夜風が髪をなでていく。
 甲斐玲奈は一人、月の浮かぶ空を見上げていた。恵美が目覚めてからというもの、神威の面々はお祭り騒ぎだ。もちろん甲斐とて喜ばないわけではないのだが、騒がしいのは少々、苦手だ。
 駐屯地は、夜間でもそこかしこに自衛官の姿が見える。夜間とて歩哨の者はいるし、それ以外にも、仕事などいくらでもあるのだろう。
 それらを横目に歩いていると、ふと、見知った背中を見つけた。
「茅野」
 声をかけると、男は振り向いた。
 茅野は、ここ数日で、目に見えるほど痩せてきている。悠介の暴走、国見との会談。問題が山積されている中では、ゆっくり休むこともままならないのだろうか。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「……博士か。君には、言っておくべきかな」
「何を?」
「神威は解散する」
 それは、なかば以上、予想していた言葉だった。だから、甲斐も戸惑うことなどなく、すんなりと受け入れられた。
「……そうか。国見首相と話したのか?」
「ああ。今後、神威は自衛隊の下部組織となる。もっとも、そんなものは形だけで、結局は国見のおもちゃになるんだろうがな。俺にはそれを止められん」
 茅野は、自嘲的に笑った。
「悠介君の暴走は隠しようのない事実だ。あれほど大きな不祥事がある以上、さすがの俺も神威を保ち続けることはできん。いや……、俺の心が折れた、と言うべきか」
「どういうことだ?」
「わかるだろう? 世界は恵美君の手で救われた。神威がなくなった以上、Bアンプルの改良もできまい。俺は弟にも、世界にも負けたままだ」
「恵美の手で救われた……? お前は、恵美の話を信じるのか」
「恵美君が何を話したか知らないが、わかるのさ」
 茅野は自分の手を見つめる。
「俺は茅野の直系だからな。あるいは、イザナミの血が俺にも流れているのかもしれん。あいつに血があるかは知らんが」
「……?」
「イザナミは死んだ。俺もまた、自分の中から何かが失われるような感覚があった。世界は救われたんだ、あんな、子供の手で」
 ぐっ、と手を握り、茅野は続ける。
「俺は、何もできないままだった。世界を滅ぼし、抗うことなど、何もできなかった。これが、俺にふさわしい結末なんだろうな」
 顔を上げた茅野。その瞳は、揺らぎがなかった。
「甲斐。俺はここを出る」
「……正気か?」
「狂っているのさ、最初から」
 否定しようとして、甲斐にはできなかった。
 何を言えば彼を止められるのか、わからなかった。研究でどれほど悩むことがあっても、この悩みほど難しいものはないだろう。
 学業成績で常にトップだった甲斐でさえ、人の心を動かす言葉は、何も出てこなかった。
「じゃあな、甲斐。元気で」
 そのままきびすを返すと、茅野は停車していた車に足を向けた。
 車が走り出し、自衛官たちが騒ぎ出しても、甲斐はその場から動くことができなかった。
「……バカな男だ」
 涙は流れなかった。
 そんな自分に、甲斐は自嘲した。



 明かりのないその部屋は、自分の手元も見えないほどの暗闇に包まれていた。
 そんな中で、恵美は一人、自分の膝を抱えて座っていた。
 部屋のあちこちからは寝息が聞こえてくる。同室には菜々やアメリアを含む神威の女性メンバーが寝ている。他人は起こさないよう、恵美は物思いに沈んでいた。
 すると、そんな恵美の隣から、声が聞こえてきた。
「……エミ? 眠れないの?」
 アメリアだった。恵美もひそやかな声で返す。
「うん、まあね」
「じゃあ、外に出る?」
「……そうだね、そうしようかな」
「なら、一緒に」
 起き上ったアメリアと共に、恵美は部屋の外に出た。
 建物の外に出ると、夜風が自分をくすぐっていく。風に梅の匂いを感じた。
「ごめんね、アメリア。つきあわせちゃって」
「ううん、いいの」
 首を横に振った異国の少女は、恵美を見つめる。
「ユースケのこと、考えていたの?」
「まあね」
 小さく頷き、恵美は続ける。
「アメリアには八雲のこと、話したっけ?」
