ……?」 それは、悠介にとっても初耳だった。 アメリカ時代から彼を知っているが、そんな様子はおくびにも出さなかった。 「正確に言うのなら、本家と呼ばれるべき存在です。あなたの先祖も、元をただせば茅野家の者です」 「それは、本当のことですか?」 「もちろん。ですが、茅野社長は呪力を持っていない。才能がなかったのでしょう。そんな彼が呪力保持者を率い、かの大災害でも大きな被害を受けないまま、組織を立ち上げた。偶然でしょうか」 「まさか」 「……本当のところはわかりませんけれど。ですが、彼に、あなたたちの命を預けるのは、不安で仕方ないのです。わかっていただけませんか?」 鳴海はそっと悠介の手を握る。 「あなたの手を貸してください。この私に」 「……」 うるんだ瞳が自分を見上げている。 その瞳を見返しながら、しかし、悠介は異なることを考えていた。 甲斐玲奈があてがわれた自室に戻ると、ルームメイトの菜々がベッドに座って白湯をすすっていた。 「あ、お帰りなさい」 「……ああ」 短く答え、甲斐は体をベッドの上に放り投げた。ギシリとスプリングが鳴り、体が少しだけ跳ねる。 「どうしたんですか、甲斐さん。お疲れみたいですけど」 「たいしたことじゃない」 答えながらも、頭の中をめぐるのは、茅野から聞いた話だ。 イザナミ。生物の根幹。 「人間は、バカだな」 「はい?」 「自分で育ち、自分で自分を殺す。くだらない生き物だ」 「どうしたんですか、本当に」 くすっと笑い、菜々は甲斐の隣でベッドを弾ませる。 「研究とかわからないですけど、でも、甲斐さんは少し考えすぎだと思います。もう少し恵美を見習っていいかも」 「恵美か。まあ、あいつなら、こんなことでは悩まないかもしれないがな」 「頭が悪いから?」 「はっきり言うな、お前も。バカではあるが、それはむしろ純粋と言い換えるべきものだ」 恵美は、人を救うということに対して疑問がない。愚直に、ひとつのことに集中している。だから、悩むことはあまりない。たとえ悩みがあったとしても、変種を討伐するという最大目標の前では、全てがかすむだろう。 それが彼女の美徳であり、真似ができない才能でもある。 「……」 もし、恵美が茅野の話を聞いていたら、どうしていただろうか。 彼を許さず、その場で切り殺しただろうか。 そんな恵美を想像しようとしたが、できなかった。恵美が人に刀を向ける姿は考えるだに難しい。 そういうことだ。茅野は許されないことをした。戦争の引き金を引くよりもなお悪いことを、彼は自分の手で行った。普通ならば発狂してもおかしくないほどのプレッシャーがあったに違いない。それでも彼は、神威を率いて、世界を取り戻す道を選んだ。 彼は彼で、やはり呪力の一族なのだ。強い責任感と、とび抜けた精神力がある。自分には、そんなものがない。 だから、苦しむ。 そんな甲斐をかたわらで眺めていた菜々は、ぽつりとこぼした。 「知っていますか、甲斐さん」 「……何を?」 「恵美って、運動会でも一番でした。女子の中では、ですけど」 「女子の中では?」 「はい。恵美がいくら運動神経がよかったって言っても、男子ほどじゃありませんでした。学校での恵美は、体育が5の、他の成績がうんと悪い、ただの明るい子でした」 「呪力を使っていなかったということか。学校では」 「そうです。恵美にとって、呪力って変種と戦うための力なんです。だから、学校でヒーローになるためには使わなかった」 「それは立派だな。それがどうした?」 「わかりません? それ、すごく心が強くないとできなかったと思います」 一息し、白湯を口に含んだ菜々は、続ける。 「あたし、誰でも漫画みたいなすごい人になりたい願望を持っていると思うんです。テロリストが学校に襲来しても一人で片づけちゃう妄想するくらい」 「不可能だ」 「そう、普通はできません、そんなこと。それがわかっているけど、でも、自分だけは他の人と違う特別な存在になりたい。そんな願望は誰だってあると思うんです。