不動産屋さんの事務所は、家から歩いて20分くらいのところにある。
 私も引っ越しの時に行ったから、担当さんも知っている。事務所に行くと、私は顔見知りのお姉さんに声をかけた。
「あ、すみません。戸塚さん、いらっしゃいますか」
「ああ、愛梨ちゃん。ちょっと待っててね」
 お姉さんは奥に引っ込んだ。かわって、ピカピカでまるっこいおじさんが出てくる。
「こんにちは、愛梨ちゃん」
「こんにちはー、戸塚さん」
 うちの担当の戸塚さん。優しい人で、色々とアドバイスをくれたりもしたし、受験前なんか勉強を教わったこともある。見た目は素敵と言えない人だけど、にじみ出る優しさのおかげか、嫌な感じは欠片もなかった。
「今日は何か?」
「あ、はい。ちょっと聞きたいことがあって」
 そう言った私は、ちらりと本田さんを見上げた。本田さんはポケットから名刺入れを取り出し、
「失礼、こういう者です」
「はあ」
 ホンダリサーチ、と書かれた名刺を受け取った戸塚さんは、本田さんを見上げた。
「どういったご用件で?」
「源さんのお宅で、不都合が生じています。何か、お心当たりは?」
「……どういった?」
「その場にあったはずのものが消える、といった類のものです」
「……!」
 目を丸くした戸塚さんは、私たちを奥のスペースまで案内した。衝立に囲まれたスペースは、普通なら商談に使う場所なんだろうけど、今日は私たちしかいなかった。
 テーブルをはさんで向かいあった私たち。お姉さんがコーヒーを持ってきてくれるまで、戸塚さんは口を開かなかった。
 誰もいなくなったところで、戸塚さんはおもむろに口を開く。
「源さんのお宅なら、大丈夫だと……、思ったんですが」
「どういうことですか?」
「以前にも、そういうお話はありました。気持ち悪いから引っ越す、と言った方も一度や二度ではありません」
 ――やっぱり、私の気のせいじゃなかったんだ。
 変なことに、私は、自分がおかしくなったんじゃないという事実に安堵した。きっと、私が何より恐れていたのは、これが自分の勘違いだということ。もっと言い換えれば――自分の頭がおかしくなったんじゃないか、という疑念。
 そうではないと他人に証明してもらえて、初めて私は安堵できたんだと思う。
 戸塚さんは、急に頭を下げた。
「すみません。あなたがたを、怖がらせるつもりはなかったんです」
「あ、いえ、そんなたいそうなことじゃ」
「……事情をお聞かせ願えますか」
 手を組んだ本田さんを前に、戸塚さんはぽつぽつと口を開いた。
「あの家は、若い女性がいると、異常があるんです」
「若い女性というと」
「具体的には、20代から30代くらいの女性です。まだ子供が小さいお母さんがいると、不可思議な現象が起きる」
 私の家は、私はまだ高1だし、お母さんはもう46だ。大丈夫と思っても仕方ない。
「原因に心当たりは」
「……もう、20年も前なんですがね」
 そう前置きし、戸塚さんは、あの家のことを語り出した。

