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木々を蹴飛ばし、ひたすら前へ。 「……感じる」 恵美は樹林の中を、まっすぐに進む。 恵美には、葛原のような、遠くからでも匂いで判別するような能力はない。だが、この方向に犯人がいると感じるのだ。 そう、ただよう呪力が乱れている。水の中を船が進めば波紋が残るように、呪力の残り香とも言うべきものを感じるのだ。 恵美は自分の感覚が教えるまま、ひたすら進む。 自分でも、どこに向かっているのか、わからなかった。それでも進み続け――やがて、足を止めた。 見上げれば、そこには巨大なドームがそびえ立っている。かつて東京の象徴だった巨大な野球場が、恵美を見下ろしていた。 「……」 壊れた入口から中に入り、奥へ。 通路を進み、客席スタンドの出入り口へと進む。 人工芝のフィールドを見下ろす位置に出ると、すぐさまその姿が目に入った。 フィールドの中心、芝生の上に、一人の青年が立っている。 いや、その男は、すでに人間ですらない。右腕は硬質な刃へと変化し、全身が鱗に覆われている。人間と呼ぶにはあまりにいびつな、人型の何かだ。 ただひとつ変わらないものは、恵美を見つめる瞳だけだった。 「よくここがわかったな、恵美」 異形と化した兄は、ゆっくりと見上げてくる。そんな兄を見て、恵美は拒絶するように首を振った。 「兄さん、どうして?」 「どうして、か。お前は、本当に何も知らなかったのか?」 「知らないって、何をさ!」 「僕の想いだ。僕はずっと、お前が嫌いだった」 「ッ……」 言葉を失う恵美とは反対に、悠介は饒舌だった。 「嫌いと言うと語弊があるかもしれないが、おおむね、間違いじゃない。お前は子供のころから天才だった。僕が習得した年齢よりも幼いうちに、お前は次々と八雲の業を身につけていった。純粋な剣術でこそ負けなかったが、そんなものはただの男女差だ。八雲の力を発揮すれば、僕がお前に勝てないことは、もはや明白だった」 「そんな、ことは……」 「そうだったろう、実際? だから僕は渡米したんだ。お前と同じ空間で修行するなんて、もう僕には耐えられなかったから。向こうで茅野さんと会えたのはラッキーだったよ。もっとも、それでも僕は、さほど強くはなれなかったがね」 そう言って、悠介は苦笑した。 「まあ、僕は凡才なんだろうな。お前と違って。だが、それでもお前に負けたくなくて、必死に努力は続けたんだ。僕は祖父さんにだって負けない自信がある。でも、お前に勝てる自身だけは、一度も持てなかった」 「でも、兄さんの方が頭もいいし、たくさんのケモノを倒したじゃないか!」 「アジ・ダハーカもアトラク・ナクアも、僕には倒せなかった。ツクヨミを手にした今、お前は確実に僕より上だ。八雲の名前を継ぐに相応しいほど」 自らの言葉に、悠介は顔をゆがめる。 「そうさ、お前は僕よりも八雲に相応しい人間となった。それが僕には許せなかった! 八雲を継ぐのは、僕でなきゃいけない!」 「そんなのどうだっていい! 兄さんが八雲の当主になりたいなら、そう言ってくれればよかったじゃないか!」 「お前が当主になんか興味ないことはわかっていたさ! だが、八雲を継ぐのは、最も強い者でなければいけない! 僕は、お前に負けたまま当主になんかなれない!!」 悠介は腕を振るう。刀身と化した腕が風を切り、ひゅん、と音が鳴る。 「お前に勝つ、それだけが僕の全てだ! そのために、僕は僕を捨てた! 恵美、勝負だ! お前を殺して、僕は初めて八雲を名乗ることができる!」 「……ボクを、殺して? 兄さん、本気なの?」 「もちろん、だっ!」 悠介が刀腕を振るうと、呪力が放たれた。咄嗟に恵美は横っ飛びにかわす。その直後を、呪力の塊がよぎった。 炸裂する先を見失った力の塊は、近くにあった客席に激突し、破砕する。爆発し、大きな穴が開いた。 かわしていなければ、死んでいた。 「本気、なんだね」 それを見て、恵美は兄の気持ちを知った。 彼は、本当に自分を殺そうとしている。 ならば。 「……兄さん。ボク、ずっと兄さんに憧れていた。努力をする兄さんに。みんなから信頼される兄さんに。そんな兄さんが、ボクの誇りだった」 刀に手をかける。鯉口を切る音が響く。 「でも、兄さんが八雲の力を間違って使ったことも事実だ。