日も暮れた頃、三人は旅館に戻った。軽く温泉を楽しんだ後、食卓につく。
「……? どうしたんすか、先生」
「なんでもない。それと、ここで先生はやめろ。変な誤解をされたらどうする」
「はぁ」
 なんとなく獅堂が落ち込んでいるように見えて心配した太陽だったが、会話には特に変なところもない。
 太陽はこっそり、隣の郁乃に耳打ちする。
「なあ、先生って何かあったのか?」
「……。特に何も」
 沢渡郁乃という少女は、空気が読めるのであった。
「あたしのことはどうでもいい。それより、郁乃、今日はどうだった」
「新発見。知らないことばかり。ネコには感謝する」
「そうか、それは来た甲斐があったな」
 郁乃はサトリだ。他人の心を読み、深く接すれば、自分で体感したかのように感覚をリンクさせることも不可能ではない。
 それだけに、自分で実際に体験していないことさえ、郁乃は知識として知れてしまう。そんな彼女だからこそ、実体験というのは何より重要なのだろう。
「いや、それにしても、郁乃って体を使うのうまいっすね。あんな早くに泳げるようになるとは思わなかったぜ、俺」
「これでも妖怪のはしくれ。本能で泳げる」
「先生は泳げねえぜ?」
「あたしは本能で泳げないんだよ」
 コップ酒を傾け、獅堂は太陽を見やる。
「明日はどうする?」
「海!」
「ああ、海で遊びたいのか。じゃあ、何か借りてくるか?」
 海の家では、浮き輪やビーチボールなど、海辺で遊ぶに適した道具も貸し出している。とはいえ、大半の観光客は自分で用意してしまうため、不良在庫に近い。言ってしまえば、それっぽく見せるためのオブジェだ。
 太陽たちは今回、水着や宿泊の用意しかしていない。純粋に、獅堂も太陽も水辺での遊び道具なんてものは持っていなかっただけだが。
「そうだなぁ。郁乃、どうする?」
「泳ぐ」
 よほど海が気に入ったのだろう。郁乃の目は輝いていた。
 太陽はほほえましく思いながら、
「んじゃあ、思いっきり泳ぐか! 俺と競うか!」
「小学生の体格でお前と勝負になるか馬鹿」
 獅堂は卓上の煙草に手を伸ばすと、食卓を離れ、窓辺に座った。窓は開いていたが、風はあまりなかった。
 火をつけ、何気なく外を見た獅堂は、ふと崖に目を止めた。
 海岸の端っこは崖のようになっている。昼間は注視しなかったが、そこには一軒の家が建っていた。場所柄、決して便利とは言えない場所だろうが、眺めだけは良いだろう。
「金持ちの別荘、ってやつかねぇ」
「ん? どれっすか?」
 獅堂の肩越しに、太陽も目をこらす。
「……。どれ?」
「お前の鳥目で見えるか」
「なっ、お、俺だって人よりちょっと弱いだけっすよ!」
「弱いんだろうが。あたしは人間より夜目が効くんだよ」
「どれどれ」
 郁乃もやってきて、窓から外を覗き込んだ。
「あの崖の上の家?」
「そう。郁乃も見えるか」
「ふふふ。カラスより優秀なの」
「なっ」
 郁乃にも見えたと知って、ちょっぴりショックな太陽。
「けっ、どうせ俺は飛ぶしか能のねえ妖怪だよ」
「やたがらすってのはそういうもんだからね」
 和やかに、穏やかに、夜は更けていった。

 翌日も、郁乃と太陽は海に、獅堂は浜辺で煙草をふかすという完璧な布陣。
 昨日は郁乃の腰程度までの深さで止めておいたが、郁乃がいくらか泳げるようになったこともあり、もう少し深いところまで入ってみた。
 このあたりになると、郁乃は立っていても波に押し流されてしまいかねないから、太陽も時折、沖の方を見やって、波をうかがう。
 とはいえ、そんな心配もいらないようだった。郁乃の上達は早く、小学生とは思えぬフォームできちんと泳げてしまう。息継ぎができるわけではないが、肺活量が人間とは違うから、それなりに泳げてしまう。
 そんな郁乃の水泳を見守っていた太陽は、ふと水中を見やった。
「ん?」
 なんとなく、そこに気配を感じたような……?
