息子がある朝、目覚めると、家の中がなんとなくおかしかった。
 首をかしげながら、朝食の準備をするため、キッチンに向かう。するとそこには、すでに空の食器がテーブルの上に並んでいた。
 息子は当然、疑問に思う。自分は昨日、確かに食器を片づけたのに、と。
 疑問に思いながらも食器を片づけ、普通に朝食を食べて、登校した。その後、家に帰ると、今度は洗濯ものが入った籠がひっくり返っていた。
 当然だが、一人暮らしとなった家で、洗濯籠をひっくり返す存在がいるはずもない。薄気味悪く感じながらも、洗濯ものを片づける。
 そうして、今度は夜、眠ろうと自室に戻ると――妙に涼しい。見れば、エアコンのスイッチが入っていた。エアコンはタイマー設定などしていなかったし、当然、入れてもいないスイッチが入るはずもない。
 こうして、不思議な出来事――いわゆるポルターガイスト現象が、たくさん起きるようになった。
 気持ち悪いし、原因もわからない。明らかに何かの異常はあるのに、その理由は見えてこない。そんなことを悩んでいた息子は、ある日、気がついた。
 朝、並んでいる食器。皿も、お椀も、茶碗も並んでいる。なのに、箸だけがない。
 それは、少年にとって、母の声を思い起こさせるものだった。

 ――母さん、箸がない。
 ――あら、ごめんなさい。また忘れちゃった。

 うっかりしがちな母。そんな母の癖を、久しぶりに思い出した。
 もしや、死んだ母が、まだ自分の世話を焼こうとしているのか?
 息子は、世話になっている白銀法善に相談した。幽霊話となれば、坊主からすれば、本業だ。
 差しさわりを取り除くべく、法善は本田家を訪れた。
 父の仏壇に並べて置かれた母の遺影。そこに手を合わせ、法善は経をあげた。
 これで、母の魂も慰められる。そう思ったが、現実は、そうはならなかった。
 法善の祈りをもってしても、ポルターガイスト現象はおさまらなかった。
 朝になれば食器が並び、時々は洗濯籠がひっくり返り、入れてもいないエアコンや風呂のスイッチが入る。掃除機が転がっていることもあったし、ゴミ袋がさかさまになっていることもあった。
 症状が治まらないことを訴えた息子に対し、法善は答えた。

 ――君のお母さんは、あくまで君を心配しているんじゃないだろうか。
 ――だから、他人の言葉に耳を貸さないのだろう。
 ――そこで、君が自分で祈ってみないか。

 真言を教えてもらい、祈りの作法を教わり、毎日、仏壇に向かって必死に祈った。
 幼馴染であった栄子もまた、息子の祈りを手伝うようになった。
 それでも食器は動くし、機械のスイッチは入る。そのたびに、栄子も手伝って戻す。
 症状は、どれだけ祈っても、おさまる気配は見せなかった。

◆ ◆ ◆


「祈っても、ダメだった……」
「そう。なんでだと思う?」
 コーヒーをすする白銀さんを前に、私は考えた。
 祈りが届かない理由。それは、何かが違うからだ。
 真言は、何もかもが、ピンポイントでないと成立しない。何かが間違っていたら、祈りは届かない。それが、除霊の難しいところでもある。
 方法は合っているはず。お坊さんが教えてくれた真言なり作法なんだから、合っているに決まってる。
 祈る相手は合っている。お母さんが亡くなった直後に症状が発生して、起きている症状も家事をしようとしている感じがうかがえる。
 理由も、たぶん合っている。お母さんの霊は、息子さんを心配しているだけ。だから、心配しないでくれって言えば、それはそれで合っている。もちろん、それでも心配って可能性はなくもないけど。
 でも、なんとなく、違う気がする。他に問題がある。
 他に、違うもの。
「場所、ですよね」
「正解」
 祈る相手を目の前にして祈らなければ、祈りは届かない。
 仏壇に向かって祈ったところで、仏壇で家事をしているわけじゃない。現象の中心地は別にあるんだ。そこに向かってお祈りをしなきゃ意味がない。
 じゃあ、現象の中心地はどこか?
「たぶん、ですけど。台所ですよね」
「すごい。そんなことまで分かるんだ?」
「まあ、色々とありまして」
 ふふっ、と白銀さんは笑った。

◆ ◆ ◆


 祈り方を変えてみたらどうか、と提案したのは、栄子だった。
 同じことをしても同じ結果しか得られない。となれば、何か違うことを試してみればいい。道理だった。
 そこで、二人して考えた。なぜ、母親の霊は残り続けるのか。言い換えるなら、母親の霊にとって、心残りとは何か。
 そんなもの、決まっている。息子が心配だからだ。
 そんな、母親の思念が染みつく場所があるとすれば、それは一か所しかない。
 母親が最も長くいる場所。台所だ。
 そこで、祭壇をわざわざ台所まで移動させ、二人で祈りを捧げた。
 その真言、その響きは、今でもはっきりと覚えているという。

 ――オン マカラギャ バゾロシュニシャ バザラ サトバ ジャク ウン バン コク

 愛を伝えるという、明王の真言。
 その言葉は、確かに、母の霊に届いた。
 息子には、見えていないようだった。だが、栄子は確かに見た。
 うっすらと現れる、白いもや。光の中で、見知った顔が、やわらかく微笑んでいる姿を幻視した。
 母が亡くなってから、一年弱も後の、ある日の出来事だった。