|
朝。有沢光子は、誰より早く学校に到着した。 まだ朝練さえ始まっていない。そんなに早い時間に来ても、もちろんすべきことは何もない。だが、彼女は毎朝、この時間に家を出ることにしていた。 より正確に言うのなら、この時間に家を出ると決めていた。 職員室で鍵を受け取り、教室に向かう。中に入ったら、鍵は教卓に放り込み、自分はいつもの席に陣取る。 後は、ホームルームまでの時間を、ただ過ごすだけだ。 やがて、部活組が練習を始め、その声が教室にも届くようになる。そんな声を聞くともなしに耳にしながら、ふと、有沢は顔を廊下に向けた。 それは、何かの予感だったのかもしれない。 「……?」 聞きなれない音。車の音だ。 この学校、車通勤の教師はいない。そもそも駐車場にはほとんどスペースがなく、教員とて例外なく電車通勤のはずだ。それなのに、こんな朝から、車? 有沢は廊下に出ると、窓を覗いた。ここからは校舎の裏側、駐車場のあたりがよく見える。 入ってきたのは、黒塗りの高級車だった。車の種類など詳しくない有沢にも、それが安からぬ代物だと理解できるほどの。 駐車スペースに車が停まる。運転手が先に下車し、後ろの扉を開いた。 「ッ!」 後部座席から下車した男の顔を見て、有沢の表情がこわばる。 グレーのスーツ。白髪交じりの黒髪。顔に刻まれたしわは深く、表情は険しい。 すぐさま体育教師の赤岩が男を出迎えた。そして、彼に案内されるまま、男も学校に入ってくる。 「な、んでッ!」 いてもたってもいられなかった。 有沢はなかば走るように階段を下りると、男が入っていったであろう場所――校長室に向かう。 ちょうど、校長室から赤岩が出てくるところだった。 「ん? おい、有沢、廊下は走るな……」 「邪魔!」 赤岩を押しのけるように、有沢はノックもせずに校長室に飛び込む。 校長室の中には二人がいた。 一人は校長。頭髪の薄い小柄な男だ。 そして、その向かいにいたのは、先刻の客人。 「はぁ、はぁ……、な、んで、あんた、ここにいるの!」 「光子。私はノックもせずに室内に入るよう教えた覚えはないが」 嫌味な口調。低く、重い声。 見間違うはずもなかった。そして、ここにいるはずのない男でもあった。 有沢宗太郎。彼女の、父親だった。 「そして、私が仕事の話をするために聖月を訪れるのに、わざわざお前の許可を得る必要はない」 「うるさい! 出てけ!」 「……相変わらず、お前は聞き分けがないな」 宗太郎は赤岩に視線を移す。 「赤岩先生。申し訳ありませんが、その子をお願いできませんか。この子がいては、話を進めることもできません」 「ああ、いや、はい、わかりました」 親子の対面にしてはあまりといえばあまりの光景。思わずあっけにとられていた赤岩だったが、思い出したように動き出すと、有沢を抱えるようにして外に追い出す。 「放せっ! 赤岩ァ!!」 「いいかげんにしろ、有沢! 仮にも父親だろう!」 「だからなんだ! いいか、お前、一秒でも長居してみろ! 今度はあたしが――!」 言葉は最後まで続かなかった。部屋の外に追い出された有沢は、ぎり、と歯を食いしばったまま、しかし言葉は届かないと口を閉ざす。 「どうしたんだ、お前らしくもない」 赤岩も驚いているようだった。有沢は態度は悪いが、ここまで声を荒げることも、めったにあることではない。肩で息をしながら扉をにらむ姿は、赤岩も初めて見るものだった。 有沢は答えない。それどころか、教師の言葉さえ耳に届いていない様子だった。 「有沢?」 「……」 やはり答えなかった。そのまま教師に背を向けた彼女は、足早に立ち去る。 赤岩は、その後を追わなかった。 ◆ 一方、校長室。 「娘が失礼をしました」 「いえ、それは構いませんが……」 校長も何かを聞きたい様子だった。察したのか、父親は苦笑を浮かべる。 「なに、あれは随分と私を嫌っていましてね。反抗期とでも申しましょうか、近頃は顔をあわせることもあまりなくなりました」 「はあ」 校長には、とてもそのような剣幕ではなかったように思えた。あれは、たとえるなら、親の仇でも見つけたような――。 まさか、と校長は思い直す。確かに有沢光子は、外見だけならば問題児だ。だが、実際に暴力事件を起こしているわけではない。素行に問題がないとは言わないが、それも、思春期に特有の『他人と同じにはなりたくない』という反ばく心からだろう。 少なくとも、実の父親を、仇などと。それでは、殺意を持っているかのような言い草ではないか。 「帰ったら娘にはよく言って聞かせましょう。それよりも、先に用件を済ませてしまわなければ。まさか、校長先生の業務時間をお邪魔するわけにもいきますまい」 そう言って、有沢宗太郎は机上の書類にペンを走らせる。それは、寄付金の納付書だった。 「いえいえ、そんなことはありません。ましてや、有沢さんなら、いつでもいらして構わないのですよ。昨年度も多額の寄付をいただきまして、本当に助かっております」 有沢宗太郎は首を横に振る。 「私は仕事で得た金の使い方を知りませんでね。聖月は私にとっても馴染み深い場所でもあります、その発展を願うのは、私からすれば、むしろ当然のこと」 「ははは、ご謙遜を。町中で有沢さんの名前を知らぬ者などおりません。これほど慈善事業に尽くされ、町に貢献してらっしゃる方も珍しいと」 「それこそ、成金が金の使い方を知らないだけの話ですよ」 宗太郎はそう言うが、実際、彼の名前は少しばかり知れたものだった。 友人と起業し、一代で業績を数十倍まで引き伸ばした立役者。たまたま時流に適合した、という運のよさもあったが、それ以上に、彼自身の先見性と気配りが功を奏したと言われている。 かといって、そうやって手にした財産を誇るのではなく、むしろ周囲に還元するかのようだった。実際、彼の資産の中で、まともな財産といえば自宅くらいなもの。本人は特別に着飾ることもなく、むしろ機能性重視。毎年、あちこちに多額の寄付を行なっていることでも有名だ。 地元の名士。そんな言葉が、よく似合う男だった。 今日も今日とて、そんな話。多忙なるこの男、こんな時間しか空白の時間はないのだ。 「そういえば今度、受験生向けの学校見学会を開催するのですが……」 学校説明会という名前だが、単に受験生やその親を集め、つまらない話をするわけではない。土曜日などの祝祭日に、あえて平常授業を行なう形式のものだ。 普段通りの授業を見学することで、受験生には実際の高校生活をイメージしてもらい、同時に、保護者には子供が勉強する環境をアピールできる。 そのぶん平日を休日にするので、在校生からの不満もあまりない。 「いかがですか。有沢さんも。土曜日ならば、少しは時間の余裕もおありでしょう」 有沢はほんの少し考え、首を横にふった。 「いえ、せっかくのお誘いですが。今週の土曜日は、どうしても外せない会議の予定がありまして」 「そうでしたか。それは残念。まあ、そういう催しもやっていますので、興味がおありでしたら是非どうぞ」 「ええ、覚えておきます」 そう言って、有沢は微笑を浮かべた。 |