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有沢が教室に戻る頃には、早めに来る生徒たちがちょろちょろと顔を見せていた。 荒々しく教室の扉を開いた存在を全員が目の当たりにし、さながらモーセのごとく、道が開かれる。 その最中を歩いた有沢は、自席に腰を落とした。 いつも有沢は不機嫌だ。だから、話しかける者はいない。 だが、今日は飛び抜けていた。その理由を知る者はなく、だからこそ、誰もが顔を見合わせるばかりで、何もできない。 「どうしたの、有沢さん」 と、そんな彼女に声をかける存在。笹森だ。 クラスメイトの中ではわりかし心を開いている相手。だが、それさえも今の有沢にとっては鬱陶しいだけの相手でしかなく。 「笹森。今のあたしは機嫌が悪い。近づかないで」 「何かあったの?」 ガタン、と机が跳ねた。飛びかかるように笹森のネクタイを締めあげ、 「聞こえなかった? 近づくなって言ってんだ」 「だから何があったのって聞いたんだ」 笹森もまた、一歩も引かなかった。それ自体は立派なものだが、今の有沢は、本気で殴りかねない勢いがあった。 「やめろ、有沢」 そんな二人の間に割って入ったのは、生徒会長の神山。有沢をひきはがし、 「笹森君。今は」 「……そう?」 なおも気にかかる様子ではあったが、ただ押すだけが意義ではないと思ったのか、笹森は自分の席に引き下がった。 有沢は神山をにらみ、 「あんたも」 「わかっている。――さすがに今日の君に、荒げるなと言うつもりはない」 神山自身、有沢の事情を知っているわけではないはずだった。だが、一年間の経験と、今日の有沢の態度から、それが尋常ではない理由に基づくものだということだけは察したらしかった。 神山もそこそこに引き下がる。さらに言葉を重ねるつもりもないらしい。時に、そっとしておくことも必要だ。 「……ちっ」 教室にいても、苛立ちが募るだけ。 有沢は教室を飛び出した。笹森はそんな彼女を見送っただけで、後を追うことはしなかった。 「何だったんだろうね、今日の有沢さん」 「さあ? なんかヤバかったよね」 教室のそこここで、今さっきの出来事に話題の花を咲かせるクラスメイトたち。 そんな中、神山は笹森に近づく。 「悪かったね。大丈夫だったか?」 「僕は。それより、何があったか知っている?」 「いや。教室に来て知ったくらいだ。だけど、一年の頃から彼女は知っている身としては、あんな彼女は初めて見る」 「神山君でも?」 生徒会長は頷き、 「そう特別に親しいわけじゃないし、彼女の何を知っていると聞かれれば、何も知りはしないんだがね。すくなくとも、あの様子は普通じゃない。さすがに、今日ばかりは何かを言えないさ」 「でも、何かあったなら、話を聞くくらいは……」 「それが全てじゃない。誰だって他人には話したくないこともあるだろう。彼女の、あの怒り方は、そういう雰囲気を感じた」 「――うん」 それは、笹森にも理解できる。 だが、あるいはだからこそか。彼には、ひどく気にかかった。 ◆ 有沢は、特に何を考えるでもなく、ひたすら足だけを動かしていた。 チャイムはとっくの昔に鳴り、ホームルームも始まっているだろう。フけたのは久しぶりのことだ。 だが、感情をもてあましているような現状、教室に戻る気は起きなかった。 できれば一人になりたかったが、あいにく、学内にそういう場所は少ない。聖月は、多くの学校と同じく、屋上は出入り禁止。図書室なんかは入れるかもしれないが、教師も入ってくるかもしれない。トイレなどは一人になれるが、そもそも長時間いるのに適していない場所でもある。 学内の、誰もこないような場所。そうなると、学校という場所は、案外とそういう場所が少ないことに気付く。 ともかく、校舎の中にいて良いことはあるまいと、有沢は外に出た。 中庭には人の姿もない。授業中だから当たり前だ。