朝もやに包まれた川原は静かで、少し肌寒いくらいの空気がただよっていた。周囲は森。白い景色の奥に、薄っすらと緑色の木々が見えていた。 その中をひとり、グレイスは歩いていた。目覚めた時、気分は最低だった。 はっきりとは思い出せないが、夢見も悪かった。血の色ばかりが夢の世界で踊っていたような気がする。 嫌な気分を紛らわせようと、冷たい空気の中を歩く。ターナインに続く澄んだ川は、徐々に細くなっていく。それでも、グレイスは足を止めなかった。 『ターナインを滅ぼした連中の肩を持つって言うのかよ!?』 『あいつらが、オイラの村を殺した』 『人間たちが裏切りかけた途端、殺した』 昨日、耳にしたばかりの言葉が頭の中でぐるぐると回る。ひとつひとつの言葉が、重く胸の中でよどんでいる。 「……本当に、魔族って悪党なのかよ?」 ひとりごとに答える声は、ない。 彼らの話を疑ったわけではなかった。実際、ターナインが魔族に攻撃されたことも、ウィルの村が魔族に滅ぼされたことも、サイモンの目の前で人間が殺されたことも、事実だろう。 魔族が、人を殺している。理由はわからないが、それは見逃しようのない事実であることは間違いなさそうだ。 魔族と人間は同じ道を歩めると、ずっと考えてきた。そして、それは今も変わっていない。 だが、魔族が人間を殺し続ければ、それも叶わなくなる。人と魔の溝は、決定的なものになってしまう。 「あー、くそ。どうして殺すんだよ? 殺して、何が得られるってんだ」 考えるほど、思考は深みにはまっていく。重苦しい考えがさらに重苦しい発想を呼び、どこまでも深い思考の闇に落ちていった。 泣きそうな顔のままに歩き続けていると、白い世界の向こうに、薄っすらと何かが見えてきた。 眉をひそめ、グレイスは目を細める。さらに進むと、そこがどういう場所なのかわかった。 「こいつは、墓?」 そこに並んでいたのは、いくつもの墓石だった。刻まれた文字はかすれていて、とても読めない。だが、そこは間違いなく墓地だった。腰ほどの高さの墓石が、規則正しく並んでいる。 「ターナインの墓場、なのか? にしたって、なんでこんなところに……」 墓石の間を歩くうち、グレイスはもやの向こうに黒い影を見つけた。 無意識に剣を引き抜ける体勢になりながらも、グレイスはその影に近づいていく。 もやの向こうから現われたのは、男だった。黒い長髪を後ろで束ね、腰には二本の剣を差している。端正な容貌は、どこか女であるようにも見える。目元が少し光っていた。 「(泣いて、る?)」 男はグレイスの存在に気がついていないらしい。目を閉じ、胸に手を当て、ひとつの墓の前でじっとしていた。 なんとなく声をかけあぐねていると、男はすっと目を開いた。横を向き、その時になって初めてグレイスの存在に気がついたらしかった。慌てて目元をぬぐい、少しだけ頬を赤くした。 「ん……、旅人か?」 「あ、いや、まあ、そうなんだけどよ」 答えると、男は表情を柔らかくした。 「こんなところで旅人に会うとは思わなかったな。道にでも迷ったのか?」 「あ、いや、起きたら散歩したくなってよ。川沿いに歩いていたら、いつの間にかここに出てた」 「はあん。ま、そういう時もあるよな」 男は墓石に視線を戻す。つられるように、グレイスも墓に目を向けた。 その墓は、他の墓と比べると新しいように見えた。欠けることなく、その場に鎮座している。 「知り合いの墓、なのか?」 グレイスが聞くと、男は頷いた。 「オレの、両親さ」 「あー、悪い」 「いや。気にしなくていい」 男はしゃがみ、そっと墓石をなでた。 「もうすぐ大きな仕事があってな。その前に、両親に誓いに来たんだよ。オレは、あんたらが命懸けで守ろうとしたものを、オレも守るって」 「それって……?」 手が止まり、男はグレイスを見上げる。 「仲間さ。オレたちを無条件で助けてくれる仲間だ。だから、オレも両親も、助けようって決めたんだ」 「仲間、か」 グレイスの脳裏に、リットたちが浮かぶ。彼らは、仲間と呼べた。知り合ってまだ日は浅いが、それでも、リットたちが困っているなら助けたいと思う。 「オレもわかるな、そういうの」 「おう、わかってくれるか」 立ち上がり、男は嬉しそうに笑った。 「時々、いるんだよな。そんなのは理解できねえって奴。