|
ポケットに手を突っ込む。出てきたのは、小さな数珠。 私じゃ、所長ほどうまくできないけど。でも! 「臨」 声が震える。それでも自分を叱咤し、指を組み、九字を唱える。 「兵闘者皆陣列前行!!」 私の九字に、霊はぴくりと震えた。そして、その眼差しが、私を見据える。 「臨兵闘者……ッ!!」 どん、と突き飛ばされた。床を転がり、舞い上がった埃でせき込む。 霊は、変わらずそこに立っている。私を見ている。 駄目だ。所長でもないのに、私に勝てる相手じゃない。 怖い。このままじゃ、私はここで殺されてしまうかもしれない。 でも、逃げちゃ……、逃げちゃ駄目だ。 このままじゃ、あの霊は、もっとたくさんの人を殺す。それはいけないことだし、何より――あの霊のためにならない。 いつまでも、生きている頃と同じようにこびりついて。同じことをして。凝り固まって、心が冷めていく。 こんなところに、独りぼっちで。 人間は、誰かと関わらなければ生きていけない生き物。なのに、死者は関わることができない。だから、人間らしさを失っていく。 彼女を、人間に戻さなきゃ。 震える足を叱咤し、立ち上がろうとする。そんな私の前に、すっ、と真っ白な足が伸びた。 「っ……、千早!」 「ごきげんよう。こんなところにいらしたんですのね」 闇に溶けるワンピース。白い顔だけが、ぽっかりと浮かび上がっている。 かすかな光の中で、千早は手に何かを持っていた。それを、軽く振るう。 すると、淡く光る何かが飛び出した。それは、くるくると回り、やがて、ふさふさの毛並を持つ狗の姿となる。 あれが、千早の狗神――。 暗い闇色。それでいて、力強く輝き、闇の中でも浮かび上がっている。闇よりも深い闇。 狗神は、まっすぐ霊を見据えながら、唸りをあげている。 「あの霊は、私がいただきます」 「駄目、千早。あの霊は、手におえない」 「あなたにはそうでしょう。私には違う」 くい、と千早が手を振るうと、狗神は霊に向かって疾駆した。 跳びかかる狗神。無感動に見返す霊。 「ッ!!」 バシン、と霊が霊を弾く。浮き上がった狗神は、ごろりと転がり、そのまま闇に溶けて消えた。 「ふうん。本当に、強い霊ですわね。ますます欲しい」 「千早、わからないの……? あの霊は、恨みなんてない。あの霊は、ただ、餓えているだけだよ。おなかが空いたから食べるだけ」 「それが何か?」 「狗神は、恨みの対象を誤認させているだけでしょう。あの霊には、そんなものはない。そういう“人”なのよ。そんなの、あなたにどうこうはできない!」 「……それは、私が決めることです!」 再び構える千早。その動きを見据えた霊が、包丁を手に取る。 「ッ!」 霊が、ものを動かしている? ポルターガイスト! 「くッ!?」 千早が手を振るう寸前、霊が包丁を投げつける。 刃物はさすがにかわさざるをえない。しゃがむ千早。次の瞬間、私の目の前に、霊が立っていた。 「なッ!?」 霊の腕が千早の喉笛に伸びる。ぐっ、と握りしめる手。千早が暴れても、霊のポルターガイストには敵わない。 「いけない!」 慌てて数珠を構える。でも、どうすれば――。 ……霊に、語りかける。 所長の言葉を思い返す。 真言は、霊に気持ちを伝えるためのツールだ。じゃあ、あの霊に、殺すのをやめさせるには、どうすればいい? そんなことは、できない。 殺すことをおかしいと思っていない人に、殺してはいけないと言っても意味がない。あの霊にとって、人を殺すのは、私たちが食事をするのと同じ考え方なんだ。食べてはいけないと言われてやめる人がいないように、あの霊も、食べることをやめたりはしない。 それよりも、もっと教えてあげるべきこと。 あなたは、死んでいるんだということ。ここは、あなたがいるべき世界ではないんだということ。 成仏。仏に成る。 あの霊を、成仏させるには――。 その時、ふっと、私の頭に何かが駆け抜けた。 それは、仙田さんの言葉。 ――イベントの前日から泊まってはおりますが、そのような出来事にも遭遇しておりません。 仙田さんは、この屋敷に泊まっていながら、殺されていない。横川さんは、屋敷に来てすぐ殺されているのに。 さらに言えば、岡部邦夫さんは毎年、この屋敷に来ていた。