それは、遠い遠い、過去のお話。



「本当にいいのか、それで」
 竜の質問に、女性は背中の剣を担ぎなおした。ガシャリ、と重々しい音を立てる。
「もっと他の選択肢があるかもしれない。あるいは、何か別の道が……」
 さらに言葉を続けようとする竜の口が止まった。女性は、竜に手の平を見せていた。
 そして、首をゆっくりと横に振る。
「もう、いいんだ。本当は、あたしもやりたくないんだけどね。もう、決めちゃったしさ」
 空を見上げ、女性は「あーあ」と声を漏らす。
「よくさ、可能性は無限大にあって、誰だって何にでもなれるって伝承詩サーガがあるじゃない? あたし、あれって嘘だと思うんだよね。
 可能性はいつだってほんのちょっぴりしかなくて、しかも、あたしたちはその中のさらに一部しか見えない。だから、無限大にあるように錯覚しているだけで、本当は世界ってそんなに広くないんだって」
「……」
 竜も、もう何も言えない。
 それだけ、女性の決心は強いのだ。心に硬く決めたものを、今さら崩すことはできない。それほどの言葉は持ち合わせていないし、それをする意味もない。
 誰も望まない結末を、彼女は決意している。
「何をしているんですか」
 清らかな声に、両者が振り向く。彼らの背後には、美しい毛並みの一角獣がいた。澄んだ瞳で、じっと見つめている。
「いや、他愛のないことだ」
 竜は鱗を揺らす。それは、人であったなら、苦笑と呼ばれたことだろう。
「ならば、行くか。姫君よ」
「うん。これで、全てを終わりにしよう」
 女性は竜の背中に乗る。竜はその真っ白な翼を広げ、大空に飛び立った。


 女性の握る刃が黒く輝く。夜を裂く白光の中、それはそんなか弱い光など拒絶するかのように暗く、黒い。
 その正面には、男がいた。血まみれの体をなんとか奮い立たせ、必死になって両の足で立っている。けれど、その姿はとても不安定で、今すぐに倒れてもおかしくなさそうでもあった。
「ごめんね。あたしには、あんたたちは救えない」
「貴様……、きっさまああああああぁぁぁぁぁ!!」
 男の、憎しみのこもった雄叫びが、夜の空に響き渡る。
「貴様! 貴様は、絶対に許さない! 我ら魔族、未来永劫! 我々は貴様を憎み続ける! 貴様を拒絶する! この、殺人鬼め!」
 男の言葉、そのひとつひとつが、女性の胸をえぐる。それでも、女性は悲しげな表情のまま、何も言い返さない。言い返せない。
 彼女の選んだ道は、決して褒められるものなどではないのだから。
「殺人鬼だと!? 貴様、彼女がどんな想いで――!」
 竜の言葉は、女性が遮る。竜は悔しげに牙をむき出しにしながら、男をにらむ。
「人間! 人間だ! そんなものさえ存在しなければ! 我らは死ぬことはなかった! 私は死ぬことはなかった!」
「それは、違うよ。君には、もうわからないかもしれないけれど」
 女性の持つ黒い刃が、男に向く。
「暗黒の力は破壊の力。そんなものに頼った時点で、あたしも多くの暗黒騎士と同じ道を辿っていたのかもしれないね」
 何も産まない、ただ壊すためだけの力。
 それは彼女に確実なる力を与え――同時に、その他一切の選択肢を塗り潰してしまった。
 結果、彼女は今、ここにいる。たったひとりの男を、殺すためだけに。
「さて、終わりにしよっか」
 剣を両手で握り、女性は腰を低くした。
「お、おい、何をするつもりだ」
 竜は慌てて問う。女性はちらりとだけ振り返り、微笑んだ。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。君も、立派な王様になれるからさ」
 そして、女性は駆け出した。
「待て、おい!」
 暗黒の力を、刃に蓄えたままに。
 光を押し潰す闇が、広がった。


