壁が消えていた。
 グレイスの放った暗黒の一撃によって、床も壁も削り取られ、ガレキがあちこちに転がっている。
 パラパラと降ってくる小石の向こうには、竜や魔族、幻獣の姿。空中戦を繰り広げている連中だ。
 そんな彼らを背景に、その男は空に浮かんでいた。
「来いよ、グレイス。んな狭いところにいちゃ楽しめねーだろ」
 ガレキをひとつ蹴飛ばし、グレイスは空に浮かぶアイザードを見上げる。
「お前さー、オレの一撃を至近距離で受けたんだぜ? もうちっと苦しそうな顔をしろよ。でないとオレの攻撃が無駄みたいじゃねーか」
「ああ、ワリィ。空気とか読む気がないからな」
「そうかよ」
 ひゅん、と剣を回転させ、グレイスもまた、壁に開いた穴から城の外に飛び出した。
 直後、グレイスの背中に白い花が開く。
「ほう。翼だけの召喚か?」
「珍しいだろ」
 返すグレイスの表情も笑顔になっている。
 白い翼を負ったグレイスは、どこか人ではない存在のように見えた。
「魔族がこんなことを言うのも変だけどよ、天使とかってそんな感じなのかもな」
「こんな口の悪い天使がいたら誰もおちおち死んでられねーな」
「まったくだ」
 互いに再び剣を構える。先刻との違いと言えば、互いが宙に浮かんでいるせいで、上下にも距離が開いたことか。
「さて、楽しんでいこうぜ?」
「悪いな、趣味じゃない」
 アイザードは空を蹴り、
 グレイスは空気を押し出す。
 互いの剣が交差する。
「オラァ!」
 そのまま力をこめ、アイザードはグレイスを吹き飛ばした。
「ちっ」
 勢いに逆らわず、むしろ乗るように方向だけを変える。後ろに向かう勢いは上方への流れに変わり、グレイスの体を空に運んでいく。
「逃がすかよ!」
「逃げねーよ」
 剣を振り、黒刃を放つ。軽くアイザードが避けると、下の方で爆発が起きた。
「刃状の攻撃だけじゃあ当たりゃしないぜ! ましてや空中戦だ! んなもん牽制にもならねーぞ!」
「だったらこれならどうだよ!」
 逃げる勢いを殺し、切先をアイザードに向ける。
「見よう見まねだけどな……、爆発っ!」
「うおっ!?」
 グレイスを中心にした大きな爆発。全方位の攻撃に、アイザードはたまらず止まった。反射的に刃を体の前で構える。
「バーカ」
 しかし、場所は上空。攻撃は前から来るとは限らない。
 慌てて身をひねるも、足元からの突き上げはかわしきれない。グレイスの刺突がアイザードの足を薄く裂いた。
「おいおい。オレより空中戦に慣れてないんじゃねーの?」
「いや……。久しぶり過ぎて、ちょっと勘を取り戻すのに時間がかかってるだけだよ」
「そうか。んじゃあ、もっと強くなれるな?」
 剣を両手で握り締め、グレイスはアイザードを見上げる。
「来いよ、アイザード。お前の全力をオレは正面から叩き潰す」
「けッ。ちょっと優位だからって調子に乗るなよっ!」
 笑みを浮かべて飛び出す魔王。
「そんなんじゃねーよ」
 疲れを押し隠し受ける殺人姫。
 高らかな剣戟の音色が空に響いた。

 白い繭を前に、白い魔族は皮肉げな笑みを浮かべる。
「君にはこれが何に見える」
 繭の表面に触れながら、ラジールはミスティアを盗み見た。
「……繭、だな」
「その通り。繭だ。真っ白な繭」
 コツ、コツ、コツ。
 魔族の足音が高く響く。
「繭とは中に生物を包むためのものだ。では、この繭は何を入れていると思う?」
 立ち並ぶ白の間を、白が歩く。
「まあ、正解は出ないだろうね。答えを教えてやろう。人間だ」
「人間?」
「そう。魔王様の、気まぐれだ」
 繭の前で、ラジールはヒュッと手を閃かせた。切れ目が走り、中身が覗く。
「なッ――ダンナ!?」
「おや。君も知り合いか。ああ、神聖騎士ならば有名だからな」
 中から覗いているのは、眼帯をした金髪の男。神聖騎士、リット・ホーリビス。
 しばらく前に、魔族との戦いの中に行方不明となった男だった。
「ど、どういうことだい。ダンナがどうして生きて、ここにいる!」
 そうそう死んではいまいと、本当に思っていた。とはいえ、ここにこうして無事でいるなどというのは、考えてもいなかった。
 ラジールは呆れたようにため息を漏らす。
「だから言っただろう。魔王様の意思だよ。こいつも、暗黒騎士も召喚騎士も、そこらにいる。他の人間も、まあ生きていた連中はおよそ連れて来たから、そこらの繭のどれかに入っているだろうな」
