魔王軍の一翼を担う唯一の女性魔族、ソフィ・レポーティア。
 彼女はその部屋に入った途端、見えないようにため息をついた。
「またですか。アイザード様」
 アイザードはちらりと部下を横目に見つめ、すぐに視線を戻す。
「……やっぱ、気になるだろ?」
「魔王であるあなた様が気になさっている、という点が何より問題です。ご自分のなさっていることがどういうことか、本当におわかりですか。これが、もしも下の兵にも伝われば、戦線の崩壊は免れませんよ?」
「あー、わーったわーった。あいっかわらず、お前は口うるせーな」
「わたくしにはアイザード様をお守りする義務があります。そのために必要とあれば、命も投げ出しますし、苦言も呈しましょう」
「――ソフィ」
 視線も鋭く、アイザードは女性魔族をにらむ。
「命を粗末にするんじゃない。それじゃあ、オレは何のために戦ってるかわかんないだろうが」
「失礼をしました。撤回します。ただ、わたくしたちはそれほどの気概であなた様をお守りしている、ということをご承知いただきたいのです」
「考えとくぜ」
 答えたアイザードは、ふと視線をあげた。
「……なんだ? やけに騒がしいな」
 天井からぱらぱらと埃が降っている。遠く響くような足音も聞こえていた。
「ソフィ」
「はい、ただ今」
 彼女特有の通信魔法によって、階上へと連絡を取る。しばらく念話で会話していたソフィは、顔を青ざめさせた。
「ま、さか!」
「何があった」
 すでにアイザードの表情は、ひとりの男から魔王のそれへと変化している。
 対するソフィは、青い顔を上官に向け、
「攻め込んできました」
「グレイスか?」
「はい。ですが、それだけではありません」
 そんなことは信じたくない、とばかりに、ソフィは首を振った。
「んだよ。竜王でも来やがったか?」
「大軍です」
「……あ?」
「です、から」
 その顔にあったのは、紛れもない――恐怖だった。
「竜と獣の大軍が、攻め込んできました」

 魔王軍の本拠地、それは黒い城だ。
 荒れ果てた小島にそびえるその城は、異様な雰囲気を醸し出している。近づく者など誰もいない。ただ、魔族を除いて。
 周囲は海。絶海の孤島という表現がふさわしいその場所に、今、全てを飲みつくさんとばかりの影が迫っている。
 空を、海を渡るのは、獣と竜の混成軍。
 空を舞う巨大な竜の影。その合間を縫うように飛ぶ魔獣たち。
 海を進む魔獣の背には泳ぐ力のない獣たちが乗り、ところどころ、海蛇竜シーサーペントの姿もある。
 それらの中で一際、目立っている存在。それは大軍の中ほどにいる、白い竜だった。魔力を帯びた巨大な翼で、力強く飛翔している。
「あれが、魔王城ってわけか」
 竜王・イシュキールの背中に仁王立ちするグレイスは、進む先に見える黒城を見つめ、表情をこわばらせる。
「あそこに、アイザードが……」
「その前に魔王軍本体を相手にしようってんだよ? そこのところはどうなんだい」
 感慨深げなグレイスに、ミスティアはどこか挑発すように言う。そんな仲間を見据えたグレイスは、
「そっちはお前らに任す」
「……簡単に言ってくれるね。アタイらはただの人間だよ? 暗黒のダンナみたいにバカみたいに強い力があるわけでも、リットのダンナみたいに万能な力があるわけでもない。ごまかしごまかしでなんとか切り抜ける程度の力なんだよ?」
「何を言ってるのよ。実際に戦うのはあなたじゃないでしょう」
 呆れた調子で言ったのは一角獣パリティだ。そんなユニコーンに、クルートもまた問いかける。
「実際問題、本当に時間稼ぎなんてできるんだろうな? 魔獣の軍団に」
「倒せってわけじゃなく時間を稼げってだけなら、なんとかなるわよ。完全な奇襲……、相手も状況を整理して迎撃するだけだって、相応の時間が必要なはず。その間にグレイスがアイザードを倒せばいいのよ」
「つっても、これだけの数じゃ安心には程遠いな」
 言って、クルートは周囲を見渡す。
 見渡す限りの獣の軍勢。けれど、向かうのは魔王軍の居城。数はどれだけあろうとも決して足りることはない。
「獣だけじゃない、竜種もいるわ。そして、各種族を指揮する戦い慣れた人間も」
 言って、パリティはクルートを見た。さっと、クルートは視線をそらす。
