広い木板の床。そこに正座し、ただじっと前を見ている。
 どこだろう、と考え、ふと思い出す。そう、ここは道場だ。
 眼前では、少年と老爺が竹刀を交えていた。少年の一気呵成の攻めを、老爺は軽くいなし、かわしてしまう。
 とうとう息が続かなくなった少年は、竹刀を振り下ろす先を見失った。
「はあ、はあ……、強すぎるよ」
「そんなことなどない。わしとて、まだまだ未熟だ」
「祖父さんがまだまだなら、僕らはどうなるのさ」
 口をとがらせる少年に、老爺はかつかつと笑う。
「未熟も未熟、卵も同然だ。だがな、悠介。それに恵美。お前たちは未来を内に秘めた卵。どんな獣が孵るか、いまだ決まっておらん。だからこそ、自分を小さな者と思うな。高く、強く、気高くあれ。そうすれば、卵から生まれる者は、強く輝くようになる」
「なんのことさ、祖父さん。ちょっと恥ずかしいんだけど」
「真面目なことを言っているんだから真面目に聞け」
「どこが真面目なのさ」
「いいじゃない、兄さん。ちょっとかっこよかったよ、今のおじいちゃん」
「恵美まで……。二人とも、そういうところそっくりだよね。なんていうか、漫画の読みすぎって感じ。祖父さんの場合は時代小説の読みすぎ、かな?」
「うるさい。余計なことを言っている暇があったら稽古せんか。今度は恵美とやってみい」
「はーい」
 かたわらに置いてあった竹刀を手に取り、恵美は立ち上がる。
 平和で、幸せで、それが終わるなどということは気づいてもいなかった昔。
 今や、夢の中の出来事。
 気がつけば、兄と竹刀を打ちかわす自分を、恵美は離れたところから見ていた。
 自分の記憶ではありえない。だからこそ夢の中、と言うべきか。
「懐かしいな」
 かたわらを見上げると、いつの間にか、悠介がいた。幼い姿ではない、青年となった兄だった。
「兄さん……」
「すまないね、恵美。でも、僕はどうしても譲れなかった。僕にとって、お前を超えることは、存在意義と同義だ。それくらい、お前に負けたくなかったんだ」
「もう、いいよ。どうにもならない」
 そう、どうにもならないことで、どうにもならなかったことだ。
 自分が兄に憧れるように、兄は自分に劣等感を抱いていた。それは、誰にも止められないことだった。
 言うなれば、これは必然的な結末だったのだ。
「恵美。お前の目には、イザナミってどう映った?」
「どうって、こう、なんだか気持ち悪いもの」
「素直だな。だけど、お前だからこそ、そう見えるのかもしれない」
「どういうこと?」
「イザナミは個じゃない。イザナミという存在、その群れなんだ。千切られようが砕かれようが、全てのイザナミはひとつで、それぞれだ」
「繋がっている、ってこと? 死んでも?」
「死なないのさ。繋がっているから。僕らがいくら大型種を討伐しても、その死体に残るイザナミを他の生物が喰らえば、またイザナミは増殖する。そうやって、あいつはどんどん群れを増やす能力がある」
「そんな……、それじゃあ、僕らに勝ち目なんてないじゃないか」
「そうでもない。連中が繋がっているのは、逆に言えば、ひとかけらでもあれば、連中全体を捉えているのと同じってことだ」
「それは、そうかもしれないけど……。でも、イザナミを殺す方法なんて」
「そんなことはない。お前はもう、その方法を知っている。あるいは、実践していると言うべきかな」
「実践? 何のことさ」
「お前の目に、イザナミは……、僕は、気持ち悪いものとして映っただろう」
 思い出す。兄と対峙した時、恵美には、悠介が黒い瘴気に覆われて見えた。あれのことを言っているのだろうか。
「お前の斬撃は全てを断った。だが、これはきっかけだ。弱った連中を回収し、とどめを刺してまわる必要がある。そうでなければ、いつの日か、再び世界を襲うだろう」
「ボクの、剣が……」
「ああ。お前は正真正銘の天才だ。過去、八雲に連なる、あらゆる天才たちが見出すことのできなかった業を、お前は見出した。八雲の業、その究極だ。『ツクヨミ』の先――『神薙の太刀』だな」
 兄はひとつ、頷いた。