「ううん、聞いていないと思うわ」
「そっか。うん、と、八雲って家はね、昔はかんなぎって言っていたんだ」
「カンナギ?」
「そう。巫女さんのこと。えーと、シスターって言えばいいかな?」
「わかるわ。日本の宗教ね」
「そう。かんなぎってのは神様に仕える人のこと。ボクらは神様の力をお借りして、人に仇成す存在を狩る者だった。だから、厳密な意味でのかんなぎとは、少し違うんだけどね。そして、八雲の者が目指す先――頂点は、神薙と呼んだんだ」
「カンナギ、じゃあないの?」
「かんなぎ、あるいは、かみなぎ。言葉遊びみたいなものだけど、究極的には、神様を殺せる者って意味なんだ。その深い意味は知らなかったけど、今ならわかる。あれは、イザナミを殺せる者になれって意味だったんだ」
 神にも等しい力を持つ変種。
 だが、それが人間によくないものであることは、太古の昔から知れていた。人々は封じることで目先の脅威を片づけ、未来に希望を託した。
 神薙として。
「ボクは、神薙になれた。それは、誇るべきことなんだと思う。だけど……、それは、兄さんのおかげというか、兄さんがいなければできないことだった」
 恵美の顔は、自然と沈む。
「兄さんはボクの憧れだったんだ。頭がよくて、力も強くて、なのに努力は怠らなくて。自慢の兄だった。ボクは、兄さんこそが神薙になるんだって思っていた。皮肉なことだけどね」
「それは……」
「兄さんは、ずっとボクが嫌いだったと言っていた。ボクにとって、神薙を目指すこと、八雲の掟に従うことは、当然のことだった。だけど、兄さんにとっては、それは重荷だったのかもしれない」
 どれほどの鍛錬を積もうとも、それらを全て覆してしまえるほどの才。
 妹に天賦の才があると知った時、悠介は何を思ったのだろうか。
「言っても仕方のないことだって、わかっているんだけどね。もしも、ボクも兄さんも、普通の家に生まれていたら……、八雲の重責なんかなくて、ただの兄妹として生きていられたら、もう少し違う結末になれたかなって、そんなことを考えちゃうんだ」
「エミ……」
「兄さんを殺したこと、後悔はしないよ。ああすべきだったから、ああした。でも、引っかかっちゃうのは、仕方ないよね」
 思いを吐露した恵美は、ただ地面を見つめる。
 と、ふわりと包み込まれた。ぬくもりを感じる。
「エミ。ユースケは最期に言っていたわ。アメリア、エミ、世界を救え……、って」
「兄さんが?」
「そう。確かに、ユースケは、あなたに負けていることが我慢できなかったのかもしれない。だけど、そのことと、ユースケが世界を救おうと努力していたことは、別の問題だと思うの」
 アメリアの体温を感じながら、恵美は兄の姿を思い浮かべる。
 アジ・ダハーカの首を切り落とした兄。
 アトラク・ナクアの気を引いてくれた兄。
 決死の戦いを、兄もまた経験している。その目的など、言わずと知れている。
「大丈夫よ、エミ。ユースケは最期に、絶対にやってはいけないことをした。それは許されることではないけれど……、でも、彼が世界を救おうとしていたのは、本当のこと。あなたは兄を誇っていいんだわ」
「そう、かな」
「そうよ。普通の人ならば、アジ・ダハーカにも、アトラク・ナクアにも立ち向かえない。そんな勇気はない。あたしが立ち向かえたのは、憎しみがあったから。でも、ユースケには、そんな後ろ盾すらなかった。なのに、立ち向かう勇気があった。立派なことよ」
「……ああ、そうだね」
 恵美もまた、そっとアメリアの背中に手を回す。
 二人で抱き合いながら、恵美は、人のぬくもりを全身で感じ取る。
「ありがとう、アメリア。そうだね、ボクは、そんなことを忘れていた。兄さんは、やっぱりボクの自慢だ」
「うん。それでいいのよ」
 そのまま、二人はひとつのシルエットとなっていた。
 互いに、生きていることを確かめ合いながら。
 ずっと、そのまま。



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