何もかもが止まって見えた。
 全ては視界に入っているのに、ただ一人、倒れているその体以外は目に入らない。
 視界の全てをリュートが埋めている。彼が倒れ、彼を中心に赤い染みが広がり――。
「お前かあああああああああああああああああああああああああああああ!!」
 獣の咆哮に、思わず顔を上げる。ヴィンの体が弾かれ、遠く……、民家三件分は向こうにいる相手に跳びかかる。いつの間にか、ヴィンはリュートの剣を持っていた。
 血が舞う。これだけ離れていても、あそこにいた軍人らしき人がもう生きていないことは、ハッキリとわかった。
 敵を殺したヴィンセントは、こちらをにらむ。
「次は、どいつだッ!!」
 吠えるヴィンは、すぐさま取って返してきた。
「ひィッ!?」
 悲鳴をあげ、逃げようとする軍人。それが目についたのか、ヴィンは抵抗などしそうもないその相手に剣を振り上げ、
「っせねえ!!」
 さっきまでヴィンと切り結んでいた軍人が割って入る。剣を受け止め、
「っらくせえ!!」
 そのまま剣をへし折り、軍人を弾き飛ばした。
 規格外の力だった。これが、あるいはウェアの――獣人の本来の力なんだろうか。いつもは、ううん、今さっきまで手加減をしていただけで。
 リュートというタガが外れた今、ヴィンは止まらない。止められない。
「テメエらああああああああああああああ!! 生きて帰さねえ!!」
「ひィィィ!?」
 もはや、軍人たちに戦う気力など存在しないように見えた。誰も彼もが恐怖にかられ、逃げていく。
 その光景を、わたしはどこか遠くの映像のように見ていた。目の前の、自分さえ当事者としての話なのに、それが現実感を持たない。
 ヴィンが剣を振るい、それが軍人を傷つける。吠え、怒りに狂ったヴィンに対抗できる人はいない。
 ――いや。
「ヴィン! それどころじゃ……」
「あァ!?」
 ぞくっ、と背筋が寒くなる。ヴィンの殺気、その一部がわたしに向いた証拠だ。歯を食いしばり、耐えた。
「リュートを運ばないと! そんな連中はどうでもいい!」
「……っ」
 ギリ、と歯がきしる音が聞こえた気がした。両手の剣をギリギリと握り締め、空を見上げる。
「ちょうどか」
 空を見上げる。日を背にし、二羽の人鳥が迫っていた。
「リュート! エリア!」
 滑空して降りてきたミントは軍人を軽く見まわし、リュートで視線を止める。
「――まだ間に合います。すぐに移動しましょう、背中に乗せてください」
「うん」
 リュートの脇下に腕を滑り込ませ、グッと持ち上げる。いつも抱きしめられていた時には気付かなかったけど、彼の体は意外に重かった。
 軍人たちはヴィンがけん制しているせいで動けない。その間に、ミントの背中にリュートを乗せた。
「行きます」
 わたしの肩をつかみ、ミントが力強く羽ばたく。胃袋が浮き上がるような感覚の直後、わたしの体は、はや空中にあった。
 遠ざかる景色。ヴィンが軍人たちを恫喝しているのを目の端に捉えながら、ただ、リュートのことだけが心を占める。
 今はとにかく、早く医者のいるところに行きたい。

 砦には治療室が用意してある。薬とか治療用の道具を置き、医術の心得がある仲間が駐在している場所だ。
 わたしは、扉の前でじっと待っていた。部屋に戻る気はなかった。わたしのことを心配してくれた名前も知らないウェアが声をかけてくれたけど、わたしはここを動かなかった。
 しばらくして、ヴィンとミントがやって来た。獣たちのリーダーであるクロスも一緒だ。クロスは状況について、ヴィンから聞いたと言っていた。わたしの話も聞きたそうだったけど、リュートのことがあるからか、それは遠慮したらしい。
 二言、三言。何かを言っていたような気がするけど、よくは覚えていない。とにかく何かを言って、三人はその場を去っていった。
 わたしは、ただひたすらに立ち尽くしていた。
 あの場で、わたしができたことはない。それは明白だった。わたしは特別な能力があるわけでも、特殊な経験があるわけでもない。普通の人間だ。
 そんなだから、わたしがあの場で何をしたところで、リュートは攻撃されていた。遠距離からの攻撃なんてかわせっこない。たぶん、虚無の範囲は決まっているんだろう。そのことさえ、わたしは初めて知った。
 何をしてもこの状況は変えられなかった。それを知りつつ、後悔が浮かぶ。
 わたしは、ただこの木扉を眺めていることしかできない。
 石造りの廊下はよどんだ空気が流れている。いつもと変わらない空気のはずなのに、なぜだか今日はいつも以上に臭う気がした。
「リュート……」
 声をかけたから、だろうか。
 扉がゆっくりと開いた。出てきたのは、羊のような角を持った長身のウェアだ。見知った顔ではあるけど、名前は思い出せなかった。
「どうでした?」
 自分でも驚くほど冷静な声が出た。羊のウェアは難しい顔で、
「なんとも言えない。できる限りは尽くしたが、私はただ医術の基礎を知っているだけの、ただの人だ。彼を劇的に回復させる方法は知らない。クロスは?」
「部屋にいると思うけど……あ」
 見れば、ちょうどクロスがヴィンやミントと共にやって来るところだった。タイミングがいいな、と思った。
「ファル。容体は?」
「悪いね。明日の朝まで持つかどうか、ってところだ」
「おい。お前、医療班だろう。その言い草はなんだ」
「私は医者の真似ごとをする以上、本当のこと以外を言うつもりはない。彼は一部の臓器が削れているうえ、出血もかなり多い。まだ持っているのは、彼の精神の問題としか言えないくらいだ」
「助かる見込みは?」
「低い、としか言えない」
「低い、じゃねえ。助けるのがお前の任務だろう!」
「それを言うなら、リュートを傷つけさえないのがお前の任務だったはずだ!」
 羊の言葉に、さすがにヴィンセントも黙り込んだ。
「……いいか。俺たちウェアは、獣の血が混じっているだけの、ただの人間だ。神様でもなければ超能力者でもない。人にできることはできるし、できないことはできない。
 今、リュートを生かしているのは彼の精神力だ。この先、彼が復活できるかどうかも、彼自身にかかっている」
「何もできない、ってのか」
「まさにその通りだ。最善は尽くした、お互いな」
 ぽん、とヴィンセントの肩を叩き、羊は首を振った。
 そう、みんな最善を尽くした。それぞれができることをやって、それでもリュートは傷ついた。
 運が悪い、とでも言えばいいのだろうか。そんな言葉で片付けられないほどの想いをみんなが抱えているのに。
 羊のウェアはわたしを見た。
「エリア。君にお願いがある」
 親指で部屋を指し、
「彼に会ってくれないか。まだ気を失ったままだが、彼を救うだけの可能性を持つのは、もはや君くらいしかいない」
「……ん」
 その言葉の意味が、十分すぎるほど理解できるから。
 わたしは何も言わず、部屋に入った。



 
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