「おめでとうございます、陛下!」 赤ん坊の泣き声が響く広間。その中央に立つ壮年の男性は、布にくるまれた小さな命を見つめながら、隠せぬ笑みを漏らしている。 そんな彼の周囲には、大勢の部下たちが集っていた。皆、揃いも揃って満面の笑みを浮かべている。 「殿下の魔力は陛下さえ越えておられます。これは、伝説の混沌の魔王たる証に他なりません!」 「とうとう我々も、殺人姫に怯えずに済むんだな!」 「はは、やったぞ! やった、我々の勝利だ! はっははは!」 「いやいや、皆の者、はやるでない」 壮年の男――魔王は、部下である魔族たちを眺め、威厳を取り戻した重苦しい声で言い放つ。 「よいか。この子の存在は決して人間に知られてはならぬ。この子が魔力の扱いを知るのはまだ数年かかる。その間、この子を守り抜くのだ。そして、この子が力を得た時、この子が新たな魔王となった時、我らは勝利するのだ!」 『おおおおお!』 轟くような合唱が、大広間を埋め尽くす。 そんな広間を見下ろす位置に、ひとつの影があった。 「くそッ! 忌々しい……」 舌打ちする白い影は、広間の中心に憎悪のこもった視線を向けている。あまりに集中しすぎて、背後に近づく影に彼は気づいていなかった。 「何をしているの、ラジール」 びくん、と背中が跳ねた白い魔族は、硬い動きで後ろを向いた。 「メ、メルハザード様……」 「何を堅苦しい言い方してんの。メルでいいわよ」 豊かな髪を揺らし、女性魔族は胸をそらした。 「しかしですね、メルハザード様、私は近衛師団の隊員に過ぎませんので……」 「子供の頃に一緒にかくれんぼしたのは誰? 魔力の練習を一緒にしたのは誰? あんたが実は魚料理が嫌いって知っているのは誰かしらね?」 「メ、メルハザード様!」 「あら。まだそう言うの?」 腰を折り曲げ、わざと見上げる女性を前に、白い魔族は息を吐いた。 「わかったよ、メル」 「そう。それでいいのよ」 満足そうに頷き、女性は広間に視線を向けた。 「やっぱり、あの子が憎い?」 「――正直に言えば、ね。憎くもなるだろうさ。彼が生まれなければ、私が魔王を継げたのだから」 魔族の王という仕組みは、人間の考える王という存在とは少し異なる。 血族ではなく、純粋な力だけで決められる“王”。常に全魔族の中で最も強い魔力を持つ者が魔王として君臨するという、力の絶対値だけで決められる上下関係の頂点だ。 必然的に、現行の魔王とは、魔族最強ということになる。 そして。魔力とは、生まれた時の差が全てだ。 生まれながらに、魔王になる者は決まる。その関係は絶対に覆らない。生まれた時点で、生涯の全てが決まるのだ。 当然、ラジールという男もその枠組みにはまるはずだった。本来ならば。 「そうよねぇ……。でも、ま、あなたはまだまだチャンスがあるじゃないの。なにせ、特別な天才様なんだから」 「簡単に言ってくれるな。私がエイオンに近づくまで、どれだけ努力したと思っているんだ」 「何を言ってんのよ。努力で現在の地位が変わるなんて、あんたくらいなもんよ」 メルは、呆れた調子で続きの言葉を吐く。 「人間と魔族のハーフ――魔族の中で唯一、成長する可能性を持つあんたしか」 それは、魔族の間では常識となっていた。 ラジール・ホワイティア。人間との間に生まれた特異な男。 彼は、本来ならば増大するはずのない魔力を、厳しい鍛錬によって成長させることができた。それが人間の血が成せる業なのかはわからない。ただ、彼は軍で唯一、成長する可能性を持った魔族として注目され続けた。 当初は下級兵と同等の魔力しか持たなかった彼も、長年の努力の結果、魔王軍の頂点に近い魔力を得るまでになった。 次期魔王はラジールである……。そんな噂も流れ出した矢先、現王の妻・メルハザードは子を身ごもる。 そして、生まれた子――アイザードと名づけられた子は、生まれながらに父に倍する魔力を持ち合わせていた。 ラジールは、父の腕の中で眠るアイザードをにらみつける。 「まったく。私はいつになったら魔王になれるんだか。当面は、アイザードのお守りじゃないか」 「何よ。私の可愛い息子は気に入らないってわけ?」 「あ、いや、そういうわけじゃ……」 途端にしどろもどろになるラジールに、メルはくすくすと笑った。 「あんたって普段は強気のくせに、あたしの前だとほんとにボロボロねぇ。そんなに怖い?」 「バカ、怖いわけあるか!」 「あらそう。