だから、あんたみたいなのに会えると、嬉しいぜ」 「そんな奴がいるのかぁ? それこそ理解できねえ」 「だよなぁ」 ふたり、楽しそうに笑った。朝の静かな森に、笑い声が響いていく。 「はは、あー、そういやこうやって笑ったのも久しぶりだなぁ」 ひとしきり笑ったところで、男は目元に浮かんだ涙をぬぐった。 「最近、仕事にかかりきりで笑うってことを忘れてたわ。ありがとな」 「仕事人間ってか? そういうのはいけないぜ。仕事は仕事。休養は休養。そうやってきちんと切り替えないと、疲れるだろ?」 「ああ。特に慣れないことばっかしてるからなぁ、最近は。疲れる疲れる」 グレイスは小さく笑み、肩をすくめた。 「だよな。考え事とか、性に合わねえ」 「そりゃ、お前の話か?」 グレイスは小さく頷く。 「ちょうどさ、嫌なことがあってよ。そんで、うじうじと悩んでた」 「なるほどな。見たところ、お前は悩むってタイプじゃないな。どっちかって言えば、考えずに突っ込んで叱られるタイプだ」 「まさにその通りだけどよ、会ったばかりの奴に言われるとは思わなかったぜ……」 「顔や態度に出ているよ。お前は、悩みながらじっとしているタイプじゃない。立ち止まるよりは走り続けるタイプだ。 そういうタイプは、いいぜ? 取り返しのつかないこともあるだろうけどよ、立ち止まって悩むよりは進んでみた方がいい時ってのは多い。考えたって何もかもがわかるわけじゃないからな。やってみなきゃ、わからんことの方が多い」 グレイスは男を感心したように見上げた。 「すげーな。そんなに年とか変わらないだろうに、すっげー大人だ」 「ジジくせえってことだよ」 言って、男は苦笑を浮かべた。 男は、ふっと顔を上げた。朝もやはどこかに消え、緑色が視界を覆うようになっていた。 「悪い、そろそろ行かなきゃならねえ。でないと、また怒られちまうんだ」 「そっか。気をつけてな」 グレイスに背中を向け、歩き出す男。と、墓地から出るところで足を止め、くるりと振り返った。 「オレはアイザード。アイザード・フレイワーだ」 一瞬、何を言ったのか理解できなかった。それが名乗りだとわかると、グレイスも胸を張って返す。 「グレイス・フェイリアー。また会えるといいな」 普通に名乗ったつもりだったのだが、アイザードは目を丸くした。 「――グレイス? 女なのか?」 「ああ、そうだよ。なんだぁ? お前まで間違えていたのかよ。ったく、どいつもこいつもひでぇな」 一瞬、アイザードの瞳が考え込むように沈んだ。その色合いは、次の瞬間には消えてしまっていたが。 「まあ、そうそう当たりなわきゃないよな。じゃあな、グレイス。また会えることを願うぜ」 「こっちもだよ」 軽く手を上げ、アイザードは森の向こうに消えていった。 見送った時、グレイスの胸にわだかまっていた黒いものも、どこかに霧散していた。 「……不思議な奴」 ぽつりとつぶやき、グレイスは墓石に目を向けた。小さな墓石の下には、アイザードの両親が眠っているのだろう。 グレイスは剣を引き抜くと、しゃがみ、柄を額に当てた。そのまま目を閉じ、しばらくの間、黙祷を捧げる。 鳥の鳴き声と風に揺れる木の音だけが耳を打つ。静まり返った森の中で、祈りを捧げる。 祈り終え、ゆっくりと目を開いたグレイスは、墓石を見つめた。 そこに並ぶ文字は、どこか異国の文字なのか、グレイスには読むことができなかった。けれど、並ぶ字の形からして、アイザードの両親の名前が彫られていることだけはわかった。 「あんたらの息子、立派だな」 声をかけ、グレイスは立ち上がる。瞳からは、迷いの色が消えていた。 「よっし! これ以上は、絶対にやらせねぇ。ターナインをやった奴も、ウィルの村をやった奴も、サイモンと会った奴も、見つけ出して性根を叩き直してやる」 剣を鞘に収め、グレイスは覚悟を決める。 人間を殺した魔族を、このまま許すわけにはいかない。これ以上、殺させるわけにもいかない。 それは、自分の手で止める。そして、人と魔の溝を、食い止めてみせる。 それが、グレイスの誓いだった。 理由はない。ただの衝動だった。 「さて、と。行くか!」 一歩、力強く足を踏み出す。 墓石たちは、そんなひとりの剣士を見送っていた。ただの一言も口にすることなく。 |