離れに宿泊していたんだろうけど、それにしたって、邦夫さんは殺されていない。 なら。まだ、可能性はある! 「オン」 私の声に、霊が振り返る。怜悧な眼差し。その眼差しに、語りかける。 「アボギャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン ハッタ」 光明真言。光り輝く仏様の言葉。 ……人を殺してはいけないという概念がない人に、霊障を、言い換えれば“人を殺すことを”やめてと語りかけても意味がない。 彼女には、罪悪感なんてない。そんな人を祓うなんてのは、現実的じゃない。 ただ、彼女にも救いはある。 彼女は……、この屋敷の掃除をしている。 仙田さんが屋敷を訪れたとき、あまり汚れていなかったというのが証拠。人間が掃除をしていないなら、幽霊が掃除をしたってことになる。 そう、彼女はいまだに、生きている頃のルーティーンを続けているだけ。人を殺すのも、料理をするのも、掃除をするのも。それら全て、使用人としての彼女の仕事であり、彼女がしたいと思うことだから。 それは、仙田さんたちが殺されていないことも裏付けになる。 仙田さんは『仕事仲間』。岡部さんたちは、『主の親族』。 誰も彼も殺すような悪鬼だったのなら、仙田さんたちも殺されていなきゃいけない。あの人たちが死んでいないのであれば、彼女は殺す相手を選択している。きっと、主に関係する人は殺さないようにしているんだ。 “食事”の材料を選ぶのなら、親族を選ばないのは当然のこと。彼女は、人を殺すことを仕事としている。 なら、それを逆手に取る。 彼女は、あくまで――正さんに仕えているだけ。だけど、この屋敷には他に霊はいない。そう、それはすなわち、『正さんの霊もいない』ということ。 他の霊と同じと考えれば、正さんの霊も、彼女に食べられたことになる。だけど、もうひとつ、可能性もある。 もともと、岡部正さんは病気だった。自分が死ぬことにも、きっと理解があった。使用人がいなくなったから、世話する人がいなくなったから亡くなったのではなく、単に病状が進行しただけだったとしたら? 岡部さんの霊は、単に成仏しただけだ。つまり、彼女は、正さんが亡くなって姿を消したことに気づいていない。 だったら、教えてあげればいい。あなたの主は、ここにはいない、もう光の先にいるんだと。 彼女が、主に仕える気持ちをなくし、邦夫さんの言う通り、ただの悪魔と化していたなら、きっと通じない。 でも、彼女はそうじゃない。なら、気持ちは通じる! 「オン アボギャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン ハッタ」 伝わって、私の気持ち。 あなたの愛する主は、もうここにはいないんだ、ということ。 「オン アボギャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン ハッタ」 あなたの主は、もう光の国にいるんだということ。 永田さんの霊が、目つきを鋭くする。その瞬間、チカッ、と光が走った。 「源ッ!!」 所長の声。見上げれば、天井が開き、光が差し込んでいた。その先に、十字架が見える。 それを、永田さんの霊も見ていた。 ……今しかない! 「オン アボギャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン ハッタ!!」 私の叫ぶ真言が響く。永田さんは光を、十字架を見上げ――はらりと、しずくをこぼした。 それは、幻の涙。決して触れることのできない、けれど、確かな感情の証。 ――そこに、いるのね ぽつりとこぼし、永田さんの霊は、光の中に消えていった。 しん、と静まり返った場。私は、思わず力が抜けて、床にへたり込んだ。 「源!!」 慌てて、所長が飛び降りてくる。……危ないなぁ。 「源、源!? 大丈夫か!!」 「はい。怪我も、たぶん、してないです」 「源……、よかった……」 ぎゅっ、と所長に抱きしめられる。セクハラですよ、所長。 そんなことを思いながら、でも、口にはできなかった。私からも、所長を抱きしめる。人の温かさが、じんわりと伝わってくる。 それが、とても心地よかった。 |