「ああ、本当にお前が僕の妹だなんて信じられないよ。まったく、僕の才能までお前に取られたんじゃないかって思うほどだ」
「そんな!」
「冗談さ」
 本当にくだらない冗談を言ったように微笑を浮かべ、悠介は恵美の頭にぽん、と手を乗せた。
「頼むよ、恵美。僕が言うことではないだろうけど、お前ならできる。世界を救ってくれ」
 兄の、柔らかな表情を見上げる。その表情を見て、恵美は少しだけ安堵した。
「……うん。任せて、兄さん」
「ああ、頼もしいな、お前は。本当に……」
 兄の、最期の笑み。それは、もう夢の中でさえ会えないのだろうと、予感させるものだった。
 それは、とてもさびしげなものだったから。



「……兄さん」
 頬を濡らす涙の感触に、恵美は目を開けた。
 最初に見えたのは、流れる金糸と、青い瞳。
「アメリア?」
 声をかけると、アメリアの顔がみるみるゆがみ……、いきなり飛びつかれた。
「エミ、エミ! 生きてた! 生きてたのね、エミ! もう死んじゃったかと!!」
「ちょ、アメリア、苦しいよ。いきなり何さ。いったい……」
 見渡し、恵美は首をかしげた。
 どうも、自分は布団に寝かされていたらしい。コンクリートの壁は、見覚えがあるような、ないような。
 部屋の中では泣きじゃくるアメリアと自分。それに、布団がいくつかあり、寝ている人もいる。
残る記憶を辿り、恵美は兄のことを思い出した。
「アメリア、兄さんは?」
 問いかけに、アメリアはようよう離れてくれた。
「ユースケは、死んだわ」
「そうか」
 自分で殺したのだ。後悔はない。だが、悔いはある。
 自分は、兄を助けることができなかった。
 そんな恵美を見て、アメリアは声を荒げる。
「エミは悪くない! ユースケが悪いのよ!」
「……兄さんは、ボクの目標だったんだ。兄さんのように強く、なのに努力を怠らない、そんな人になりたかったんだ。兄さんを超えたかったわけじゃない」
 恵美は首を振り、思いを振り払う。
「それに、葛原君は?」
「クズハラは……」
「んだよ」
 隣の布団から声がした。横を見ると、ひっかけていた布団がめくれ、葛原が顔を出した。
「葛原君! 生きていたんだ!」
「るせえな。いいぜいいぜ、どうせオレは悠介のおまけなんだから」
「そ、そういうわけじゃ……」
「いいっての。だいたい、まだ痛ぇんだ。あんま騒ぐな、傷に響く」
「あ、ああ、ごめん」
 それきり、葛原はごろりと壁の方を向いてしまった。
 恵美はアメリアと顔を見合わせ、どちらからともなく、くすっと笑う。
 そうこうしていると、部屋の外から少女の声が響いた。
「アメリアー?」
声に続き、部屋の扉が開く。
「どうしたの、アメリア。騒がしい……」
 入ってきた少女――菜々は恵美の顔を見るなり、顔をくしゃくしゃにした。
「恵美!!」
「ちょっと!?」
 先ほどの再現をするように、菜々もまた飛び込んでくる。
「あれだけ騒いでいるんだ、きっと……、ああ、やはり目覚めたか、恵美」
 菜々に続き、甲斐と井出も入ってきた。恵美は出揃った面々を見渡し、
「なんだい、みんな揃って」
「あれだけのことがあって、お前は生きて帰ってきたんだ。顔くらい見たいと思うだろう」
「あれだけの……」
 ふっ、と、恵美の脳裏をホテルの惨状がよぎった。
 たくさんの死者。それを生み出した、一人の青年。
「まあ、全滅しなかっただけ幸いだ。お前も生きて帰ってきたしな。体の具合はどうだ」
「体?」
 恵美は自分の腕を動かし、手を握ったり開いたりしてみた。
 今は痛みも、おかしな感触もない。
「何もない、ね。何かした? あれだけの傷、簡単に治るとは思えないけど。それに、葛原君も。あれは致命傷だったはずじゃないか」
「それか……。それは、私が治した」
「博士って医者の真似事もできたの?」
「馬鹿、医者とてあんな外傷を簡単に治せるわけないだろう。呪力だ」
 一瞬、恵美には甲斐が何を言ったのか、理解できなかった。
 表情を見て把握したのか、甲斐は言葉を続ける。