 ぐるりと見渡す。ここに並ぶ繭の数は、数えるだけでも呆れるほど。
 その、全てに人間が入っている。
「アイザード・フレイワー。当代の魔王は、今までの魔王と違った。圧倒的な力を持ちながらも殺すことを好まず、今も魔族を救おうと本気で戦っている。まったく、馬鹿げているよ」
「救う? あんたらが仕掛けた戦争じゃないか!」
「その通りだ。そう仕向けたからな」
「仕向けた……?」
 刹那、ミスティアは全てを理解する。
 この男が、全ての元凶であると。
「私は、先代の魔王の時代から魔王候補と呼ばれた存在だった。魔王軍の中でも特別な存在として生きてきた。あいつが生まれるまではな」
「アイザードのこと、か?」
 ミスティアは呟き、思わず背後に跳んだ。
 背筋の寒気は、止められなかった。
「奴は生まれながらに魔王となることが運命づけられていた。それはすなわち、その他の一切の魔王候補を切り捨てたということになる。私やアルビスはその内のひとりだ」
 ラジールの放つ、冷気にも似た闘気。それは、死を連想させた。
「奴がいなければ! 私は魔王となった! 同等の地位まで近づくことができた! なのに、あいつが全てを殺した!」
 激情に支配されながらも、魔力はひどく冷たい。
 触れれば切れると思わせるような鋭い威圧感に、ミスティアの冷や汗は止まらない。
「だが、魔王は殺せない。混沌に選ばれたとなればなおさらだ。ゆえに私は、鍛錬を続けると共に、奴を殺す方法を考え、調べた。結論は、言うまでもなかろう」
「……グレイスに、殺させる気か」
「別にあの女でなくとも構わん。殺してくれるのであれば、な」
 酷薄な笑み。彼は、最初からアイザードの死だけを願っていた。
「奴が死ねば、混沌は消え去る。私も魔族の頂点に立つことができる。新たな混沌が生まれようともそいつは魔王にはなれないし、その他の混沌は他種族である私を殺すことはできない。その理由もないだろうがな」
「あんた……、たった、それだけのために?」
「アイザードを殺すことが私の生きる全てだ。そのためならば、他の一切に興味はない。アイザードさえ殺してしまえば、他はどうにでもなる」
「他? まだ、何かやるつもりだってのかい」
「ああ。アイザードを殺すのは手段だ。その後、私はもっと殺したい相手がいる。そのために戦争という方法は非常に効率的だった」
 引き抜いたナイフを握る手に、力がこもった。
「あんた、まさか――魔族そのものを?」
「私にとって、魔族などという存在は害悪でしかない。この体に流れる魔族の血、それそのものが嫌悪すべき対象だ。まあ、人間風情には理解できないかもしれないがな」
 体勢を低くナイフを構え、ミスティアはじりりと迫った。
「……ああ、理解はできないね。けど、そんなことをさせるわけにはいかない」
「何故だ? 貴様は人間だろう。魔族の生死など関係あるまい。
 このまま放っておいてくれないか? 今は魔族を殺すために人間を利用しているが、魔族が死ねば私は人間に手出しなどしない。そもそも関わりたいとも思わないしな」
「そういう問題じゃないよ」
「ふむ。人間というのは理解に苦しむな」
「人間だからじゃない。あんたが、化物だからさ」
 ミスティアを見下ろしていたラジールは、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあ、よかろう。それで? 貴様ひとりで何をするつもりだ。魔王候補と呼ばれたこの私を相手に」
「ひとり? あんたの耳は節穴なのかい」
「何?」
 自分に酔い、周囲への警戒を怠っていたラジールは、この時になって初めて気づく。
 息を殺した気配に。
「ウィル。聞いていただろ」
「……ああ」
 バン、と壁が吹き飛んだ。崩れた壁の穴から、ふたりが姿を現わす。
「お前、許せない」
「ラジール。反逆者として、あなたを粛清します」
 入ってきたふたりの姿を見て、ラジールは消した笑みを再び浮かべた。
「なんだ? ソフィ、お前まで人間側に味方するのか? 反逆者はどちらだろうな」
「この戦争は終わりです。あなたという、裏切りの虚言者を犠牲にしてね」
「ふふん? いいだろう。できるものならやってみるがいい。たかだか特殊な能力だけで魔王軍の一翼まで入り込んだだけの、下級兵風情にできるのであればな!」
 光を背負い、ラジールは両手をあげる。触手のような光の帯が何本も背中から伸びてきた。
「今度ばかりは手加減しないぞ、人間ども!」