自宅に帰り、儀式の準備をする。
 本田さんが鞄の中から出したのは、数珠。それを手に取り、両親の寝室へ。
 私もあまり入ったことのない部屋だったけど、ベッドとクローゼットがあるくらいで、他にはあまりものがない。ベッドの脇には大きな窓があり、夕焼けに染まる空が見えていた。
 入り口の近くで、本田さんは数珠を手に、手を合わせる。
「あの。私も、いていいんですか?」
「ああ。問題ない。むしろ、君がいた方がいいかもしれない」
「そうですか?」
 本田さんは頷き、
「事象は、君の一家が引っ越してきて発動している。けれど、君のお母さんは、悪いが事象を発生させるには少し年を取り過ぎだ。きっと、子供の霊は、君に母性を感じているんじゃないか」
「私、に……」
 私を、お母さんと思ってくれている?
「だとすれば、君の呼びかけには答えてくれるはずだ。ただし、かわいそうと思っちゃいけない」
「……? どういうことですか?」
「あわれみで霊は救われない。同情はプラスの感情じゃないんだ。霊は、いわばマイナスの感情が固まったようなもの。戻してやるには、プラスの気持ちを吹き込んでやる必要がある」
「プラスの、気持ち……」
「優しさや、楽しさ。幸せな思い出。そういうものを、経文にのせて届けてやる。プラスの気持ちを吹き込まれた霊は、徐々に中性に戻る。そんなイメージだ」
「……わかりました」
 私は強く頷いた。本田さんもひとつ頷き、真剣に、何もない空間を見つめる。
「オン」
 本田さんの声が、凛と響く。
「カカカ ビサンマエイ ソワカ」
 静かな声音が、夕暮れ時の部屋に響く。薄暗い部屋の中。
 ――寒い。
 ふと、そんなことを思った。思わずぶるりと震え、肩を抱く。
「あ……」
 気づけば、部屋の中央、ベッドの上あたりに、白いもやがうかんでいた。
 ふわふわと漂うそれは、ともすれば煙草の煙にも見え――けど、小さく落ちくぼんだ三つの穴が浮いては消えている。
 ――あれ、子供の霊なんだ。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
 本田さんが経文を唱えると、霊の姿は揺れ、動き、苦しげに体をくねらせる。その様子に、泣きそうになる。
「……違う」
 泣いていちゃいけない。涙で霊は救えない。
 さっき、本田さんにも言われたばかりじゃない。プラスの気持ちをあげなきゃいけないんだ、って。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」

ァァァ――

 遠く、小さな声が聞こえた。そう、これは、子供の泣き声だ。
 この子は、いまだに泣いている。生と死の境で、成仏することさえできず、泣き続けている。
 私は、そっと前に出た。ベッドの上に手を伸ばす。ひやりと、氷に触れたように冷たい。構わず、抱きしめるようにして、煙に手を伸ばす。
「大丈夫だよ。お母さんは、ここにいるよ」
 そっと、声をかける。遠くに、泣き声が聞こえる。
「ごめんね、助けてあげられなくて。でも、お母さんはここにいるから。だから、もう泣かなくていいんだよ」

ァァ――

 声が、徐々に小さくなっていく。
 それは、やがて、聞こえなくなった。
 気づけば、私の腕の中にあった煙は、冷たくなくなっていた。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
 本田さんの経文が響き、私の胸に、そっと春風がよぎる。
 暖かい気持ち。今なら、本田さんが言っていた意味も理解できた。
 プラスの気持ちを吹き込むということ。経文に乗った、本田さんのやさしさ。
 それが、私の中を満たし、やがて、口から溢れ出た。
「――お母さんは、あなたを愛しているよ」
 ふわりと、腕の中を一陣の風が過ぎた。

 ――ありがとう。

 どこかから、声が聞こえたような。
 そんな気がした。

◇ ◇ ◇


 数日後、私は学校帰りに、ホンダリサーチを訪れていた。
 事務所では、例によって本田さんが机に足を乗せて昼寝していた。
「ほ、ん、だ、さん!」
 大きな声を出すと、がたりと椅子を揺らし、跳び起きた。
「……なんだ、君か。おどかすなよ」
「寝ているほうが悪いと思いまーす」
「暇なんだよ」
「知ってますよ」
 くすっ、と笑った私は、ぺこりと頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
「たいしたことはしちゃいないが」
「そんなことありません。あれから、子供の霊は出なくなりました」
 あの日。夕闇の中、消えた子供の霊。
 それ以降、私の家で、ものが消えることはなくなった。朝起きればスマホは枕元にあり、コーヒーのパックはちゃんとシンクの上に残っている。
 それが当たり前なのに、なんだかすごく安心した。
「それで、お礼なんですけど」
「君のご両親から十分に貰っている」
「嘘はよくないですよ、本田さん」
 私が言うと、ばつが悪そうにそっぽを向いた。
「無償で受けてくれたんですね。どうしてですか?」
「高校生のこづかい程度の謝礼なんか貰っても仕方ないからな」
「でも、それじゃあ商売にならないですよね」
「別口の収入源があるから、生活には困っていない」
「暇ですけど?」
「暇でも、だ」
 ふふっ、と思わず笑いが漏れる。強情な人だ。
「というわけで、お礼させてください」
「だから、高校生のこづかいなんかいらん」
「じゃあ体で払います」
「ぶッ!?」
 ガタっ、と椅子を蹴倒し、本田さんは立ち上がった。私は首を傾げ、
「何か変なこと、言いました?」
「あ、いや、その、どういう意味だ」
「だから、バイトさせてください。ここで」
「……バイト?」
 眉をひそめた本田さんに対し、私は続ける。
「私、あの除霊を見て、思ったんです。あんな霊は、もっとたくさんいるんだろうな、って。で、そんな霊を救いたいな、って」
 それは、私の本心だった。
 あの子は、決して残りたくて残っていたわけじゃない。成仏することができないまま、苦しみ続けていたんだ。
 何の罪もないのに。
 そんな霊を、救いたい。それが、私の願いだった。
 本田さんは、私をじっと見つめる。
「……確かに、お前さんには霊視の才能がある」
「霊視って何ですか?」
「霊を見たり、感じたりする能力。子供の泣き声が聞こえたのも、除霊の最中に霊が見えたのも。君の特別な才能だ。少なくても俺には、君が何もない空間に手を伸ばしたようにしか見えなかった」
「それじゃあ変な人じゃないですか」
「変な人だよ、マジで」
 ひどい。
「だがまあ、それはそれだ。霊視の才能、それも確定的な才能があるやつってのは少ない。そういうやつがいると、俺も助かる」
「じゃあ……」
 本田さんはひとつ頷き、
「時給800円でどうだ」
「お金貰ったらお礼にならないじゃないですか」
「女子高生をタダで働かせる方が問題だろうが」
 本田さんの言葉に、なるほど、と私も頷いた。
「じゃあ、よろしくお願いします。本田さん……、いえ。所長・・さん」