コーヒーカップを置いた白銀栄子は、ほう、と息を吐いた。
「それが、彼にとっての、最初の事件。それから、彼は本格的に真言を学び、祈りの作法を学んだわ」
「どうして、なんでしょう」
「理由は教えてくれないのよ。でも、なんとなくわかる。きっと、自分の母親みたいな存在を、なんとかしたいって思ったからじゃないかしら」
 自分の母親のような――心残りを持った幽霊。
 それを、ただ、なんとかしたい、と。
「彼は、霊視の才能は全くなかったわ。その後も私含め何度か事件に関わっているけど、私には感じることもあった。でも、彼に見えたことは一度もないわ」
「だとすると、白銀さんは霊視の才能があるんですね」
「まあ、彼よりはね。でも、きっと普通程度の才能だと思うわよ。ほら、誰だって、心霊スポットに行けば、それっぽいものを見たり、感じたりするでしょう? たぶん、その程度のものだと思うの。私の場合はね」
「それでも凄いじゃないですか」
「あなたの方が凄いでしょう? 聞いた限りだけど。霊、ばしばし見えてるみたいじゃない?」
「そ、そんなことありませんよ」
 実際、今までの事件でも、一発で霊を見切ったことなんかない。ましてや、見えるだけで、語り掛けることも、心残りを聞き出すこともできていない。
 結局、私は、あんまり所長の役には立てていない。
「でも、ま、気をつけたほうがいいかもしれないわね」
「気をつける?」
「ええ。知ってる? 暗い気持ちって、伝播するの」
「伝播する……?」
 白銀さんは頷き、
「たとえば、うつ病の人がいるとする。そうすると、近くにいる人までうつ病を発症しやすくなるの。そうでなくても、ネガティブな人がいると、周囲までネガティブになっていく。逆に、笑顔で接すれば、落ち込んでいた気持ちもプラスになったりするわ。人間は、他から影響を受けやすい生き物なの」
「はあ、なるほど」
「でも。あなたが幽霊と関わり続ける限り、それは大事になってくる。幽霊、特に未練を持った幽霊なんてのは、ネガティブの権化みたいな存在よ。それらと関わり続ければ、あなたにもネガティブな気持ちは伝播し続ける。やがて、あなたがやられてしまうかもしれない」
「それは……」
 なんとなく、理解できた。
 先日の事件。呪いの犠牲となった被害者。あの冷たい気持ちに触れ続ければ、きっと、心がダメになってしまう。
「人のことを思うのは大事。でも、それで自分までやられてしまっては元も子もないわ。だから、精神科医なんて存在が成立するの。あなたが霊視の能力を使い、除霊まで学べば、今後とも幽霊と関わることになっていく。飲まれてはダメよ。幽霊は、あなたのことを思ってくれない」
「……それは、わかっています」
 私は小さく頷いた。
「それでも、やりたいんです」
「どうして?」
「私にしかできないと思うから」
 霊を見える才能は、誰もが持っているものじゃない。
 そして、そんな“特別な才能”を、悪いことに使う人もいる。
 でも、この才能は、そんなことのために使うものじゃないと思う。
「悲しいかもしれません。苦しむかもしれません。でも、それでも、この才能を持つ私にしか救えないものがあるんです。だったら、何かしなきゃいけないって」
「才能を持つがゆえの対価、ね……」
 あごに手を当て、机に頬杖をついた白銀さんは、嘆息した。
「あなた、本当に高校生? とんでもなく良い子ね」
「そ、そんなことありませんよ。普通です、普通」
「あなたが普通だったら、私なんか超不良よ。だいたい父親が坊主のくせに娘が医者って。ふざけてるとしか思えないでしょ?」
 くすっ、と笑った白銀さんは、続ける。
「でも、私も同じなの。彼の事件を見て、彼のお母さんを見て。何かをしたくなっちゃったの。だから、精神科を目指した」
「人を、助けるために?」
「より正確に言うのなら、人の心を助けたくて、ね」
 人の、心を。
「人間の心は複雑だし難しい。でも、それを救えるのもまた、人間なんだと思っているわ。あるいは、そう信じたいだけかもしれないけど」
 思わず、頬が緩んだ。
「なんだ。白銀さんも、私のこと言えないじゃないですか」
「そうよ。でも言うの。大人だからね」
「大人はずるいですね」
「そういうものよ」
 ふふふっ、と二人で笑い合っていると、扉が開き、所長が帰って来た。
「なんか声がすると思ったら、来てたのか」
「お帰り。お邪魔してるわ」
「まあいいけどよ。依頼か?」
「寄っただけ」
「そうか」
 鞄を置き、汗を拭く所長のために、私は立ち上がって冷蔵庫のアイスコーヒーを取り出す。
「で、何の話をしてたんだ」
「あなたの最初の事件よ」
「……おい。プライバシーの侵害だろ」
「お姉ちゃん特権です」
「お前が、いつ、俺の姉になった!」
「あら、昔からよ」
「ったく」
 机の上にコーヒーの入ったグラスを置きながら、私は言う。
「所長のお話、聞かせてもらいました。さすが所長ですね」
「何をどうしたらそうなるんだか知らんが。真似しようとすんじゃねえぞ」
「はーい」
 言いながら、私は頭の中で考えていた。
 所長でも、時間はかかったんだ、ということ。
 私が学んでも、きっと時間はかかる。でも、それは、諦める理由にはならない。
 呪殺なんてものに、霊的な力を使わせないために。
 私の進むべき道が、見えている気がした。