「グレン、さん……」
 クルルの声がオレを現実に引き戻す。
 目の前に立つのは、確かにグレンだった。見間違えようがない。見たところ、怪我らしい怪我の痕跡もなかった。
「よかったよ、君たちに会えて。はぐれてしまってから、ずっと探していたんだ。もしかしたらノエルにやられてしまったんじゃないかと思って、心配したよ」
「あたしも、グレンさんが殺されちゃったって聞いて、それで……」
 クルルがグレンに近寄ろうと歩き出す。それを、オレは反射的に止めていた。
「カズマ君?」
 クルルは不思議そうにオレを見上げている。だけれども、オレの手は動かない。オレの中の別の誰かが警告を発しているような、そんな感覚があった。
 ――何カ、オカシイ。
「どうしたんだ、カズマ君? ああ、もしかして偽者と疑っているのかな?
 はは、相変わらず疑り深いね。大丈夫、本物だよ」
「そのよう、だな」
 じゃあ、オレは何を迷っている? 何がおかしいんだ?
 ――何故ダロウ。
「どうしたのよ、カズマ君。グレンさんだよ? カズマ君もあんなに心配してたじゃない!」
「そう、心配だった」
 ――ソノ答エハ。
「なあ、グレン。あんたが本物なら、この質問に答えられるか?」
 見つけた。違和感の原因。
 グレンは軽く肩をすくめ、
「本当に疑り深いね。なんだい? なんでも答えてあげるよ。
 ちなみに、ここに来たのは偶然さ。ノエルから逃れるようにして車を走らせている間に、たまたまここまでやって来てしまったんだ。向こうには君たちも乗ったあの車が置いてあるよ」
「そんなことはどうだっていいさ。ここまで来ることは誰にだって可能だからな」
 それだけの時間はあった。時間さえかければ、車を持つグレンはだいたいどこにでも行けるだろう。
「じゃあ、君は何を疑っているんだ?」
「あんた、綺麗だよな」
「……は?」
 そう、綺麗なんだ。怪我がない。
「ノエルは言った。グレンを殺した、と。仮にそれがノエルの勘違いだとしても、グレンを殺したとあいつが思う程度にはダメージを与えたってことになる。それに実際、ノエルの刀には血のりが付いていた。
 もし、ノエルが刀であんたを傷つけ、それによって致命傷を与えたと勘違いしたならば。その傷は、どこにある?」
 しん、と静まり返った。
 ぽつり、と頭に何かが落ちてきた。見上げるまでもない。ぽつぽつと、雨が降り出していた。
「早すぎるんだ、あんたがここに来るには」
 魔法は万能じゃない。科学も万能ではない。技術が発展したとは言っても、瀕死の怪我はそう簡単に治るものじゃない。
「あんたがノエルに負わされた傷ってのはどれだ。それはどうやって治した。どうしてこれほどの短期間で、それほどの重症を完治できた」
 根拠と言えるほどの根拠じゃなかった。ただ、それがオレの疑問のきっかけ。
「カズマ、君? な、何を言ってるの?」
「クルル、何もかも都合が良すぎると思わないのか? たまたまノエルが死を見過ごし、あっという間に怪我を治療でき、そして意図なく訪れた場所にオレたちがいた。
 これじゃあまるで、誰かに仕組まれたみたい・・・・・・・・・・・じゃねーか」
 グレンから、友好的な笑みが消えた。
「それは、私がノエルとグルである――と、言いたいのかな」
「違うなら違うでいいぜ。どっちにしろ……」
 オレとグレン。動いたのは全くの同時。
「『かえるのした』!」
 オレはクルルを突き飛ばしつつ横に跳んだ。直後をグレンの魔法が通り過ぎる。
「はッ!」
 気合一閃。くん、と途中で曲がった水流がオレに向かってくる。
「『とかげのひとみ』!」
 魔法を迎撃し、オレはさらにグレンと距離を置いた。
「やっぱり、カズマ君、君はあの場で殺すべきだった。君は彼女と違い、人を疑い過ぎる」
「悪いな、オレにとって人ってのは信用するものじゃないんでね。あんたみたいな奴がいるからさ」