そして、恵美は実際に、他の人とは違う力を持っていた。なのに、その力をひけらかすことも、頼ることもしませんでした」 「それだけ自分を律する心があったということだろう。呪力など、一般生活で使っていたら大パニックだ」 「そうですね。でも、恵美もあたしたちと同じ、女の子です。なのに、なんでそんなに強いんだと思いますか」 「……」 それは考えたことがなかった。心が強い者は、意識せずとも、そういうものなのだと思い込んでいた。 だが、実際は、菜々の言う通りだ。恵美も、悠介やアメリアや、そして茅野さえも、普通の人間と同じように食べ、思い、生きているはずだ。 「これは、あたしがそう思っているだけなんですけど……、それが、恵美のやさしさじゃないかなって思うんです」 「やさしさ?」 「はい。えっと、前に恵美が言っていたんです。ケモノと戦うのは自分の使命だ、って。恵美にとって、自分の力でみんなを守ることは責務なんです。自分の力は、みんなを守るためのもの。自分を守るためのものじゃないんです。だから、自分のために力を使おうとは思わない。他人を優先して、他人のために力を使おうとする」 「……そうだな、あいつはそういうバカだ」 呪力を私利私欲のために使えば、大災害が起きる前、もっと楽に生きていく方法はたくさんあっただろう。なのに、彼女はそれをしなかった。 「だから恵美は自分を律せるんだと思うんです。みんなを守ることは恵美にしかできない。 だから自分がやる。恵美にとっては、それだけのことなんじゃないかなって」 「立派なことだ」 彼女は、それだけの心を持っている。 自分にはない。その違いが疎ましい。 甲斐が天井を見つめていると、菜々の声が聞こえてくる。 「恵美は何度も危ない目に遭いました。それでも迷わず、あたしたちを守るために戦ってくれます。使命感です。あたしには、甲斐さんがなんで悩んでいるのか、わからないですけど……、同じことじゃないですか?」 「同じ?」 「甲斐さんには甲斐さんにしかできないことがあります。恵美が、恵美にしかできないことをしているように、甲斐さんも甲斐さんにしかできないことをしています。何か失敗したとしても、それが甲斐さんにしかできないことには違いありません。甲斐さんの使命です。なら、迷うことはないと思います」 「迷っている? 私が?」 「そう見えましたよ」 そうかもしれない。 そう、自分は、茅野の話を聞いて、恐ろしくなったのだ。自分たちの研究が招いた結果、その結末。 世界は激変した。ほとんどの人間が住む家を失い、家族を失い、果ては自分の命までも失った。 そのきっかけに自分たちがいることに、たまらなく恐怖したのだ。 「恵美がくじけないで済むのは、自分がどれほど失敗しようとも、結局は自分でやるしかないから……、使命だからかな、って思います。甲斐さんがしている、甲斐さんにしかいできないことは、他の誰も代われないんです。なら、結局はやるしかないと思います」 「やるしかない、か……」 自分は多くの人間を殺した。取り返しがつかないことをした。 だが、取り返せるものもある。いや、自分にしか取り戻せないものがある。 たくさんの犠牲の上に立っているのだ。もはや、立ち止まることさえできない。 今、自分にできることは――イザナミを調べ、その弱点を知り、世界中から大型種を駆逐することだ。そうすれば、人間は生活圏を取り戻すことができる。 その手法を確立させることができるのは、きっと、自分しかいない。 恵美は、そんな、自分にしかできないことを、迷わずやっているだけだ。少しは、彼女を見習っていいかもしれない。 自分にしかできないことをやる。 それが使命と呼ぶべきものだ。 甲斐はベッドの上に体を起こすと、かたわらに座るルームメイトを見やる。 「菜々。お前、エスパーか何かなのか?」 「はい? なんでですか?」 「他人の悩みを言葉だけで解決するなんて、私にはエスパーのように思える」 言われた菜々は、ふわりと微笑んだ。 「それが、あたしの使命なんです」 |