◇ ◇ ◇


 新築当初。あの部屋は、親子3人が住んでいたらしい。
 ところが、両親は離婚。夫が出て行き、妻と息子だけが残された。
 離婚当時、母親は32歳。息子さんは3歳。お母さんはその一年後、再婚した。新しいお父さんは、なんというか――あまりガラの良くない人だった。仕事もしておらず、身なりも派手だった。
 それでも最初は、再婚した妻の連れ子を可愛がっている風を装っていたらしい。けど、時間が経つにつれ、本性を現すようになってきた。
 要するに、虐待だ。
 新しい父親は、母親がいない隙を狙っては、子供を蹴ったり、煙草を押しつけたりしたらしい。母親は仕事で家にいないことが多く、結果、家で息子さんと義理のお父さんが一緒にいる時間が長かった。自然、虐待される回数は、増えていった。
 そんなある日のこと。父親はとうとう、息子を風呂場に連れて行き、水を張った湯船に放り込んだ。真冬だった。
 一時間も冷水に押しつけられた息子は、そのまま亡くなった。5歳の誕生日を迎える少し前のことだった。
 後から警察が事情聴取したところによると、本人はしつけのつもりだった、と言い張ったらしい。当時は今ほど児童虐待について世間も関心がなかった。子供が泣いていることが多かった、と戸塚さんが知ったのは、事件があった後のこと。
 知っていれば、きっと通報もできた。それは、今でも戸塚さんの心残りらしい。
 けれど、問題はさらに後にもあった。
 その次に入ってきたのは、事件から2年後のこと。入居してきたのは新婚夫婦で、奥さんは妊娠していた。幸せそうに見えた夫婦は、しかし、不具合を相談してきた。
 いわく、そこにあったはずのものがなくなるんだ、と。
 原因もわからないまま、夫婦は子供が生まれる少し前に、また引っ越していった。
 それからというもの、色々な家族があの家に住んだ。次に住んだ三人家族。奥さんは30歳。やはり不具合が出て、一年ほどで引っ越し。
 次に住んだのは40代の夫婦。この時は何も起きないまま、2年ほどで引っ越し。
 その後も入れ代わり立ち代わり。それとなく戸塚さんも見守っていたけど、やはり、若い女性がいると、不具合が生じるようになる。
 戸塚さんも状況をなんとか改善しようと、リフォームしてみたり、社長さんには内緒で知り合いの拝み屋さんに頼んでみたりした。でも、一向に状況は改善しない。
 結局、私たちが引っ越す直前までは、60代の夫婦が住んでいた。なので、安心していたらしい。それが、息子夫婦と同居することになって引っ越し、私たちが越してきた。
 お母さんはすでに40代後半。私はまだ10代。これなら大丈夫だろう、と思ったのに……。

◇ ◇ ◇


 戸塚さんの話を聞いて、私は深くため息をついた。
 20年も前から、消えない想いが、あの部屋には染みついているんだ。それは、壁紙を変えようと、水回りを直そうと、消えることのない――怨念。
 私が聞いた子供の泣き声は、間違いじゃない。きっと、死んだ子供の霊は、まだあの部屋に住んでいるんだ。
 成仏もできないままに。
「……かわいそう」
 ぽつりと、そんな言葉が漏れた。
 死んだなら、せめて安らかに眠って欲しい。けど、その子供は、どこにも行けないまま、あの部屋に縛られている。
 話を聞いていた本田さんは、戸塚さんを見やる。
「お話は、わかりました。ということは、新築の頃から、不具合はあったんですね」
「ええ。より正確に言うのなら、最初の親子が引っ越してから、ずっとです。ただし、条件は確かにある。誰が住んでも発生するわけじゃない」
「だから、話題にもならない、か」
「……? どういうことですか?」
 私が本田さんに問いかけると、本田さんは真面目に頷く。
「普通、あまりにも引っ越しが多い家とか、そういう霊現象に悩まされる家というのは、大なり小なり近所で話題が出る。近所で聞き込みしたと言っただろう? 噂が欠片もないのは、人が流動しているというだけでなく、発生に条件があるからだ。Aという家族が住んでいた時に事象が発生し、噂が生まれても、Bという家族は何もなければ、噂は自然と立ち消える。住人が流動していることと相まって、噂が定着しないんだ。特に、起きている症状はたいしたものじゃない。気にしなければ、その程度で済むものなんだ。だから、なおさら噂は残らない」
「なるほど……」
 この人。見た目はあれだけど、色々と考えてるんだなぁ。なんて。
「それで、戸塚さん。ひとつ、質問させてもらえませんか」
「はい、なんでしょう」
「知り合いに除霊してもらったとのことですが、その時の様子を詳しく教えてくれませんか。いつ、どこで、どのように」
「様子、と言われましても……。私もそういうことについて詳しいわけではありませんので、うろ覚えですが。除霊をしたのは、もう10年近く前です。私の知り合いに霊感が強いという女性がいて、儀式をしてもらいました」
 ――除霊、してもらったんだ。
 でも、効かなかった。それだけ、子供の怨念が強いんだろうか。
 だとしたら、本田さんでも、除霊は……、できない?
 そんな考えが頭の中を駆け巡る。だとしたら、あの気持ち悪い事象が収まることはない。
 気にしなければ、我慢できる程度。確かにその通り。だけど、私は気になってしまう。だとしたら、もうどうしようもない。
 あとは、引っ越すしか……。
 私の考えを切ったのは、本田さんの声だった。
「どのような?」
「はい?」
「ですから、どのような儀式を行いましたか」
「えっと、風呂場で子供が死んだということでしたし、お風呂場に簡単な祭壇? そのようなものをしつらえて、お祈りをしたんです。かわいそうに、成仏してくれ、と」
「……なるほど」
 深く頷いた本田さん。その時。少しだけ――目つきが鋭くなったような、そんな気がした。