治療室は薬の匂いがした。
 この砦が作られてからいくらも経過していないのに、早くも石壁には匂いが染みついているようだった。
 部屋の壁際には棚が並び、薬が置いてある。そして、奥側には机とベッドが置いてあった。
 今、部屋の中には誰もいなかった。ベッドの上の人物を除いて。
 ベッドの脇に立つ。包帯を巻かれた彼は目を閉じていた。細いながらも息をしていて、それでようやく生きているとわかった。
「リュート……」
 どうして、こんなことになったんだろう。
 いずれは、って思ってた。リュートのやろうとしていたことは危険なことだし、それは誰かが傷つかなきゃ終われない物語だとも知っていた。
 でも、それが、よりにもよって彼なんて。
 まだ何も始まっていなかった。なのに、こんなにも早く、リュートがこんなことになるなんて。
 頬に触れる。温かみがある。それが徐々に薄れていくような錯覚。
「起きてよ、リュート」
 これが終わりなんて、嫌だから。

 ――それは、神様が起こす奇跡なんだろうか。

 彼が目を開いた。
 視線が泳ぎ、それはわたしに向かったところで止まる。
「エリィ……」
「リュート」
 彼はじっとわたしの顔を見つめていた。
 言いたいことはたくさんあって、なのに、声が出て来なかった。
「あー、まあ、こうなっちまうよなぁ」
 どこか、彼の声は達観していた。驚きも動揺もない。それは、わたしも同じことで。どこまでも静かな感じがした。
「エリィ、迷惑かけたな」
「いつものことじゃん?」
「んだよ、それ。割とお前の世話したりとかしたろ?」
「そうだっけぇ?」
「違ったかもしれねーけどな」
 はは、と軽く笑う。
「実はな、お前に頼みたいことがあるんだ」
「何?」
「あいつらのことだ」
 リュートの視線は天井を見ている。その先に見ているのは、誰の顔だろう。わたしの顔では、ないんだろうな。
「お前に託すの、おかしいとは思うんだけどさ。お前はウェアでもコウモリでもないから。だから、まあ、どうにかしてくれとか、率いてくれなんて言わない。そんなのクロスでも十分だしなあ」
「何よ、それ。わたしじゃ役者不足だって言うの?」
「そうは言わない。お前なら十分以上にできるだろうさ。だからこそ、だ。
 お前は、任せればできちまう。だから、任せたくはない。あいつらを負うってことは、人間を捨てるってことになっちまう」
「……わたしに、どうしろってのさ」
「あいつらを見捨てないでやって欲しい。どんな道を選んでも」
「それが、君の願い?」
「ああ。お前が人間として生きたとしても、ウェアという存在、コウモリという存在は、忘れないでやって欲しい。虐げられた存在、踏み台になって、そのおかげで人間が生きていられるってことを」
「そんなの、忘れるわけないじゃん。友達だよ?」
「友達、友達か。はは、そうだな」
 そんな簡単なことじゃないんだろう。コウモリは人間扱いされてこなかった。ウェアに至っては存在さえ抹消された。友達とか、そんな簡単な言葉では片づけられないほどの難しい感情が、たくさんあるんだろうから。
 それでも、わたしからは、そんなことしか言えなかった。
「誰が、悪かったんだろうな」
 ふと気付く。リュートの瞳、その色が失われつつある。
 世界を、彼の瞳はもう映していない。
「ウェアは望まずに戦わなきゃいけなくなった。でも、それはミントたちのことだ。ガルシアたちはそんな時代を知らない。
 ミントたちは、それが仕方のないことだったって知っている。そうしなきゃ人間全てが死んでしまうところだったって理解している。だから無理も無茶もしない。
 けど、ガルシアたちはそうじゃねえ。あいつらは苦しい時代には生きてなかった。不満も募るだろうよ。それを発散させる場所が、ぶつける場所が必要なんだ」
 わたしにも、リュートの現状はわかった。だから言葉を挟むことができなかった。
 今、わたしは聞いていなければいけない。彼の言葉、そのひとつひとつを。
「人間には人間の正義があった。それを知ってるウェアは、もう少ないんだ。
 今、あいつらは別の正義を手にした。それをぶつける相手を求めている。ギルフォード国王が悪いとは言わない、何が正しいってのも言えない。ただ、やるせなくて、どうしようもなく辛くて、悲しいんだ」
 みんな辛いんだ。
 なのに、止まれないんだ。
「たださ、ほっとけなかっただけなんだ。それが最初で、なんか、遠くに来ちまったよな、俺たち」
「うん……、そうだね」
 そっと彼の額に手を乗せる。どことなく、彼の表情が安らいだような気がした。
「俺は、ここまでみたいだ。ゴールを見届けられないのは残念、だけど……。よくよく考えたら、ゴールなんて、ねーんだな……」
 シーツの下から彼の手が出てきた。それをそっと握る。
「生きることに、ゴールなんか、ない。帝都を落とそうが、返り討ちにされようが……。終わったって思うまでは、ゴールじゃないんだ」
 握る力が少しずつ抜けていく。
 わたしの中からリュートが消えていく。
「ゴール、したかった、よなぁ……」
 彼はそのまま目を閉じた。
 手の中で握るものがなくなって、するりと抜け落ちた。
「リュート……」
 今。わたしの恋人は、この世から去った。

 部屋を出ると、まっさきにヴィンセントが寄って来た。どうやら、部屋に入るのをみんなに止められていたらしい。
「リュートは!?」
「今、息を引き取ったところ」
「なッ――!?」
 クロスたちも息を飲むのが見えた。
 ヴィンは何か言いたげにわたしを見て、けれど、結局は何も言わないままその場を立ち去った。
 羊のウェアとクロスは確認のためか、部屋の中に。この場にはわたしと、ミントだけが残された。
「いいの? 見に行かなくて」
「彼はもう亡くなったのでしょう?」
「……うん」
「なら、もはやその場に行ったところで、何も。死者は黙して何一つ語ることはありません」
「でも、好きだったんでしょ?」
「ええ。好きでした。だからこそ、あの場には意味がありません。あそこに、もはや彼はいないのですから」
「ああ……、そうね」
 わたしたちが好きになった、リュートという人間はここにはいない。あの亡骸はもはやリュートだったというだけで、それ以上のものじゃない。
 そこにいくら想いを込めようとも、何を感じようとも。それは、彼ではない。わたしの中に生まれ、残った彼の残滓。
「エリア――」
 ミントが何かを言いかけた時、ちょうど、部屋からクロスたちが出てきた。ミントは口をつぐみ、「みんなに伝えます」と言い残して、その場を去った。
「エリア。なんと言えばいいのかわからないが、とりあえず、葬儀には出てくれないか。彼は喜ばないかもしれないが、そうしてやりたいんだ」
「それは、もちろん」
 外を見る。いつの間にか曇っていた。
 雨降りの雲とは違う、うっすらとした、ただ灰色が続くだけの雲。
 日差しを遮るそれが、今は、やけに鬱陶しいと感じた。



 
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