じゃあ、もしかして、まだ怒ってる?」 ぴたりと動きを止めたラジール。その前で、メルはもじもじと俯いている。 「エイオンの求愛を、受けたこと」 「……メル。私は、君に守られた分だけ、君を守ろうとしているだけだ」 カツン、と足音を鳴らし、ラジールは後ろを向く。 「私は、その件に関しては誰も恨んではいない。強いて言うなら、強くなれなかった己を不甲斐ないと思う、それだけのことだ」 「でも、あの戦いの後、あたしが受けなければ……」 「より強い者の求愛を受けるのは魔族の女として当然だ。私はエイオンに勝てなかった。魔力でも技術でも、そして、おそらくは心でもな。だから敗北した。それだけのことだろう?」 「ラジール……」 白い魔族は、己の心さえ覆い隠すように、暗い廊下に消えていった。 月日は矢のように流れる。 アイザード・フレイワーが誕生して十年が経つその日。魔王城に程近い闘技場には、ふたりの男が相対していた。 「お前と戦えるのが嬉しいぞ、アイザード」 エイオン・フレイワーは魔力の塊を巨大な斧のように背負い、口元をほころばせている。 一方、その前に立つ小さな子供は、長剣と短剣を両手に握りながらも、震えていた。 「父上。本当に、よろしいのですか」 「無論だ。これが、魔族が常に向上してきた所以なのだからな」 アイザードは浅く息を吸い、吐く。途端、彼の気配が変わる。 震えはもうない。そこに立っていたのは、臆病な少年ではなく、一人前の覚悟と力を持った戦士だった。 そんなふたりを、観客席にて見つめているのはメルと、数名の近衛師団の面々。そこに、ラジールの姿はない。 『奴が魔王になる瞬間なんて反吐が出る』 そう言って、彼はメルの誘いを断った。 「父上。あなたを殺します」 「それでいい。それでこそ、それでこそ魔族の血が沸くぞ! 我が息子よ!」 魔王はその顔を喜色に染め、巨大な斧を片手に駆け出す。 アイザードはそんな父を見て、目を細めた。 「遅すぎます。父上」 アイザードは手にした短剣を投げ放った。魔王は斧で振り払おうとするが、短剣はそれを許さない。 「なッ……!?」 魔力の塊を貫通し、短剣は魔王の右肩に突き刺さった。 「そんな空気みたいに密度の薄い魔力じゃ、僕の研ぎ澄ました魔力を防げるわけがない。当然、この斬撃もだ」 一息で父に肉薄した息子は、何の遠慮もない斬撃を浴びせる。 魔王はかろうじて後ろに跳んだが、わずかに遅れた分、回避が間に合わない。 銀の閃光。紅が空を、地を染める。 ボタボタと命を垂れ流しながら、魔王の顔には笑みしか浮かばない。 「そうだ、それでこそだ! だが、まだ足りんぞ、アイザード。これでは! この魔王は! 倒れはせん!」 「そうですか。なら、僕も全力でいかせて貰う」 残った長剣で空を指し、アイザードは父を見つめる。 「まだ、全力は試したこともありません。どこまでの威力かもわからない。人間の、暗黒とやらを参考に考えた術式です」 「ほう。面白い。たかが十に過ぎない小僧が考えたなどと、大層な口を叩けるか!」 「……さようなら。父上」 そして。殺意は魔力に、魔力は破壊に。 あらゆる力が、全てをなぎ払った。 「バカ、な……」 巨大な爆発の直後、ラジールはその場所を訪れていた。 そこには何もなかった。まさに、何も。 壁も、柱も、椅子も、扉も、地面さえない。まるでそこだけ巨大な龍にでも喰らわれたかのように、円形に全てが消え去っていた。 その空間に残っていたのは、たったひとりの少年。 「アイザード、様?」 「――ラジール」 剣を鞘に戻した少年に、表情はなかった。 「まさか、これは、アイザード様が?」 「その通りです」 やけにはっきりと通る声で、少年は頷き返す。 「エイオン様、は? そうだ、メルハザード様は!?」 「……死にました。闘技場にいた者は、皆」 「死んだ……?」 その言葉が理解できない、とばかりに、ラジールは首を振る。しかし、どう足掻こうとも、現実は変わらない。 顔を片手で覆い、白い魔族は俯いた。時間にして、ほんの数瞬。彼にはそれで十分だった。 手をのけたラジールは、微笑みさえたたえていた。 「おめでとうございます、アイザード様。あなた様が、今、この時より、我らが王でございます」 「ああ」 短く答えた王は、振り返ることなく足を城に向ける。 その日。ここに、ひとりの史上最強の魔王が誕生した。 アイザード・フレイワー。 混沌の力を持つ、ひとりの男が。 |