私がバイトを始めて2週間が過ぎた。
 ごく普通の街中。すっかり見慣れた小さなビルの、あんまり綺麗じゃない事務所が私のバイト先だ。
「こんにちはー」
 事務所の扉を開けると、応接セットと衝立、それに要るのか要らないのかよくわからない所長の机がでんと構えている。
 でもって、我が上司は机に足を乗せて、今日も昼寝をこいていた。
「所長」
 私はつかつかと歩み寄り、その頭をぺしんとひっぱたく。
「ぬおっ!?」
 勢いあまって所長は椅子から転げ落ちた。お尻から落ちたけど、まあ気にしない。
「……お前さぁ、だんだん遠慮なくなってないか」
「所長がダメ人間なもので」
「2週間ばかりで慣れ過ぎじゃね?」
「コミュ能力高いんです」
 この所長。営業時間中に、机に足を乗せて寝ているようなダメ人間だけど、仕事となればバシッとすごかったりする。
 ただ、その仕事は、世間じゃ認められない――俗に言う、幽霊退治なわけなんだけども。
「所長。こんなに暇していていいんですか? 私、バイト始めてから、お茶くみと掃除しかしてないんですけど」
「そういやいつの間にか部屋が綺麗になってんな……。ま、それだけ世間が平和ってことだろう」
「うちは探偵か何かですか」
「似たようなもんさ」
「まったくもう。コーヒーでいいですか?」
「おう」
 なんだかんだと言っても、他にやることもないので、コーヒーを淹れるくらいしかない。
 なぜだかこの事務所にはちゃんとしたコーヒーメーカーとかもあるので、使ってみたりしている。うちは両親ともコーヒーが好きなので(もっと好きなのは栄養ドリンクだが)、コーヒーを淹れてあげることもある。その延長線だ。
 コーヒーを淹れて所長の机に置いた時、コンコン、と扉がノックされた。
「どうぞ」
 入ってきたのは、女の人だった。30くらいだろうか、品がある雰囲気は、こういういかがわしい事務所にそぐわない。すらりと背も高いし、メガネの雰囲気も相まって、すごく頭がよさそうに見える。
「あ、はい。ご依頼ですか?」
「まあそんなようなものだけど」
「……お前の依頼は面倒なんだが」
 私は振り返り、
「所長、お知り合いですか?」
「俺の腐れ縁だよ」
 そう言って、所長は嘆息した。

◇ ◇ ◇


 とりあえず応接セットにご案内し、コーヒーを差し出したところで、私と所長はお客さんの向かい側に座った。
「源。こいつは白銀しろがね栄子えいこ。精神科医だ」
「お医者さん?」
「ええ、そうよ」
 白銀さんは頷き、コーヒーをすすった。
「医者というか、精神科。普通はうつ病とか、そういう心の病を治療するところなんだが」
「それが、所長と関係が?」
「……たとえば、霊障、すなわち霊によるさしさわりがあるって奴が俺のところに来たとする。でも、実際に霊がいるわけでなく、精神的な問題――要するに妄想癖だな、そういうもんだったとしよう。そうすると、当然だが俺には何もできない」
 ふむふむ。まあ、所長は除霊こそできるけど、いない霊は払えない。当然っちゃ当然か。
「そこで、こいつに協力をあおぐことになる。霊障があると言いつつ霊がいないような奴は、たいてい、他に原因がある。心の病を発症する原因だな。大半は人間関係か、自己嫌悪ってところだが。それを、こいつに治療してもらうわけだ」
「へー。じゃあ、所長が協力してもらってる相手、ってことですか」
「一方的にってわけじゃない。逆に、こいつのところに、幻聴が聞こえるって奴がきたとする。それが幻聴なんかじゃない、本当の霊障だったら?」
「ああ、なるほど。姿は見えないのに声が聞こえるなんて、普通の人は幽霊のしわざなんて考えないですもんね」
「そういうことだ。世間じゃ幽霊に対する理解はまだまだ乏しい。存在を頭ごなしに否定したり、逆に妄信的なまでに肯定する奴ばっかりだ。だが、霊は容易に観測できない。そうなると、確定的な情報を得るには、ものすごい時間がかかる。どちらか判定するのは、そんなに簡単なことじゃないはずなんだ」
「みんなあっさり結論を出してますもんね」