だが、あそこでサボっていれば、いくらなんでも目立つ。そうすれば、教師だって放置するわけにもいくまい。 煮立った感情と、それとは裏腹に冷静な思考回路。一人になれる場所を探し、有沢が足を向けた先は、チャペルだった。 基本的に、チャペルには黒木しかいない。そして、黒木は平日の授業時間、その大半を聖書学の授業に費やしている。逆に考えれば、平日の昼間は、チャペルには誰もいないということだ。 それでいて、ここは教会という立場上、鍵もかかっていない。さすがに黒木が使っているような私室や、聖堂などは鍵がかかっているだろうが――自習室などがあるあたりは、自由に入れる。 そう考え、チャペルに入った有沢。予想通りと言うべきだろうか、チャペルには人の気配が一切なかった。それは、彼女にとっては都合のいいことでもある。 そのまま二階にあがった。並ぶ自習室、鍵などそもそも存在しない場所である。内の一つに入ると、有沢は椅子に腰かけた。 机と椅子、壁掛けの安物時計。それしかない簡素な部屋。狭苦しいし、決して快適な場所とは言えないだろう。だが、一人になれるというだけで、今の有沢にとってはありがたかった。 「なんで、学校なんかに来るのよ……」 父親の顔を思い出す。それだけで、有沢の怒りは少しばかしボルテージを増す。 彼女は父親と不仲だった。いや、その言い方は正確ではないかもしれない。そもそも、父親は娘を相手にしていないのだから。 昔は、そうではなかったように思う。曖昧なのは、そもそも父親に関する記憶が極端に少なすぎるせいでもある。 有沢家が普通の家と違うのは、父親が起業したということだ。それも、一代で財産と呼べるような金を手にするほどに、だ。 それだけの金を手に入れるのと引き換えに、父は家族を犠牲にした。 思いだそうとしても、幼い頃に、父親の記憶はほとんどない。いつも彼女が眠った後に帰宅し、彼女が起きるよりも早く家を出ていた。あるいは、家に帰ってこない日も多かったと思う。 それでも、母は父に対して不満のひとつも言わなかった。母の口癖は、いつだって『あの人は不器用なのよ』。 それが、幼かった娘には理解できなかった。遊園地に連れて行くことも、遊んでくれることもない。小学校に進学する頃にはさすがに少しばかりの分別もついていたが、それにしたって不満はあった。それでも、母はいたから我慢していた。 「……不器用、ね」 きっと、母は惚れた弱みとやらで、見失っていたのだろう。あるいは最初から気付いていなかったのか。 あの男は、そもそも家族や家庭などという温かいものとは縁のない人間なのだ、ということ。 最悪なのは、母が死んだ日。それ以来、有沢は父親とまっとうな会話をなしたことがない。せいぜいが、先程のような口論とも呼べない感情の一方通行だけだ。 有沢は極力、父と顔を合わせないようにしている。帰宅するのは父が寝静まった後になる深夜。朝も、父親が起きてくるより早く家を出る。皮肉にも、それは幼い彼女が知る、父親と同じ行動だ。 一人暮らしをしたいところだが、未成年の彼女では、部屋は借りられない。一度、家の外をずっとふらふらしようかと思ったこともあったが、警察官に見つかって余計に煩いことになったので、それはやめることにした。 土日はバイトに精を出し、平日はできる限り学校に。親からこづかいなどというものも貰っていない。要求すれば、あの父親は渡してくるだろう。それが、彼女には不愉快で。だから、常にバイト代だけで生活するようにしていた。 当然、お金の余裕などない。遊びに行くこともできず、学校でまんじりと時間が過ぎるのを待つだけの日々。本当は夜のバイトもやりたかったが、事情も聞かず雇ってくれた喫茶店の店長とは違い、深夜バイトを高校生がやるには制限が多すぎた。 早く卒業をしたかった。成人してしまえば、何もかもを勝手にやることもできる。それだけが、今の彼女の生きがいだった。 それを知っている者は、学内には誰もいない。 |