ボクは、八雲として、この力を人に向けるようなあなたを、認めるわけにはいかない。八雲の業は心の業。心を捨てたあなたは……、もはや、ケモノだ」 抜刀。客席からフィールドに飛び降り、刀を正眼に構える。見据える先には兄の姿。 「ケモノは狩る。それが、ボクの……、八雲の役目だ」 「違う。強くなること、それが八雲の役目だ!」 兄と妹、二人の刃が白光の中できらめく。 弾けるように飛び出したのは、同時だった。 アメリア・ラッセルは、少し前を走る葛原に問いかける。 「本当にこっちなの!?」 「間違いねえ、まだ匂いが残っている!」 恵美の姿は、すでにホテルにはなかった。今は、残った匂いを頼りに、葛原が追跡している最中だ。 巨木を足場に、二人は宙を舞う。 「……クズハラ、ひとつ、聞いてもいい?」 「なんだ!」 「どうしてユースケは、あんなことをしたの?」 ホテルには、惨殺された死体が数多く転がっていた。自分に親しく話しかけてくれたあの自衛官も、すでにこの世にはいない。 アメリアの疑問に、葛原はすぐには答えなかった。しばし、二人で樹林を駆け抜ける。 「……これは、オレの想像だけどな」 前置きし、葛原は言った。 「あいつは男だった。そういうことじゃねえか」 「なによ、それ。全然わからないわ」 「お前にゃわからねえだろうさ。女で、日本人じゃねえお前には」 「ふざけないで、差別する気?」 「そうじゃねえさ。まあ、そうだな。悠介は、八雲って昔から続く家の長男なんだろ?」 「そうらしいわね」 「オレが昔、率いていたチームにもいたけどな。そういう、たいそうなお家柄ってところは、後継ぎってのが面倒なんだ。普通は長男がなる。だけど、長男がろくでなしで、弟妹の方が有能なら、そっちが継ぐべきだって話が出る。そうなったら面白くねえのは長男だ。後継ぎ争いに負けちまえば、居場所なんかねえ」 「ユースケは有能だわ」 「だが、恵美ほどじゃねえ。悠介じゃAランクの大型種は討伐できなかった。どの戦いも、恵美がいたから、オレたちは生き残れたんだ」 「それは……」 否定できなかった。 アジ・ダハーカの炎鎧を破ったのは恵美の勇気だった。 アトラク・ナクアの呪力装甲を破ったのは、恵美の才能だった。 恵美がいなければ、自分たちは、こうして走ることなど、できなかった。 「悠介がダメってわけじゃねえさ。だから、跡目争いになった時、どっちが継ぐかは知らねえ。けど、恵美と悠介、どっちの方が強いって聞かれたら、そりゃ絶対に恵美だ。それが、悠介には我慢できなかったんじゃねえか」 「なによ……、なんなの、それ? そんな理由で、クルメたちを殺したの?」 「想像だけどな、たぶん、大きく違っちゃいねえ」 「訳が分からないわ。そんなの、理由になっていない」 「だからお前にゃわかんねえだろうって言ったんだ」 「……」 実際、アメリアには納得できなかった。 だが、葛原が言いたいことも、理解できる。自分よりも強い妹。その存在が、悠介の心にプレッシャーを与えた。 そして、彼はその重量に耐えきれなかった。 「アメリア。オレが頼むことじゃねえかもしれねえが……、恵美のこと、頼むぞ」 「恵美のこと?」 「ああ。悠介と恵美がかち合えば、確実に殺し合いだ。どっちが勝つかは知らねえが、悠介が勝てば、オレたちも生きて帰れねえだろう」 「……それでも、あなたも行くの?」 「恵美にゃ借りがあるからな」 そう言う葛原の横顔に、乱れはなかった。彼は覚悟しているのだ。死ぬことも、殺すことも。だから迷わない。 アメリアは、ほんの少しだけ、葛原という人間を見直した。もっと利己的な男かと思っていたが――否、出会ったばかりの頃は、実際にもっと利己的だった。彼もまた、成長しているのだ。 「話の腰を折るんじゃねえよ。悠介が勝った時はオレたちも死ぬ。だが、恵美が勝ったなら、そんときはお前の出番だ」 「あたしの?」 「ああ。兄を斬ったって事実は、絶対に恵美の心に傷を残す。それを癒してやれるのは、お前だけだ。お前があいつに支えられて変わったように、今度は、お前があいつを支えてやれ」 「クズハラ……」 アメリアは、ぎゅっと拳を握ると、前を向いた。 「うん、任せて」 「……近いぞ!」 それは、アメリアの目にも見えていた。巨木が弾けるように浮かび上がり、地面に落ちる。 「あそこね!」 二人は荒い息もそのままに、巨木を目指す。 |