 ザッと肩幅に足を開いたグレンは、もはやクルルのことなど見ていなかった。ただオレだけを敵と認識し、オレだけを見つめ、オレに対する殺意を募らせている。
 その表情は、オレは見たことがないもの。飢えた、獣のような目だった。
「グレン=パイク。あんたは最初からノエルの仲間だったんだな。炎の洞窟に来たのも、ただ純粋に紋章を手に入れるため」
「その通りだ。だが、あの紋章は人を選ぶ。私は選ばれなかった。だから、選ばれた彼女を利用できるならそれに越したことはないと思った」
「なら、どうしてわざわざ下らない猿芝居を打った? そんな真似をせずともお前は十分にオレを殺してクルルを連れ去ることができただろう」
「それでは駄目だよ。私は『協力して欲しい』のであって、『奪いたい』わけではないのだからね。もっともそのあたり、私はノエルと話が合わないのだが」
「そうかい。ま、なんでもいいけどよ」
 あの時のグレンは、手を抜いていたのだろう。実際はノエルと同格に違いない。あの炎の魔獣さえ倒してしまえるグレンの能力。
 おそらく、オレでは太刀打ちなんてできない。それはわかりきっている。だけど、このまま簡単に逃げられるとも思えなかった。
 まずは、手傷を負わせる。話はそれからだ。
「諦めろ、カズマ君。君では私に傷ひとつ負わせることはできない。無駄に死ぬだけだ。こんなところで若い命を散らせる必要もないだろう? おとなしく投降したまえ。殺しはしない」
「バカ言うな」
 にらむと、グレンは小さく笑った。
「まさか、私が手加減するとでも思っているのかね。だとしたらそれは勘違いだ。私はやると決まれば一切の手加減はしない。君を殺しにいくぞ」
「殺せるもんなら殺してみやがれってんだ」
 ほんの少しだけ、グレンの瞳に色が揺らいだ。すぐに消えたそれは、オレには何の色なのかまでは判断できなかったけど。
「若い、な」
「おかげさまでね」
「惜しいことだ」
 ふー、とグレンは深く息を吐いた。
 チャンスだった。なのに、オレは動けなかった。
 グレンの持つ圧倒的な気。どこにも隙がない。どこから攻めても、カウンターを受けるイメージだけが脳裏によぎる。
「百戦錬磨、という言葉がある」
 ぴたり。グレンの拳と片足を前にした独自の構え。
 どこから、攻めればいい……?
「私はまさにそれだ。自分で言うのもなんだがね。各所で戦い、戦い、様々な経験を積んできた。多くの戦いを経験した私にとって、戦いは平時とさして変わらない。平時に緊張する者もいないだろう」
 グレンが動く。
 オレは地を蹴り、高々と宙に舞った。攻めるためじゃない。逃げるためだった。
 ただ単純に、オレは、グレンが怖かった。
 グレンがオレの真下に来た。視線が上を向き、
「『かえるのちょうやく』!」
「――ッ!」
 雨粒に逆らうように水流が跳ね上がる。オレは体をひねって一撃をかわすのが精一杯だった。
「緊張がないと自然な動きが可能になる。今の君とは逆にね」
 ぐるん、と体の周りを何かが駆け巡る。それがグレンの魔法と気づいた時には、すでに全身を縛られていた。
 世界が回転する。一秒にも満たない一瞬の後、オレは背中を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
「ガッ……ハッ!」
 口の中に鉄の味が広がる。それでも転がり、二撃目を避けた。
「今の君は、何故かは知らないがひどく緊張している。普段の動きから比べると素人同然だ。そんな動きでは私の攻撃をかわすことも受けることも、まして反撃することなど到底できまい。
 もっと真面目にやりたまえ。緊張を解きほぐし全力で私を殺しに来い。できないのであれば」
 ぐっと足に力を入れて立ち上がる。見上げた先では、さっきと寸分の違いもない姿勢でグレンが立ち塞がっていた。
「死にたまえ」
 それは、言葉通り、死の壁だった。