「ま、要するに今回の勝利はグレイスにかかってるってことだねぇ。しっかり頼むよ、大将」
「そりゃこっちの台詞だ。アルビスが倒れたっつっても、まだ幹部はふたりも残ってる。そいつらの足止めの方が、よっぽど厄介だぞ」
「ま、そのくらいならなんとかなるんじゃない? 向こうだってこれだけの軍勢が来れば自分で対応せざるをえないし、いざとなりゃあ、アタイとウィルが近衛兵くらいぶっ飛ばしてやるよ」
 なあ、という目つきで見るミスティアに、ウィルは大きく頷いて返す。
「オイラ、今まで何もできなかった。リットみたいに守ることも、サイモンみたいに逃がすことも、ディックみたいに敵を倒すこともできなかった。だからせめて、今度だけは、オイラがなんとかしたい」
 その顔つきは、いつもの子供じみた姿ではなかった。一人前の騎士が、そこにいた。
 グレイスは、仲間たちを見渡す。
 ウィル、ミスティア、クルート、パリティ。そして、足下のイシュキール。
 本来なら、ここにいるべき三人の仲間はいない。それが、彼女の胸に悲しみを刻む。
 それでも。
「みんな……、死ぬなよ」
 彼女の瞳で輝く炎は、決して揺るがなかった。

 ――チッ
 魔王城の廊下を急ぎ足で歩きながら、ソフィは軽く舌打ちした。
「まさか、竜王と幻獣の女王が一族を引き連れてくるなんて……!」
 想定の範囲外だった。人間と魔族の争い。そこに竜王が関わるところまでは想定していた。太古の昔、魔王を殺した殺人姫もまた、竜王を連れていた。
 けれど、その時はそれだけだった。竜王と騎士、その組み合わせに魔王は敗北したのであって、それ以外の軍勢が来るなど想定していなかった。
「このままでは、まずい」
 城の周囲にはいくらかの兵士が警戒しているが、迎撃に足りるような数ではない。そもそも魔族以外の誰もが訪れないこの場所に、敵の軍が来ることなど考えていなかったのだ。迎撃できる軍などいるはずがない。
 足早に歩く彼女の向かい側から、別の影が現われた。その、真っ白な影に、ソフィは心の中で頭を抱える。
「む、ソフィか」
「ラジール、緊急事態です。あなたもすぐに兵団を率いて城の守護にまわってください。竜王が竜と獣の軍勢を率いて攻め込んできました。おそらくは、グレイス・フェイリアーも同行しているでしょうから」
「ほう。とうとう来たか」
「とうとう?」
 ラジールの物言いに、ソフィは眉をひそめた。
「とうとう、とはどういう意味ですか、ラジール。あなたはこの事態を想定していた、と?」
「当然だろう、ソフィ。グレイスが竜王と獣妃に接触したんだ。軍勢を率いてくるのは想定できただろう?」
「な、なら、どうしてそれをアイザード様に進言しないのですか!」
「アイザード様はただでさえグレイス・フェイリアーのことでお心を痛めておられる。この上、余計な心痛の種を増やしてはならんだろう。何のために参謀がいると思っているんだ?」
 ふん、と鼻を鳴らし、ラジールは口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「安心しろ、ソフィ。すでに私の部隊は城の周囲に展開済みだ。連中が下手に上陸しようとすれば、真っ先に撃墜されるだろうさ」
 ラジールの言葉にもソフィは安心した様子がなく、疑わしげに見ているだけだ。
「……どうして、その件をわたくしに相談しないのですか?」
「ああ、伝え損ねていたんだ。なにせお前はいつだってアイザード様のおそばにいるからなぁ?」
 ぴくん、とソフィの眉がはねあがり、頬にわずかな朱が差した。
「ラジール。わたくしは、あなたが嫌いです」
「そうか。私はお前が嫌いではないがな」
「その、見え透いた嘘もおやめなさい。気分が悪くなります」
 カツン、と靴を鳴らし、ソフィはラジールの横を通り過ぎる。
 そして、数歩だけ進んだところで、足を止めた。
「ただ、部隊を展開してくれたことだけは感謝します。今からわたくしの部隊を展開させても上陸は防げませんから」
「急いだ方がいいぞ。私の部隊とて、いつまでも持たない」
「承知しています」
 ラジールをその場に残し、ソフィは長い廊下の奥に駆けるようにして消えていく。
 佇んでいたラジールは、ちらりとだけ後ろに視線を走らせ、自らも歩きだした。
「終幕だな。このあたりが私の限界か」
 浮かぶ表情は、暗い。