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何もかも、運が良かった。 ケータイの電波が繋がる場所であったこと。 救急車や消防車、警察車両が来られる場所だったこと。 車を運転していた人が、即死していなかったこと。 何もかも運が良く、結果的に、運転していた若い男の人は、なんとか病院に搬送された。この後、生きられるかどうかは、私にはわからない。 警察から事情聴取を受け、処理が終わったのは、日が傾いた頃だった。 警察署から出たところで、所長は私を見て、 「悪かったな。面倒に巻き込んで」 開口一番、そんなことを言った。 「いえ。これもお仕事です」 「まあ、こういううさんくさい商売だとな。警察の聴取も長引くんだ」 確かに、聴取が始まったのは午前中だった。まさかこんな時間になるなんて、思ってもみなかった。 問題視されたのは、私たちがなぜ、あそこにいたのかということ。理由は説明したけど、そもそも幽霊というものを信じていない警察に対して、事故が起きる件に対する調査と言っても、納得してもらえるはずもない。 とはいえ、今回の事故は、間違いなく事故だ。というか、私たちがどれほど狙ったところで、車を明後日の方向に飛ばすことなんて、できるはずもない。そういう意味での釈放だった。 「腹、減ったか?」 「正直あんまり」 「だろうな。でもまあ、何か食っとけ。おごってやる」 「……ありがとうございます」 所長の運転で、駅近くのお蕎麦屋さんまで行く。田舎のせいで、他に選択肢がなかった。まだお店が開いていただけでもラッキーだったかもしれない。 店内には、他にお客さんはいなかった。かけそばを注文し、出てくるまでの間、所長は何も言わなかった。 「おまちどう」 お店のおじいさんが持ってきてくれたおそば。温かいおそばを前にすると、少しだけ食欲が戻ってきた。 二人で、ずるずるとおそばをすする。 「……源。何が見えた」 半分も食べ終えた頃、所長は、ぽつりと聞いた。 「俺には何も見えなかった。アホが運転する車がいきなりハンドルを切って、いきなりガードレールがないところをすっ飛んでいった。そんな風に見えた。けど、お前には何か見えたんだろう?」 「よく、わかりましたね」 「まあな。話すのが、つらいことか」 「そうじゃありません」 ふるふると首を振り、私は続ける。 「その、黒いもやが見えたんです」 「黒いもや?」 「はい。事故を起こした車を運転していた人も、きっと、同じものを見たんだと思います。だから、驚いて、逃げるようにハンドルを切った。今まで事故が起きるのがランダムだったのは、そもそもあのもやを見える人が少なかったせいじゃないでしょうか。見えた人だけが、事故を起こす」 「霊視能力がある奴が、霊の姿に驚いて事故る、か。ありえる話だな」 「はい、それだけなら、十分にありえる話だと思います。でも……、あの霊、普通じゃありません」 「普通じゃない、とは?」 「だから、黒かったんです。もやが」 思い出す。どす黒い、暗闇よりも恐ろしい何かが詰まったような、黒。 「私、まだ幽霊を見たことって数えるほどですけど、もやは常に白かったんです。なのに、あの霊は、黒かった。きっと、そういう思念なんだと思います」 「真っ黒な思念、か……」 黒い思念。そこからイメージされるものは、想像に難くない。 怨念だ。 「なるほどな」 おそばを食べ終えた所長は箸を置き、お茶をすする。 「強い怨念を持つ霊がその場にとどまっている。事故が起きた現場には、ままありうる話だ。そして、そこを通りがかった人の中で、霊視の能力を持つ人間だけが事故を起こす、と。理屈は合う」 「……」 所長の言っていることは、理解できる。私自身が口にしたこととも、整合性が取れる。 だけど、なんだろう。何かが違う気がする。 そう、どうして――。 「どうして、黒いんでしょうか」 「ん?」 「いじめられた子の幽霊でさえ、もやは白かったんです。