「お前が姿を消したと聞いて、間違いなく悠介と戦闘になると思った。お前たちが戦い、悠介が勝てば、お前は死ぬ。だが、もし万が一、お前が勝ったとして……、それでも、お前は瀕死になることが予想できていた。だが、現状の医療設備では、そんな傷を治してやることはできん。そうなれば、呪力以外に頼るものはあるまい」
「呪力以外って、博士がどうして呪力を?」
「投薬したのさ。私が、私に」
「……ッ!?」
 驚く恵美に対し、甲斐はこともなげに言う。
「なに、賭けではあったが、分は決して悪くなかった。改良したBアンプルならば致死率は20%、能力を発現する確率は50%を超えていた。発現さえすれば、私はもともと生物学のプロだ。生物に対して作用する能力を得る可能性は高かった」
「それにしたって、死ぬ確率だってあったじゃないか! なんでそんな無茶を……」
「お前に無茶などと言われる道理はない」
 ぴしゃりと言われ、思わず恵美は言葉を失った。返す言葉もないとはこのことだ。
「それに、私にだってプライドはある。いつもお前たちを死地に立たせておいて、私自身は常に安全圏だ。私も、少しくらい命を懸けたって、罰は当たるまい」
「博士……」
 もはや、恵美は何も言えなかった。実際、彼女はすでにBアンプルを投薬し、生存している。ならば、それが全てだ。
「とにかく、これからが大変だな。今、茅野が首相と会っているが、状況はかんばしくないだろう。神威の中から殺人犯が出たんだ。お前が悠介を殺したのは正当防衛と受け取ることもできるが、悠介はそうならない。いくら現状が裁判を開くことのできるような状態ではないにしても、彼の行動は明らかな犯罪だ」
「……そうだね」
「おそらくだが、神威は解散することになるだろう。遠からず政府組織になるんじゃないか。結局は、全て国見の思い通りというわけだ」
 そう言って、甲斐は肩をすくめる。
「神威でなら私の研究も自由にできたが、政府組織となればどうだろうな。さすがに、もうBアンプルの研究はできんかもしれん」
「Bアンプルがなくなったら、もう呪力保持者が生まれなくなっちゃうじゃないですか」
「春日の言う通りだ。とはいえ、生き残ったお前たちだけで、今後の戦いをこなしていくことは無理がある。そこで、井出に開発を始めさせている」
「開発って?」
 問いかけに、井出は少しうつむきながら答えた。
「コンピュータに呪力を施す開発です。成功すればパワードスーツのような形で、自衛隊の新装備にできると思います」
「呪力で動く鎧といったところだ。今まで呪力兵器という概念は存在しなかったが、アメリアや恵美のやっていることは、まさにそれそのものだ。不可能というわけじゃないし、それが量産できれば、人類も大型種に対抗できるぞ」
「よくわからないんだけど……」
 そんな話を聞いていた恵美は、首をかしげた。
「たぶん、もうその必要はないんじゃないかな」
「どういう意味だ?」
「ケモノはもう生まれない」
「……何のことだ?」
「兄さんが言っていた。イザナミはひとつが全部だ。そして、イザナミの欠片は、ボクが殺した。だから、イザナミは、もう生きていない」
 あれは、現実の出来事ではなかった。
 だが、事実だ。そう確信できる。
 理由などない。言うなれば、八雲としての勘だ。
「憎しみは断ち切ったつもりだよ。後は、みんなが、未来に向かって生きていけばいい」
 恵美の言葉に、戸惑うように顔を見合わせる面々。
 そんな仲間たちを見て、恵美は言う。
「大丈夫だよ。いずれ、みんなわかる。その時から、やり直せばいいんだ」
「やり直せば……」
 恵美の言葉に、甲斐は苦笑した。
「このご時世に、いまだにそんなことを言えるのは、お前くらいなものだ」
「じゃあ、みんなで言えるようになろう。それが、ボクが守りたかったものだ」
 快活に笑う恵美を否定する者は、誰もいなかった。
 ほがらかな笑いに包まれながら、恵美は、兄の姿を思い描いていた。



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