 確かに、テレビで見る幽霊番組のパフォーマンスとかは、バシッとその場で結論を出す。ここにはどうたらいう怨念が、とか、こういう因縁が、とか。
 でも、そんなこと、簡単にわかることじゃない。いろんな人に聞いて、その場所の来歴を調べて、ようやく結論が出せることだ。
 それは、私も自分の家で起きた案件で、学んでいる。
「じゃ、前置きはそんくらいにして。お前の仕事、聞かせてもらおうか」
「いい? じゃあ話すけど」
 白銀さんは鞄の中から、一冊のファイルを取り出した。
「クライアントは辻堂綾さん、18歳。正式な依頼はお母様からだけど。で、症状は……、幻聴が聞こえるというもの」
「幻聴?」
「女の子がすすり泣く声が聞こえるんだ、と」
「……すすり泣く声」
 所長は眉をひそめた。
「普通、幻聴というのは、もっとはっきりした言葉であることが多い。特に、自分に対するネガティブな噂話が聞こえることが多いわ。服がダサい、自分勝手な奴、あんなに媚び売って恥ずかしくないの、みたいな。その点においても、すすり泣く声というのはかなり珍しい症状よ」
「それで?」
「まずは経緯ね。綾さんは都内の高校に通っているんだけど、その高校では、8年前に生徒が一人、体育倉庫で亡くなっているの。そして、それ以来、倉庫ではすすり泣く声が聞こえるようになった」
 ……亡くなった。
 その怨念が、倉庫には染みついている?
「綾さんは友達と肝試しに倉庫へ入り、すすり泣きを体験。以後、どこにいても、すすり泣きがついて来るようになった」
「信憑性は?」
「すすり泣きは……、実際に聞こえるわ」
「なんだ。いやに断定的だな」
 所長が言うと、白銀さんは少し顔をゆがめた。
「私にも、聞こえたわ」
「すすり泣きが、か」
「もちろん。とはいえ、私の場合、泣き声がついてくるようなことはない。噂話を聞く限りでも、すすり泣きはあくまで倉庫の中で聞こえるだけであって、ついて来るなんてことはない。それは、綾さんも理解している……、というか、オカルトを一切信じていないみたいでね。最初からすすり泣きは幻聴だと決めつけている節があるわ」
「それなのに、お前のところに来たのか」
「だから私のところに来たのよ。きっと自分には気づいていないだけで精神的な問題があるはずだ、それを除いて欲しい、って。まあ、多感な時期ではあるし、来年には受験も控えている。その状態で、受験勉強なんてできない……、というのもわかるわ」
「……すすり泣きが実際についてくるものでないのなら、クライアントの症状は確かに精神的な問題だろう。それなら、治療してやれば済むんじゃないのか」
「ところが、そうもいかないわ。何より、実際に倉庫まで行けばすすり泣きは存在しているんだもの。おそらくだけど、綾さんの症状は、オカルトをまったく信じていない彼女が、オカルト的な現象に出会って、自分の中で現象を処理できていないのが問題だと思うの」
「処理できない?」
「あなたも経験ない? 自分が目にして、その理由がわからないと、なんとなく気持ち悪くなって、余計に考えちゃう、みたいな」
 ――それは、私にも経験があった。
 自分の家で起きたことだ。私の家では、ものがよく消える現象が起きていた。それは結局のところ、幽霊のしわざだったわけだけど、理由がわからない間は、本当に気持ち悪かった。家の外にいても、そのことについて考えてしまうくらいだった。
 綾さんも、同じことが起きているんじゃないだろうか。倉庫での声、はっきりと聞こえた『すすり泣き』。自分の中では説明ができなくて、余計に考えてしまう。考えなければ気にならないものも、考え込んでしまうと、余計に気になってしまう。
 結果、聞こえていないはずの『すすり泣き』が、あたかも聞こえているかのように錯覚してしまう、と。
「……なるほどな。それで、依頼の内容は?」
「倉庫の幽霊を除霊して。そうすれば、綾さんの症状は、自然と改善に向かうわ。学校には、私からも説明しておく」
「了解」
 そう言って、所長はパチンと指を鳴らした。