それが、どす黒く染まるほどの怨念を持つって、どういうことなんでしょう」 「それは……、それだけ、恨みがあるということか」 「よく、わかりません。だけど、何か黒い感情に染まっていることだけは、間違いないと思うんです」 三鷹さんが亡くなった経緯を思い返す。 いつの間にか姿を消した男性。借金のあるフリーター。何もない山中での衰弱死。 そこに至る経緯で、いじめを受けていた人間以上の黒い感情を持つこと――。 ……やっぱり、よくわからない。 「とにかく、あの霊はあのままにしちゃおけない。また同じような車が通れば、同じように事故を起こすってことだからな。だから、さっそく除霊をする」 「大丈夫でしょうか」 あの黒い影を思い返す。あれを、簡単に祓えるとは思えない。 「失敗しても、どうせ山中だ。他に迷惑がかかるわけじゃない。だけど、危ない可能性はある。お前は来なくていい」 「それはダメです!」 思わず、バン、と机を叩いた。遅れて気づき、座り直す。 「すみません。でも、所長は幽霊を見えません。それに、あの幽霊は、なんとなくですけど……、一人じゃ危ないと思うんです」 「お前は真言も使えない。足手まといだ」 「私でも、所長を抱えて逃げるくらいできます」 「どうやってだ? 俺はそれなりに重いぞ」 「いざとなったら頑張ります!」 ムチャクチャを言っているのは理解していた。でも、言わなければいけない気がした。 あの霊と、たった一人で対峙する。そんな危ないことをさせてはいけないと、本能が叫んでいる。 きっと、そんなことをしたら……、所長は、もう二度と会えない。 「……わかった。お前がそこまで言うなら、尊重しよう。ただし、お前の見立てで危ないと思ったら、すぐに言え。速攻で逃げる」 「はい。わかりました」 私は、強く頷いた。 少しだけ、冷え切った体の芯に力が戻ってきたような、そんな気がした。 翌日、日曜日。 再び事故の現場に向かう。近くまで来ても、やっぱり黒いもやは見えなかった。 「……じゃあ、始めるぞ」 所長は数珠を手に、目を閉じる。私は、もやが見えた場所にじっと目を凝らす。 今日の所長は、いつもより少しだけ緊張していた。 「オン アボギャ ベイロシャノウ マカホダラ」 うっすらと、空間が揺れる。 ううん――もやが、生まれているんだ。 「マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」 生まれたもやは、やっぱり、真っ黒だった。ただの黒い塊。それが、不気味にうごめいている。 「オン アボギャ ベイロシャノウ マカホダラ」 ……? ぶるりと震えた。気のせいか、寒くなってる? ううん――冷えているんだ、実際に。 思い返す。所長が私の家の調査に来た時のこと。 幽霊がいる場所は、気温が低くなることがある――。 「マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」 もはや、実感できるほどの冷気が漂っていた。 寒い。さながら、冷蔵庫の中に放り込まれたかのように。 夏前。いくら山中とはいえ、こんなに寒くなることなんてありえない。 同時、経文の言葉に反応するようにうごめくもやは、少しずつ動き出した。 ――ァ、ァ どこか遠くから、小さなうめき声が聞こえる。 これ、もしかして……、あの霊の声? 「オン アボギャ ベイロシャノウ――」 真言の途中。 もやの動きに気付いた私は、体が勝手に動いていた。 「所長ッ!!」 所長を突き飛ばしながら、自分も跳ぶ。その後ろを、何かの気配がよぎる。 振り返ると、黒いもやが私たちの後ろに立っていた。目もなければ顔もないのに、もやがこちらを見ていることがはっきりとわかった。 「ッ……!!」 その、地獄から見つめるような冷たいまなざしに、思わず背筋がぞくりと震える。 いけない。あれに触れては、いけない! 「所長、ダメです! 逃げましょう!!」 「ちッ、わかった!」 二人で駆けだす。 もやは、追ってこなかった。 ただ、じっとこちらを見つめるだけで。 |