「終わったの?」
 一角獣の問いに、竜は答えもしなかった。ただ、城を見つめていた。
 その城の一角は、まるでそこだけを削り取ったように、丸い損壊の痕跡があった。暗黒の力が、空間ごとえぐり取った跡だ。
 竜は、破壊の痕跡を見つめながら、うなるような低い声で言う。
「何も、できなんだ」
 一度、言葉になってしまうと、後は止まらない。とめどない意志の奔流が、ひたすら口をついて出てくる。
「彼女を止めることも! 奴を止めることも! 何一つできなかった! なにが混沌だ、こんな力、何の役にも立たないではないか!」
「あなたが気にすることじゃない。彼女は自ら死という道を選んだ。人の、人間の選択に口を出すなど、竜がすることじゃない」
「では、我々は何のために存在している!? 守ることも、救うこともできず! ただ見守っていただけではないか! そのためにこんな力を与えられているとでも言うつもりか!? そんな下らないことのために!」
「落ち着きなさい。あなたも竜の頂点に立つ者ならば、混沌の意味を知らないわけじゃないでしょ?」
 原初にして終着。始まりにして終わり。
 混沌。全てを内包するもの。
「……わかっては、いる。だが、理解していることと納得できるかどうかは別だ」
 ぷい、と顔をそむける竜を、一角獣は優しげな目で見つめた。
「もう、混沌の力を使うような事態にならなければいいのだがな」
「魔族の調子を見る限り、それは難しいわね。ほら、あれ」
 一角獣の指し示すところでは、軍勢が怒りの声をあげている。悲しみを塗り潰すほどの、怒りの声を。
「すぐにまた、戦争が始まるわ。魔の混沌がいない以上、終結はそう遠くないでしょうけど……、また、多くの命が失われる」
「それが、生き物の業、か」
「あるいは、力の業なのかもね」
 竜は首を振り、ぐぐっと背伸びをすると、翼を広げた。
「……? ちょっと、まさか?」
「なに。少しばかり、遊んでくるだけだ」
 言い残し、竜は空を舞った。
 その姿を呆然と見送っていた一角獣は、やがて深々とため息をつく。
「まったく。そんな調子で、竜王が勤まると思っているのかしらね? まあ」
 一角獣も駆け出しながら、小さく呟く。
 それはどこか、嬉しそうに。
 ――そんなあなたは、嫌いじゃないけど。


 山中だというのに、そこには人だかりができていた。それらの前には、一頭の竜と一角獣。
「ありがとうございます……、おかげで、ワシらも安心して暮らしていけます」
 人間たちの言葉を代表するように、初老の男が言った。対する竜の眼差しは鋭い。
「いいか、人間。勘違いをしてはならない。我輩はお前たちを守りたかったわけではない。あの子が守った世界がこれ以上に壊れていく様を見ているのが忍びなかっただけだ。お前たちが滅ぶことに、我輩は何の抵抗もないのだからな」
 竜の不機嫌そうな声に、思わず初老の男もひるんで後ずさる。
「我輩はこれより眠りにつく。永き眠りだ。もしもこの世に再び混沌が生まれれば、その時こそ目覚めよう」
 ――我輩の力は、この世界には必要ではないものだ。
 最後の言葉は、隣にいた一角獣にしか聞こえないものだった。
「な、なら! 我々は、あなた様の名前をこの地に残しましょう。混沌が必要となった時、必要とする者を呼び寄せられるように」
「……うむ」
 小さくうなるように返事をし、竜は山のさらに奥へと入っていった。
 姿が見えなくなり、地面の揺れも収まると、途端に山の中は静かになる。残された者たちの誰かが、浅いため息をついた。
「気にせずとも、彼はさほど怒っていないわよ。あれでも竜王なんだから」
「そう、なのでしょうか?」
「保障してあげる。彼だって、多種族とはいえども、苦しむ姿は嫌なのよ。ま、それはそれとして」
 一角獣はひづめを鳴らし、
「混沌の力のことは絶対に誰も漏らさないように。この力は、誰も使ってはならないもの。だからこその、同種殺しの制約があるくらいなのだから」
「はい。肝に銘じておきます」
「よく理解しておくことね。でなければ、私があなた方を殺さなければいけなくなる」
 そう語る一角獣の瞳はあまりに真剣で。冗談など欠片も混じっていないその調子に、男たちは揃いも揃ってぶるりと震えた。
「私はあの人の眠りを守護するわ。いつになるともわからないけれど、もしも、私たちが再び必要となるその時まで」
 そして、一角獣も姿を消す。
 残された人々は、竜王の名前を取り、この土地に新たな名前をつけた。
 ドラグミーア。
 竜王ドラグムーンの眠る土地。