「ぬおっ!?」
 否。そこには明確に影があった。思わず飛びのこうとした太陽は、しかし水中で思うように身動きが取れない。
 そんな彼に、影は容赦なく近づく。
「く、来るんじゃねえ!?」
「――? カラス、どうした?」
 太陽の異変に気付いた郁乃が振り返る。だが、時すでに遅く。
「え?」
「ぬおお!?」
 影は、水中から姿を現した。
「おうさ?」
 水中から出てきた人物は、おめめぱちくり。
「あれま? なんでカー君がこんなところにいるの?」
「ル、ルナ先輩?」
 水中から顔を出していたのは、まぎれもない、生物部の朝霧ルナだった。
「俺たちは遊びに来ただけですよ。ルナ先輩こそ、なんでこんなところに?」
「なんでって、ここの近海で噂になってる海面を歩くクラゲを探しに」
「またUMAか!?」
 もっとも、ルナの場合、他の理由を言われるよりわかりやすい。
「ひ、一人で来たんすか?」
「だって他にいないんだもん。カー君は連絡が取れないし。ターちゃんはバイトで忙しいし。それに、ここの近くにウチの別荘があるから、宿泊施設とか気にしなくていいし」
「別荘?」
「ん?」
 そこで初めて存在に気付いたらしい、ルナは郁乃に目を向ける。
 しばし郁乃と見つめ合い、やがて、ルナは太陽に哀れみの視線を向けた。
「カー君、幼女誘拐は重大な犯罪だよ?」
「なぜ真っ先に犯罪を連想した!!」
「ジャパニーズジョークよ」
 むしろジャパンでは洒落にならない。
「えーとだな、この子は、獅堂先生が預かってる子供で、沢渡郁乃っていうんす」
「郁乃ちゃんね。あたしは朝霧ルナ。気軽にるーちゃん☆ って呼んでいいのよ」
「何がるーちゃんだ変人のくせにごぼっ!」
「カー君うっさい」
「……アサギリ。カラスが死ぬ」
 いくら烏丸太陽が妖怪といっても、水中では生きていけないのだ。
 ルナの水攻めから開放された太陽は、いったん、ルナと共に浜辺へ移動した。真夏の太陽が、冷えた肝を暖めてくれる。
「それじゃあカー君、クラゲ探そっか」
「何を当たり前みたいに言ってんだ。今日は小学生もいるんだから、んな無茶はできねーっすよ。というか、やったら俺が殺される」
 たとえ生きて帰っても、太陽が生き残れる可能性は無い。
「つか。先輩んとこ、こんなとこにも別荘があったんすね」
「そ。つってもねー、別荘なんていいもんじゃないよ実際。なーんもないし」
「別荘? アサギリの?」
 ルナのことを知らない郁乃は当然の疑問を抱く。
「ああ、ルナ先輩はこれでお嬢様なんだよ。そう見えずとも」
「なーんかカー君って一言も二言も多いよね」
 妖怪ならば知らなくとも無理はないが、朝霧グループといえば、節操のなさを売りにするなんでも企業だ。もちろん日本で知らない人なんてほとんどいないし、海外での知名度も高い。
「アサギリって、ネコから聞く限り、かなり自由奔放な人だと思っていたけど」
「まさにその通りだ」
「……そんな人が、そんなことしていていいの?」
「いいぞ郁乃。もっと言ってやれ」
「いいじゃん別に。大丈夫よ、あたしがさらわれたってパパはテロには屈しないから」
「あんたの親父さんはどこの軍人だ」
「平気だって。それに、あたしがパパの会社を継ぐわけじゃないし」
「そういう問題でもねえだろ。ってか、普通の親は心配するだろが」
「ほら、困難を乗り越えた人間こそ、人間的に成長するって言うじゃない?」
「あんたのどこが人間的に成長してんだ」
「後輩の失礼な言動に怒らないあたり」
 まさに。
「なんだ朝霧、お前も来ていたのか」
 と、そこに獅堂教諭が現れた。ルナを見下ろし、
「言っておくが朝霧、郁乃をお前の趣味に付き合わせるなよ。烏丸だけにしておけ」
「ひでえ。俺を生贄にしやがったな!」
「よーしじゃあ先生の御許しも出たことだし、ゴーだよカー君!!」
「まあ待て俺にも子守という仕事が」
「なら、私も行く」
『……』
 全員の視線を集める郁乃。しかし平然と、
「私も一緒に行く。問題ない」
「あるわっ!? お前、ルナ先輩がどれだけ危険人物かわかってんのか!?」
「カー君。ちょっと」
「この人に付き合わされたら普通の人間は死ぬわってか小学生ペースで付き合える人じゃねえし!」
「そうだぞ、郁乃。朝霧に付き合うのはやめておけ。体は小学生なんだからな」
「ネコ。私、行ってみたい」
 じっ、と子供の純粋な瞳攻撃。うっ、と獅堂の口から声が漏れた――気がした。
「だめ?」
「……仕方ないな」
「先生! 子供に甘いのは教育上、よくないと思います!!」
「うるさい。お前が死ぬ気で守ればいいんだ。何のための子守だ」
「無茶だっ!?」
 無理が通るから道理が引っ込むこの世の中。
 太陽の意見が取り上げられることなど、もちろんないのである。



   
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