――――― † ――――― あれはいつのことだったろう。 時刻は夜、あるいは深夜だったか。何かを探していて、見当たらないな、と思って道場の方に見に行くと、そこに師匠が立っていた。 師匠は格子状の窓からぼんやりと空を眺めていた。なんとなく声をかけづらくて、わたしはそっと近寄ると、途中で気付いた師匠は振り返り、いつもの温和な笑みを浮かべてくれた。 わたしはその笑みに安心し、師匠のかたわらに立った。 「見てごらん。今日は月がとても綺麗だよ」 「本当に」 そう、その日は満月だった。見上げる月は本当に昼間のように明るく、ただ眺めているだけでも夢の中を歩いているような不思議な気持ちにしてくれた。 そんな月を眺めながら、わたしは師匠と話をした。 「そうそう、一度、ミズキには言っておかなきゃいけないことがあったんだった」 なんだろう、と思って月から師匠に視線を移すと、師匠は安心させるように笑んでみせたっけ。 「君は本当に筋がいい。僕が教えることはもうあんまりなくなってきた。剣の技だけなら、すでに誰にも負けないと自負してもいいほどだよ」 「そ、そんな……。わたしはそれほど強くはありません」 「いや、謙遜することはないよ」 その頃のわたしは、すでに今とたいして変わらぬ太刀筋を身に着けていた。もうセロではとても敵わず、師匠ともそこそこ打ちあえるほどにはなっていた。 「今の時代、戦争なんていうものはなくなった。人が人を殺す時代も終わってきている。もしも次に新たな戦争が起きたとしても、それは僕たちが懸命に覚えてきた刀なんかを使う時代ではなく、銃や爆弾なんかが使われるだろう。もう、刀は時代遅れになってしまった」 「わたしは師匠の刀、大好きですよ」 「ふふ、ありがとう」 実際、わたしは師匠の刀に見惚れたからこそ、師事することを決めた。 それが、きっかけだった。 「けどね、それでいいと思う。人間は新しい力を手に入れた。そして、いまだにその使い道を誤るようなことをしていない。これは素晴らしい奇跡だと思うんだ。同時に、とても危険でもある。刀ではせいぜい数人を殺すのが限度だけど、爆弾は一度に何十人もの人を傷つけられるのだからね」 だから、と師匠はわたしの頭に手を置いた。 「もしも道を間違えた人がいたら、ミズキ、そのためにこそ力を使いなさい。たとい、血が流れることになろうとも」 「で、でも、師匠は血は嫌いなんでしょう?」 問いかけると、師匠はうん、と頷いた。 「うん、嫌いだよ」 「だったらわたしも嫌いです。血が流れるようなことはしたくありません」 「いい子だ、ミズキ」 だけど、と師匠は続けた。 「血を流さず終えられる物語ばかりに出会うとは限らない。時には力を使う必要がある。その時には、ためらいなく使えるようになりなさい。修練によって身に着ける力とは、そういう時のためにあるものだと思う。 もっとも、今のミズキにはちょっと難しいかもしれないけどね」 わたしは師匠にダメだとか思われたくなくて、必死に否定しようとしていた。 「そ、そんなことないですよっ!」 「そんなことあるよ。僕があげた刀、まだきちんと呼べるようにはなっていないだろう?」 わたしは内心、ギクリとしていた。その数日前に頂いた『金色夜叉』は、名前を呼んでもあの月のように輝くことはなかったから。 「あの刀は君の心そのものだよ。君が相手を傷つけるという明確な意思を持たない限りは、絶対に呼び声に応じない。君が自分の心をきちんと制御できるようになったら、金色夜叉は君に力を貸してくれる」 「そ、そんなの……、そんな時、来なくていいです」 「うん、そうだね。でも、そういう時というのは、こちらが望まずとも勝手にやって来るものだから」 そう言って、師匠は優しくわたしの頭をなでてくれた。 その頃のわたしにとっては、いつ来るかもわからない『その時』よりも、師匠が頭をなでてくれているという事実の方が重大だった。 本当に、考えもしなかった。『その時』が本当に来る、などということは。 遠い、思いだすことさえやめてしまうほど遠い昔の思い出。 ――――― † ――――― 目の前に迫る鉄を弾き、払い、鋼鉄の響きを打ち鳴らす。 「覚えていますか、師匠。あの夜の話」 答えは刃だった。 何かを思う前に体が反応する。師匠に何度となく褒められた、わたしの得意な太刀筋だ。 「本当に思っていたんです。そんな日は来なくていいと。この金色夜叉も、力を使わず済むなら絶対にその方がいい。 それに、少し信じられない気持ちもありました。あの頃は毎日が幸せで、その幸せが簡単に崩れてしまうようなものとは知らなかった」 あの頃もよく師匠と刀を交えた。 あの頃と違うのは、師匠が持つのもわたしが持つのも木刀や竹刀ではなく本物の刀で、師匠は何も言葉を発してくれないということ。 「なぜ、と言うのは意味がないのでしょうね。こうなって、しまったのですから」 現実は非情。そんな言葉、聞き飽きた。 「『そういう時は望まずとも勝手にやって来る』。まさに師匠の言う通りです。わたしは……、師匠と、刀を交えたいなどとは一度も思ったことがない」 その腕で抱いて欲しかった。 頭をなでて欲しかった。 甘い言葉を耳元でささやいて欲しかった。 共に時間を過ごし、季節を過ごし、同じ時間を生きていたかった。 どうしようもなく、好きだった。 そう、好きだったから。 目を向ける。 わたしに向かって刀を構え隙を探るその姿はいつかと同じ。なのに、あの時とは決定的に違う。 あの優しさがない。 あの温かさがない。 あの安心感がない。 わたしがあれほどまでに愛した師匠の姿が、そこにはない。 それも当然だ。師匠はあの時、死んでしまったのだから。 今、目の前にあるのはただの形骸に過ぎない。わたしが愛した者は、そこにはいない。そう、いない。 「いないの」 わたしが愛したキリュウという男性はこの世から消えた。 なら、今、わたしに刀を向けているあれは何と呼べばいいのだろう。 キリュウの器を持つ、キリュウではないもの。 「抜け殻、と呼ぶのが正しいかな」 自然と、刀が敵に向いた。 「――抜け殻。聞こえずとも聞きなさい」 反応さえない。ただ隙を窺うのみ。 本当に、人形のようだ。 「わたしが愛した人を侮辱するのは許し難い」 キリュウの刃は、あんなにも弱くなかった。 「だけど、それよりもずっと許せないことがある」 刀を握る。……血がにじむほど、強く。 「師匠は、もう眠っているのです。あの人はこの世をわたしたちの世代に任せ、先立たれました。眠れる死者を呼び起こそうというのは、なお許し難い」 ようやく得た、真の安息なのだから。 「だから、わたしはあなたを殺し、彼を眠らせる」 そうして、わたしの思い出に決着しよう。 終わらない時に、終わりを。 「満天きらめけ。我が愛刀、『金色夜叉』よ!」 刃が鳴動するのを感じる。 今、金色夜叉が目覚める。 「あなたの力を貸して、金色夜叉」 声をかけると、かすかな返事が聞こえた気がした。 あの時の月のように輝く刃を、わたしは師匠だった者に向けた。 「これより先、あなたには何も許さない。覚悟なさい」 返事は……、なかった。 |